第1話 普通の日常
朝。
カーテンの隙間から差し込んだ光が、部屋の床を細く照らしていた。
「蓮ー! 起きなさい!」
階下から聞こえてくる母親の声。
「……ん……」
布団の中でもぞもぞと動き、黒瀬蓮はゆっくりと目を開けた。
眠い。
もう少しだけ寝ていたい。
そんな誘惑に負けそうになりながら、蓮は枕元に置いていた時計を見る。
「……七時二十分」
まずい。
「やばっ!」
蓮は勢いよく布団から飛び起きた。
制服に着替え、鞄を掴んで階段を駆け下りる。
「おはよう!」
「おはようじゃないでしょ。もう少しで遅刻よ」
キッチンでは母親が朝食を並べていた。
「父さんは?」
「もう先に食べてるわよ」
「おう、蓮。おはよう」
新聞を片手に、父親が笑う。
「おはよう、父さん」
テーブルには焼いたパンと目玉焼き、サラダ。
どこにでもある、普通の朝食だった。
「ほら、座って。食べないと学校に間に合わないわよ」
「いただきます」
蓮は席につき、パンを頬張る。
「熱い!」
「急いで食べるからよ」
母親が呆れたように笑う。
父親も新聞から顔を上げて笑った。
「今日は帰り遅いのか?」
「たぶん普通。部活もないし」
「そうか。じゃあ夕飯までには帰ってこいよ」
「うん」
それだけの会話。
特別なことなんて何もない。
昨日と同じ。
明日もきっと同じ。
蓮はそう思っていた。
それが当たり前だった。
朝になれば起きる。
学校へ行く。
友達と話す。
家に帰れば両親がいる。
夕飯を食べて、風呂に入って、眠る。
そんな毎日。
十五歳の蓮にとって、それが「普通」だった。
◇
「蓮!」
家を出て少し歩いたところで、後ろから声がした。
振り返る。
「美月」
そこにいたのは、神崎美月だった。
「おはよう」
「おはよう。今日もギリギリ?」
「……まあ」
「また?」
「起きられなかった」
「昨日もそう言ってたよ」
「昨日もそうだったから」
「それ、反省してないでしょ」
美月が呆れたように笑う。
蓮も笑った。
二人は並んで歩き始める。
幼い頃から、ずっと一緒だった。
家が近く、学校も同じ。
特別な約束をしなくても、自然と一緒になる。
「そういえば蓮」
「ん?」
「数学の宿題やった?」
蓮の足が止まった。
「……」
「やってないの?」
「……忘れた」
「やっぱり」
美月はため息をつく。
「見せないよ」
「お願い」
「駄目」
「美月」
「駄目」
「一問だけ」
「全部やってない人が一問だけって言う?」
「……」
「ほら、学校着いたら最初にやりなさい」
「はい……」
蓮は肩を落とす。
美月が笑った。
「でも、蓮って昔から変わらないよね」
「そう?」
「うん」
美月は少しだけ蓮を見る。
「昔から、なんだかんだで楽しそう」
「楽しいからじゃない?」
「何が?」
「毎日」
蓮は何気なく答えた。
「家に帰れば父さんと母さんがいるし、美月もいるし。学校も普通に楽しいし」
「……そっか」
「うん」
蓮は前を向いた。
青い空。
穏やかな風。
いつもの通学路。
いつもの朝。
何も変わらない。
だからこそ、蓮は疑わなかった。
この日常が、ずっと続くのだと。
◇
学校では、いつものように授業を受けた。
休み時間には友達とくだらない話をする。
昼休みには弁当を食べる。
放課後には美月と少し話をしてから帰る。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
校門の前で別れる。
「蓮」
「ん?」
「宿題、忘れないでね」
「分かってる」
「絶対?」
「絶対」
「じゃあね」
「また明日」
美月が手を振る。
蓮も手を振り返した。
そして、一人で家へ向かう。
夕方の空は少し赤くなっていた。
家に帰れば、母親がいる。
父親も帰ってくる。
夕飯を食べながら学校の話をする。
きっと今日も、昨日と同じ夜になる。
蓮はそんなことを考えながら歩いていた。
そして――
家の扉を開ける。
「ただいま」
返事を待つ。
いつもなら、
「おかえり」
と母親の声が返ってくる。
今日もそうだと思っていた。
けれど。
「……」
返事がない。
蓮は少し首を傾げた。
「母さん?」
家の中は静かだった。
それでも、この時の蓮は何も思わなかった。
ただ、少しだけ不思議に思っただけだった。
この時はまだ。
この「普通の日常」が、もうすぐ終わることを。
十五歳の蓮は、何も知らなかった。




