EPISODE64 メヴァーエルのどくぼう
『病は気から。難しい事は考えず、胎の子の要求だけを聞いていろ』。
ペラッカが何度も念を入れて言い聞かせられた事のいくつかの内、やっと覚えられたのはそれだけだった。他にも何か色々言っていた気がするが、覚えていない。ペラッカはすぐにハーヤーを呼び出そうとした。しかし兵士に理由を聞かれ、妊娠についてだと話すと、許可できないと言われてしまった。
「御身に危険が及ぶかもしれません。妊婦同士以外の交流は禁止する様にと、陛下から賜りました」
「そんな! そうしたら、裁判の様子が分からない!」
「それでしたらご心配には及びません。レラー殿が候補に挙がり、快諾されました」
「あの子にそんな難しい事できるわけないじゃない!」
「法廷記録を持ってくるだけですから。それより、聖女様。お世話をなさってる方、女性ですよね」
カッと顔が熱くなって、ペラッカは兵士の兜を叩き落とした。
「あたしの友達に近づかないで!!! ぶっ殺すよ!!!」
「それは困ります。今殺人行為は母体に大きな負担がかかりますので」
「ああそう、じゃあ分かった。彼女に近づくな。食事もあたしが同じ皿からより分ける。触っていいのはあたしだけ。もし守れないんだったら、腹を包丁で掻っ捌いて、赤ちゃんを引きずり出すからね!!」
「そのような例えはおやめください。想像による母体へのストレスは不安の原因になります」
「じゃあ言わせるな!! この無能兵士!!」
がつん、と、兜を顔に投げつけると、兵士はすごすごと出て行った。
誰にも話せないのか、話せたとしてあの頭のすっからかんなレラーなのか。そう思うとぼろぼろと瞳が零れ落ちた。涙が流れている訳ではないのに、目が痛くて、鼻の奥が詰まって、息が苦しい。泣いているのに、泣いていない。身体が震えて、吐き気がする。お腹に赤ちゃんがいるという自覚はないが、腹の中がぐるぐると回っている感じがする。舌がぺたんと動かなくなって、食べ物も飲み物も口に出来ない。
次の日には倒れてしまい、心配したレラーがやって来た。少し見ない内に、レラーも少し太った気がするが、妊婦かと言われるとそう見えない。太腿も二の腕も顎周りも、勿論腹も、バランスが取れたまま太っている。
「びっくりしたよペラちゃ~ん! 駄目だよう、無理しちゃ! 赤ちゃんに悪いよ~」
「………」
「ペラちゃん? どうしたの?」
「………。ねえ、どうして、レラー、は…。妊娠、悲しくないの?」
「え~? なんで~? お母さんになるんだよ? しかもお父さんはマルクだよ? 絶対可愛い、イケメンの赤ちゃんが生まれるよ!」
呑気すぎる答えに、ペラッカは思わず手を振り上げてレラーを殴りつけた。レラーはずべんと転んだが、その時、咄嗟にお腹を護ったのをペラッカは見逃さなかった。本能的に護ろうとしたのだろうか。監視の兵士に抑えられながらもペラッカが叫ぶ。
「何でアンタ達って、イケメンってワードにしか反応しないの!? 赤ちゃん出来るって分かっててヤったの!? え、え、えっちって、そう言う事じゃないでしょ!?」
「え~? そういうもんじゃない? マルクの事はよく知らなかったけど、面白そうだったし、えっちしてみたかったし~」
「だって、恋人でもないのに!」
「えっちが上手く行ったら、恋人になるかもしれないじゃん? ペラちゃんもマルクの赤ちゃん、妊娠したんでしょ? なんでそんなに怒ってるの? ウチらママ友じゃ~ん。仲良くしようよ~」
マルクの赤ちゃん、という言葉を聞いて、ペラッカは狂ったように叫び声をあげ、じたばたと暴れて兵士の手を振りほどき、レラーに飛び掛かり顔を引っ掻いた。
「アンタ達が!!! そんな考えだから!!! あたしが孕まされたんだ!!! もう二カ月もしたら、あんな男を産まなきゃなんないあたしの気持ちがアンタに分かるか!!! この売女! 淫売! 姦婦!!」
「国母様、国母様! お腹に障ります、落ち着いてください! レラー殿も大切なお体です、おやめください!」
「ペラちゃん駄目だよ怒っちゃ! お腹に悪いよ!」
「お前が言うな!! 死んじまえ死んじまえ!! 子供諸共死んじまえ、この肉便器がァ!!! うわああああああああーーーーッ!!!!」
孕ませた、と言われてから、初めてペラッカは、大声で泣いた。相変わらず涙は出ない。けれども喉が震え、涙を散らかすように口から唾が飛ぶほどに叫ぶ。指先が震え、肘が動き、肩が暴れて物を壊す。投げるものが無くなると、ぶちぶちと髪を引き千切った。監視の兵士とレラーが消えたドアに罵声を浴びせる事もなく、ぺたりと腰を下ろして泣き叫ぶ。
どうして、どうして、どうして。恋だって知らないのに。
どうして、どうして、どうして。死んでほしいなんて思っていないのに。
どうして、どうして、どうして。皆と一緒に笑っている未来だと思っていたのに。
どうして、どうして、どうして。旅は確かに楽しかった筈なのに。
カチャン、カチャカチャ…かちゃん。
指の根元に髪が絡みつき、一本の紐のようになったころ、何か音がした。音のする方を見ると、それはベッドだった。ベッドに眠る少女が、首を振って音を出している。
サンダルフォナが、気付いたのだ。
「サン…サン、サン、サン!!」
泣き叫んで名前を呼び、駆け寄る。顔は、あの時打った薬物の影響が如実に現れ、年頃の女の子らしさはもうない。あの戦いを生き抜いたその執念が、今の彼女の身体を作っている。
「お、あ…あ?」
「サン、気付いたんだね。あたしが分かる?」
「え、え、あ、っか」
「そう、ペラッカだよ。貴方はサンダルフォナ。サンダルフォナだよ。分かる?」
「え、ぇえ?」
「サンダルフォナなの。貴方は、サンダルフォナなんだよ…」
ぽろぽろ、と、今はここにはいない、同じように舌が不自由になった友を想う。首を僅かに動かすことしか出来ない彼女の肩を抱きしめ、わっと泣いた。今度はきちんと、涙が出た。
「あああ…ああああ…。どうして、どうして、貴方の意識が戻るのを、カリエラは一番一番一番、誰よりも待ってたはずなのに、どうして、どうして…」
「え、えあ? えあ?」
「いいんだよ、サン。サンは絶対助けてあげる。約束したんだ、カリエラと。正気を保った最後の言葉で、約束したんだよ。『サンダルフォナを助けて』って」
記憶の中で、頼んだよ、と、笑う笑顔があまりにも切なくて、ペラッカは涙を拭った。
その日の夕飯も、あまり食べられなかった。
翌朝、腹の子供は腹が減っているらしく、無性にペラッカは腹を満たしたい気分になり、いつもより数時間早く、朝食を用意させ、がつがつと貪った。しかし舌が動かないのは変わらず、口に詰め込んでも呑みこめない。無理矢理水を飲もうとするが、コップを握った腕が動かなかった。結局一口二口、形だけ噛んで強引に呑み込むと、吐き戻してしまった。
「ペラッカさん、ペラッカさん!」
ばんばんばんばん、と、扉が叩かれる。ヨナだった。彼もペラッカの立場は知っている筈だが、国母と呼ばないのは、彼なりの気遣いだろうか。ちょっと待って、と答えて、ペラッカは口を漱いでから扉を出た。
「どうしたの? こんな朝早く―――」
「大変です、メヴァーエルさんが、彼女が」
「落ち着いて! どうしたの? まさか処刑が―――」
「それにかかわります、陣痛が来たらしいんです! とにかく、今のぼくだけでは行けません。貴方が一緒なら、きっと通して貰えます。彼女の弁護を何としても受けなければ、子供が生まれれば変わるかもしれません!」
子供が生まれれば変わる。
その言葉にどきりとする。だが、今はそんなことより、友人の方が先だ。見張りの兵士の前で部屋に鍵をかけ、勝手に入られないようにその鍵を奪い取り、走った。すぐに脇腹が痛くなる。腹が重いのだろうか。それに気付いたヨナが、手を取り引っ張ってくれる。息が上がって苦しくて、それでも転びそうになるとヨナが支えてくれ、最終的には肩に担いでくれた。
どこか医療の場にいるのかと思ったが、メヴァーエルは前回行った場所と同じ場所にいるらしい。兵士の数も少ないが、マルクが来ていた。辺りは静かで、物々しい。メヴァーエルの声すら聞こえない。
「通して!! あたしはメヴィの友達なの!! とおしなさい!!」
「ぼくは弁護士です、彼女には面会する権利があります!」
「通せって言ってんでしょこのスッテンテン!」
げしっと兵士を押しのけて蹴り倒し、ペラッカは中へ飛び込んだ。
むわっとする血の臭い、汗の臭い、それから恐らくだが、つんとした小便の臭いもする。メヴァーエルの服は、あのこじゃれた服ではなく、灰色のジャージだった。ズボンは脱がされ、足環の鎖にずれ落ち、パンツは破れ、特大の経血の塊が股の傍に引きずり出され、ぐしゃぐしゃの陰毛からやけに長いタンポンの紐が出ている。その紐は腹の上を通って―――メヴァーエルの手の中にいる、小さな黒い人形に繋がっていた。
「め、メヴィ? 大丈夫? それ何?」
「………」
「メヴィ、ねえ、ねえったら!」
「うるさい!! うちを嘲笑いに来たの!?」
今まで聞いたことのない声だった。メヴァーエルは鋼鉄の擦り合う様な歯ぎしりをしながらペラッカに向かって叫んだ。
「見ての通りよ! うちは死産したわ、どう? 無様でしょ惨めでしょ!? この子がお腹の中で生きていたら、うちはマルクに必要とされてたのに!! 赤ちゃん死んじゃった、死んじゃってたんだもん!! 死んじゃってたから勝手に降りてきちゃったんだもん!! あんなに痛かったの、うちだけだったんだもん!! うち、赤ちゃん欲しかったのに!! 欲しかったのにぃぃぃっ! わあああああん!!!」
死んで生まれる事もある、という事を知って、一瞬芽生えた感情は、何と言うものだったのだろうか。
安堵か、恐怖か、恩讐か、慈悲か。
分からない。分かりたくもなくて、一瞬で蓋をしてしまった感情。泣き叫ぶメヴァーエルを、可哀想と思えない理由。同じ女なら、妊婦なのなら、悲しまなくてはならないのだ。だから涙を流さなくちゃ。可哀想だね、と言わなくては。残念だったね、と言わなくては。
「メヴィ…その、なんて…言ってほしい?」
しまった、と、ペラッカは自分の失言に気付いたが、遅かった。メヴァーエルは手に黒い赤ん坊を抱いたまま、生まれたばかりの草食動物のような足を震わせ、ペラッカに詰め寄った。
「聞いたよ、アンタ、産みたくないんだって?」
「え…っ」
「うちはマルクの子供が欲しかったし、産んでその子が王様になるところ見たかった!! なのに何で、アンタはお腹も膨らんでないのに、もう『国母』なの!? うち、すっごく痛かったんだよ! すっごく痛かったのに、赤ちゃん死んでたんだよ! ほら分かる? 見てよ、ここ、小さなおちんちんがあるでしょ? この子、男の子だったんだよ!! 生きてたら王様になれたんだよ!! 取り替えてよ!!!」
取り替えて。
その言葉に我慢が出来なかった。ペラッカは恐らくその時、殺意にも似た怒りを覚えた。友人を叩く事は、初めてじゃない。けれども、大切そうに庇うその腕を引き剥がし、馬乗りになって頭を殴るなんてことは、今までしたことはなかったし、見た事も無かった。自分で自分を押さえられない。
「取り替えられるもんならあげるよ!! あたし国母なんてなりたくない!! アンタが孕んだのは自分の責任でしょ!? レラーと一緒にヤッたから罰が当たったんだよ、この淫乱! あたしなんて、あたしなんて知らない内にたまご入れられて妊婦にされたんだよ!? この気持ちがアンタに分かんの!? 分かるんだったら取り替えてよ!! アンタにあげるよ、この腹の中の異物を!!」
「ペラッカさん、落ち着いて! メヴァーエルさんから離れて!」
止めてください、と、ヨナが引き剥がす。メヴァーエルは大泣きしながら、弱々しい脚で、ペラッカを蹴った。本当に弱くて、泣いて暴れている足が当たったと言っても十分に通じただろう。
しかしそれを見たマルクが、即座に叫んだ。『確保』と。
兵士達がメヴァーエルに群がり、未だ股から血を流しているメヴァーエルを押さえつけ、縛り上げた。
「痛い痛い痛い! マルク、ごめんなさい! 次は、次はちゃんと産むから、だからお願い、赦して―――うちまだ死にたくない!!」
「『国母への傷害罪』。罪状はそれに変更しておいてやる。ペラッカ、ヨナ弁護士。ここから出て行け。裁判はもう済んでる―――明日から、裁きの執行だ」
嫌だ嫌だと、メヴァーエルが泣き叫ぶ声が遠い。ヨナが何か言っている。何を言っているんだろう。
「何を、言ってるの」
舌は上手く動いただろうか。声は上手く出ただろうか。だが、マルクはなんでもないように踵を返し、その問いに答えてから部屋を出て行った。
「明日から、随時戦犯の首を切る。ギロチンの準備をしておけ」
誰かが、叫んだ気がする。誰か女が叫んでいた。分からない。
ただ、見ないようにしていた破滅が、間近に迫っている事だけは分かった。




