第90話 10年ぶりの買い物
理容室を出た二人は、街を歩いていた。
蓮は、先ほどまで着ていたスウェットのままだった。髪は整えられ、髭も綺麗に剃られている。
昨日までとは、まるで別人だ。
そのため――
「……ねえ、あの人」
「え?」
「めちゃくちゃイケメンじゃない?」
すれ違った女性たちが、蓮を振り返る。
「モデルかな?」
「俳優じゃない?」
「でも……」
一人が蓮の服を見る。
「なんでスウェット?」
「ほんとだ……」
「顔はあんなにイケメンなのに」
「逆に目立つね」
そんな声が聞こえてくる。美月は苦笑する。
「……やっぱり目立つね」
「……?」
蓮は不思議そうに美月を見る。
「何かあった?」
「ううん。何でもない」
蓮は気にせず歩き続ける。
自分が周囲からどう見られているのか。本人には、あまり分かっていなかった。
◇
「ここにしよう」
美月が一軒の服屋の前で足を止めた。
「……服屋?」
「うん」
二人で店内へ入る。美月はすぐに服を見始めた。
「これ、似合いそう」
「……そうか?」
「うん。ちょっと着てみて」
「……分かった」
美月が選んだ服を受け取り、蓮は試着室へ向かう。
しばらくして――
「どう?」
蓮が出てくる。
「うん。いいね」
美月は頷く。
「次はこれ」
「……また?」
「まだ一着目だよ」
「……そうか」
その後も、美月は次々と服を選んでいった。
シャツ。パンツ。上着。普段着。
蓮は言われるまま試着していく。店員も、蓮の姿を見るたびに少し驚いていた。
「すごくお似合いですね」
「……そうですか」
「はい」
蓮は自分の姿を鏡で見る。だが、特に感想はない。
ダンジョンで生きていた十年間。服を選ぶことなどなかった。動きやすく、丈夫ならそれでよかった。
「じゃあ、これとこれと……」
美月が選んだ服をまとめていく。
そして――
「これください」
美月が店員へ声をかけた。店員が商品をまとめる。
「ありがとうございます」
そのときだった。
蓮が、ふと立ち止まった。
「…………」
「どうしたの?」
「……これ」
「うん?」
「……お金、いるのか?」
「…………」
美月は一瞬、黙った。
そして――
「……うん」
蓮は自分の服を見る。そして、自分の持ち物を確認する。
財布。
――ない。
そもそも、地上で使える金など持っていなかった。
「…………」
蓮は少し考える。
「……じゃあ、また今度でいい」
「え?」
「……お金、ない」
美月は思わず苦笑した。
「うん。知ってるよ」
「……?」
「蓮がお金持ってないことくらい、分かってる」
蓮は黙って美月を見る。
「だから大丈夫」
「……大丈夫?」
「うん」
美月は財布を取り出した。
「私が払うから」
「……いいのか?」
「もちろん」
美月は笑う。
「これでも私、Aランク冒険者だから」
「…………」
蓮の表情が変わる。
「……冒険者?」
「うん」
蓮はその言葉を繰り返す。
「冒険者……?」
「そう」
美月は少し驚いた。そこで初めて気づく。
蓮は――
今の世界の冒険者について、ほとんど何も知らない。
当然だ。十年間、ダンジョンの中にいたのだから。
「……そうだったね」
「……?」
「そこから教えないといけないんだ」
美月は少し笑う。
「冒険者っていうのはね――」
「…………」
蓮は黙って聞こうとする。
けれど、美月はそこで言葉を止めた。
「……今日はいいや」
「……?」
「まずは服を買おう」
「……うん」
「冒険者のことは、また教えるから」
「……分かった」
美月は店員へ向き直る。
「これ、お願いします」
「ありがとうございます」
会計を済ませる。蓮はその様子をじっと見ていた。
自分のための服。美月が払っている。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
美月は笑った。
「じゃあ、次は靴ね」
「……靴も?」
「うん」
「……まだ買うのか」
「当たり前でしょ」
美月は楽しそうに笑う。蓮は少しだけ困った顔をした。
ダンジョンで十年間。魔物と戦うことには慣れていた。危険な場所を進むことも。命を懸けることも。
けれど――
服を買うことには、まったく慣れていなかった。
◇
買い物を終える頃には、蓮の手にはいくつもの袋が増えていた。
普通の服。下着。靴。そして、これからの生活に必要なもの。
どれも、蓮にとっては十年ぶりのものだった。
「疲れた?」
「……少し」
「ふふっ」
美月は笑う。
「ダンジョンより?」
「……別の意味で」
「そっか」
二人は並んで歩く。
今度の蓮は、スウェットではない。普通の服を着ている。街の中にいても、もう違和感はない。
――ただし。
「……あの人、やっぱりイケメン」
「さっきの人じゃない?」
「隣の女性、美月さんじゃない?」
「え、本当?」
今度は服装ではなく、顔で目立っていた。
美月は周囲の視線に気づき、苦笑する。
「……服を変えても目立つんだね」
「……そうなのか?」
「うん」
蓮は周囲を見回す。けれど、何がそんなに珍しいのか分からない。
美月はそんな蓮を見て、また笑った。
「まあ、いいか」
「……?」
「少しずつ慣れていけばいいよ」
「……うん」
十年間。
蓮は、生きるために必要なものだけを手に入れてきた。
食べ物。水。武器。防具。
そして――
生き残るための力。
けれど今は違う。
普通の服を買う。靴を選ぶ。店でお金を払う。
そんな当たり前の日常を、少しずつ取り戻していく。
蓮にとって――
それもまた、十年ぶりの「日常」だった。




