海獣行列
船尾の水夫たちが血相を変えて逃げてくるのを見て、イルアンとセテは逆方向へと駆けだした。何とか態勢を整えたリアネスが二人の後を追うと、たどり着いた船尾は、もう膝の高さまで海面に沈んでいる。計測用の丸太が付いた綱が、水中の何かに引かれているのだ。
「綱を切り離すんだ!」
イルアンの叫びに応えて、セテは丸太を連ねている綱に小刀を打ち付けた。破裂するような音と共に綱が引き裂かれると、それは一瞬にして丸太ごと海の底へと引きずり込まれて行く。海水を吐きだして、船が一気に水平まで戻ると、その勢いに体を浮かされながらイルアンは再び叫んだ。
「ティック、頼む!」
「ほいさ!」
ティックは船尾に立つと、即座に竜脈を海原へと流し込み始めた。すると、まるでそれと呼応するかのように海が波立ちはじめ、無数の海獣たちが水面へと姿を現し始める。リアネスは思わず後ずさりして腰を下ろし、ひとつ深呼吸をして呟いた。
「デーフィとメイザスの間で見た海獣たちより、ずっと大きいわ。でも、なんだろう。」
綺麗。
そんな言葉が浮かんで、リアネスは自らの思考に困惑した。恐ろしい捕食者たちを前に、何を呑気なことを考えているのか。すると、セテが隣に座ってきて、まるで幼い娘のように海獣を指さしてはケタケタと笑い出した。勝手に名前を付けたり、次に動く方向を当てようとしてみたり。そんなセテを見ていたら、だんだんと怖がっている自分が情けなくなってくる。
「違うわよ。」
ああ、眺めているうち、つい声が漏れてしまった。
「え?」
「あの白い海獣、セテは、お腹を空かせているって言ったでしょう。でも、違うと思うわ。ほら、良く見て、あんなに眠そうなのよ。そろそろ船から離れていくんじゃないかしら。」
そう言って腰を上げたリアネスは、水面を覗き込むようにして海獣観察に加わった。しめしめと言わんばかりに、腕まくりをしたセテが楽しみ方を教えはじめる。六年経っても、この恐ろしく、雄大な海は何も変わっていない。セテは懐かしむように、愛しむように海獣を指さし続けた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
夜が来ても、海獣たちに囲まれている状況は変わらなかった。星を見た航海士に依れば、既に第十二大陸の方が近い位置まで連絡船は進んでいるのだという。
「リアネスは?」
「はしゃぎ疲れて寝てるわ。まるで、六年前の私みたいに。」
「当時の君は十歳だぜ?リアネスより三つも下じゃないか。仕方ないよ。」
「それを言ったら、あなただってリアネスの二つ下だったわ。その子供が、真夜中に一人で巨獣と話を付けてしまった。今回も、本当は、一人で終わらせようとしていたんでしょうけど、そうは行きませんからね。しっかり、この目で巨獣を拝ませてもらわなくっちゃ。」
イルアンは苦笑して軽く謝罪の仕草をすると、船尾で光り続けていたティックを伴って舳先へと向かった。凪の夜は、漕ぎ手たちにとって休息の時間だ。太鼓の音もなく、ただ甲板を歩く二人の足音だけが耳に届く。
「イルアン、あれ。」
セテが戦慄したのは、舳先にたどり着く数歩前のことだった。漆黒の闇であるべき前方の空間に、二つの青白い柱が浮かび上がっている。水晶を当ててティックの発光を強めてやると、その柱はまるで誘われるかのように連絡船へと近づいてきた。星明りの反射が柱の模様を浮かび上がらせる距離まで来たとき、セテは遂に、それが巨獣の頭部から生えた角なのだと思い至った。頭部だけでも連絡船の横幅と同じほどもある、圧倒的な巨体。牛か、羊か。その瞳はティックが放つ緑色の光を蓄えて爛々と輝いている――イルアンが支えてくれていなければ、気圧されて膝を崩していたに違いない。
「やあ、六年ぶりだね。」
イルアンが、まるで友人にするように語り掛ける。大きくも小さくもない、普通の声で語り掛ける。
「また海を渡りたくてね。前回よりも、少し多めに竜脈を残していけると思う。すまないが、住処を荒らすことを許して欲しい。」
目前の巨獣が首を傾げたのを見て、セテは言葉が通じていることを直感した。これが、毎年の連絡船を沈めている巨獣だというのか。固唾をのんで見守っていると、さらに不思議な光景が繰り広げられた。連絡船に触れようかという位置で巨獣が口を開き、中から人型の発光体が飛び出し、二人の前方に浮かんだのだ。ゆっくりと宙を漂って二人の前で静止したそれは、ご丁寧に服まで着こんだ青年の姿をしている。




