船を渡る
目前の甲板の上で沸き起こったどよめきに、シューノンは甘美な陶酔を覚えた。
「若旦那、こちらへ!小舟は、誰か代わりのやつが逃がしておきます。」
配下の男たちに引き上げられ、シューノンは中型船の上に立った。遅れて横付けしてきた大型船の縁までは、体二つ分ほどの高低差がある。標的は、中型船を経由して連絡船に向かう他あるまいが、そこには水城衆の猛者どもがひしめいているのだ。そう簡単に抜けられると思うなよ。
「もっとも、あちらが来るのを待ってやる理由もない。」
連絡船の出航は、今日この日と定められている。この『今日』というのは、日の出から日の入りまでのことを指しており、その間で連絡船を出航させたいのは水城衆とて同じなのだ。早々に標的を拘束した上で、連絡船の周囲を整理せねば。
「三人、付いてこい。向こうで一番の手練れはエンミャンだ。悪い腕じゃあないが、俺ならトビとまとめて相手をしても片手で足りる。万が一、俺たちが取り逃した奴が来たら、この船の上で何とか抑えてくれ。とくに、標的の娘は絶対に通すな。」
そう言ってシューノンは、槍を片手に中型船の端まで進んでいき、船腹ごしに上部の様子を伺った。妙に、静かだ。待ち構えている感じもしない。
「行くぞ。」
小声で言うなり、跳躍して大型船の船縁を掴んでひらりと舞い上がる。
一瞬で大型船の甲板に降り立ったシューノンは、反射的に槍を構えた直後、正面に悠然と胡坐をかいている女の姿に目を見開いた。
「ま、さか。今まで、一体どこに。」
「やれやれ、師匠との再会だってのに、第一声がそれかい。シューノン。」
女は深くため息を吐くと、面倒そうに首を鳴らした。
「まあいい、聞かれたことには答えてやろう。実は久しぶりの船が心地よくてな――結局、一度もメイザスに上がっていないし、いまだに上がろうとも思わん。私はずぅっと、この船の中にいたんだよ。さあ、これで満足かい?」
「…なるほど。小火騒ぎが起きても、少年が海に落ちて死にかけても、我関せずと船室で呑気に昼寝をしていたわけか。相変わらずの胆力、いや、鈍感力だな、ウージェン!」
消息を絶って七年。どこぞで寝たまま船と一緒に沈んでしまったかと思っていたが、まさか生きて相対することになるとは。
「昔の俺と思うなよ、今ならあんたの前に立っても、しばらくは戦える。」
シューノンはヒュンヒュンと槍を回して、腰を低く落とした。左右からエンミャン達が中型船へ飛び降りて行くのが見えたが、もはや構う余裕は無い。
「ほう、私を倒しには来ないのか。良いのかい?標的に逃げられちまうかもしれないよ。」
シューノンは小さく首を振って、にやりと笑った。
「水城衆は、俺が鍛え上げた精鋭だ。あいつらなら、きっと止めてくれる。つまり、」
遅れて甲板に登ってきた三人が、シューノンの横に展開して陣を組んだ。
「あんたの足止めさえ果たせれば、俺たちは勝てる。」
そう言って、シューノンは甲板に一人残された女傑に突進した。勢いを乗せて、空気を切り裂く閃光の突きを繰り出す。女の首元にそれが吸い込まれる寸前、その切先が天に向いた。見れば、女の足裏が槍の柄を蹴り上げている。
「おお、凄まじい速さだな。危ないところだった…七点だ。」
槍を引いて距離を取ると、女はようやく立ち上がって傍の棒を取り上げた。四人の襲撃者は、その間合いの外を円を描くように動き、付かず離れずを繰り返し始める。
さあ、時間稼ぎの始まりだ。
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手負いのリアネスには間違っても戦わせるわけには行かないから、割って入った中型船をひたすら駆け抜けることだけに集中させる。エンミャンが先行して飛び降り、水城衆を押し広げると、その後ろからイルアンとリアネスが、最後にセテとトビが飛び降りた。
「良いかい、私の棒は、腰より下には振らないようにする。だから、どんなに危険に見えても、恐れず這いつくばって進むんだ。向こうの端までは、それでなんとか辿り着けるだろう。」
その言葉の通り、エンミャンは回転するようにして棒を振り回し、水城衆の中に一筋の道を作った。その棒に守られながら、姿勢を低くしたイルアンとリアネスが進む。多勢に無勢ではあるが、がむしゃらに獲物を振り回している武者の前に立つ者は居ない。
「本来、あんな調子ではすぐに疲れてしまいます。手練れの水城衆であればこそ、エンミャンの疲労を待ってくれるでしょう。」
エンミャンの後ろを、セテとトビが背中合わせになって左右の敵を振り払っていく。右後ろから聞こえる短刀の鋭い風切り音に、イルアンは思わずその持ち主を振り返った。
「やはり、セテには敵わないな。」
人には得手不得手というものがある。そう頭では理解しているが、こうも女性陣に守られてばかりでは男が廃るというものだ。
いつか、俺も鍛え直して…
そんなことを考えているうちに、リアネスとイルアンは中型船の横幅を這い切った。三人が盾となり、その向こうでイルアンとリアネスが立ち上がる。あとは、登るだけだ。イルアンは上を仰いで、連絡船の縁を確かめた。
跳躍すれば、手が届く。
そのとき、
「伏せて!」
言葉より先に腕を引かれて、イルアンは姿勢を崩した。その一瞬前まで頭があった位置を風が横切り、がっと音を立てて連絡船の側壁に飛刀が突き立つ。
「気にせず早く登んな、長くは持たないよ!」
エンミャンはそう叫んだものの、第二投を構えた水城衆を認めてイルアンの肩に手を置いた。トビが、汗をぬぐって肩をいからせる。視線の先では、クーガの船の甲板上で目まぐるしく突き合う五つの人影が見えた。
「四対一とはいえ、姉さんが足止めされるなんて。」
戦い慣れていないセテは、既に周囲を見る余裕を失っている。トビ自身の握力も、まもなく限界だ。突き出される敵意を何とか打ち払いながら、トビは叫んだ。
「姉さん!」
早く、そう叫ぼうとした息が言葉になる寸前、腹に衝撃が来て、喉元の門が閉まる。
「トビ!」
倒れるなら、味方の側へ。最後の気力で後ろ向きに飛んで、腹に食い込んでいた鉄球から身を剥がす。
(こんな混戦で鎖分銅を使うなんて、指導不足ですよ、シューノン。)
明滅する視界の中で、思わずそんな恨み節が浮かんだ。即座にエンミャンが庇いに入るが、崩れた半円の隙間から、少しずつ水城衆の獲物がリアネスの立ち位置まで届くようになり、少女の腕に切り傷を作り始める。
「もう、行くしかない!」
先ほど連絡船に突き立った飛刀を手掛かりに、リアネスが思い切って連絡船へと登ろうと試みる。エンミャンは最早、それを止めることはしない。他に妙手も無いのだ――
しかし、
「あっ」
力を入れた瞬間、肩の矢傷から脱力感が広がり、リアネスは背中から甲板に落ちた。同時に、リアネスが手掛かりにした飛刀のすぐそばに、二つ目の飛刀が鋭く突き立つ音が響く。落ちていなければ、当たっていたが。
(ああ、今、行かなければならなかったのに…!)
情けなさを自省する間にも包囲は少しずつ縮まり、リアネスとイルアンが立ち上がる隙間すらなくなってくる。十人からなる水城衆に囲まれ、イルアンは迫りくる威圧感に唾を飲みこんだ。
(俺が、真っ先に登らなければいけなかったんだ。たとえ、飛刀を喰らったとしても…!)
肩で息をするエンミャンの背を見つめながら、イルアンの脳裏にもまた、後悔の念が浮かび始めた。




