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『松風ののち』

 先生の茶室に入るとき、私はいつも息を浅くした。


 名は、松庵。


 町の外れにある古い屋敷の奥に、その茶室はあった。露地には濡れた飛び石が並び、蹲の水は、朝の光を小さく揺らしていた。にじり口の前で膝を折るたび、私は自分の身体が大きすぎる気がした。


 頭を下げる。


 肩をすぼめる。


 手を畳につく。


 身を低くして入る。


 それだけのことに、いつも胸の奥が詰まった。


 茶室は四畳半だった。


 床には白い椿が一輪。掛物は、私にはまだ読めない古い筆だった。炉のそばに釜がかかり、湯の音がしている。


 しゅん。


 しゅん。


 松の梢を風が渡るような音。


 先生は、それを松風と呼んだ。


「音を聞きなさい」


 初めてここへ通った日に、先生はそう言った。


「茶室では、先に音が整う。人間は、そのあとです」


 私はその意味がよく分からなかった。


 分からないまま、三年が経った。


 先生は厳しい人だった。


 茶碗の向き。

 帛紗を捌く指。

 柄杓を置く角度。

 畳の縁を踏まない足。

 挨拶の深さ。

 沈黙の長さ。


 一つ乱れるたびに、先生の目が私の手元を刺した。


「雑です」


 それだけで、私は汗をかいた。


 怒鳴られたことはない。

 けれど、先生の静けさは怒鳴り声よりも逃げ場がなかった。


 私は茶とは、乱れを消すものだと思っていた。


 余計な音を消し、余計な動きを消し、余計な感情を消す。

 最後に残った一碗だけを、客の前へ差し出す。


 そういうものだと思っていた。


 その日は、秋のはじめだった。


 露地の苔は雨のあとで深く沈み、草履の裏にしっとりとした冷たさが移った。私は少し早く着き、待合で膝を揃えていた。客は私ひとりだった。


 先生は、もう八十を越えていた。


 それでも背筋は、いつ見てもまっすぐだった。白い髪をきちんと撫でつけ、薄い鼠色の着物に、深い藍の袴をつけている。動きはゆっくりだが、ゆるみはなかった。


 茶室に入ると、先生はいつものようにそこにいた。


 炉のそば。


 釜の前。


 何も言わず、ただ一礼した。


 私も深く頭を下げた。


 釜が鳴っている。


 しゅん。


 しゅん。


 炭の匂い。

 畳の匂い。

 濡れた土の匂い。

 茶室の空気は、いつものように低く澄んでいた。


 先生の手が、棗へ伸びた。


 帛紗が畳の上で紅く折られる。

 その動きに、私は目を奪われた。


 先生の指は細くなっていた。


 以前より節が目立つ。

 皮膚は薄く、爪の色も白い。

 それでも、指先の運びは寸分乱れない。


 私は、少し恥ずかしくなった。


 老いた手でも、これほど整う。

 若い私の手は、まだいつも騒がしい。


 茶杓が置かれる。


 茶碗が正面に据えられる。


 茶筅が湯に浸され、小さく鳴った。


 しゃ。


 しゃ。


 釜の松風と、茶筅の音だけがあった。


 そのとき、先生の左手が一瞬止まった。


 本当に、一瞬だった。


 茶室に慣れていない者なら、気づかなかったと思う。

 ただの間。

 ただの呼吸。

 そう見えたはずだ。


 けれど私は、気づいてしまった。


 先生の肩が、ほんのわずかに落ちた。


 次に、袴の裾の影が濃くなった。


 炉の光が揺れたのかと思った。

 にじり口から入る陽が、雲で陰ったのかと思った。


 違った。


 畳の目に沿って、淡い湿りが広がっていた。


 音はなかった。


 あったのは、松風だけだった。


 しゅん。


 しゅん。


 茶室の低いところに、別の湿りが沈んでいく。


 茶の香りの奥に、身体がどうしても隠しきれない匂いが混じった。


 私は息を止めた。


 止めたつもりだった。


 けれど、鼻はもう知っていた。


 先生の手は動いていた。


 何事もなかったように、茶杓で抹茶をすくう。

 茶碗の中へ、青い粉が落ちる。

 湯が注がれる。

 茶筅が立つ。


 しゃ。


 しゃ。


 しゃ。


 いつもより、ほんの少しだけ音が荒かった。


 私は膝の上で指を握った。


 見てはいけない。


 そう思った。


 だが、見ないようにしようとした瞬間から、私はもう見ていた。


 畳の色。

 袴の裾。

 先生の横顔。

 茶碗の中で泡立っていく薄い緑。

 すべてが、いつもよりはっきり見えた。


 先生は何も言わなかった。


 私も、何も言えなかった。


 もしここで声を出せば、何が起きるのか。


 先生、と呼ぶ。

 大丈夫ですか、と言う。

 立ち上がる。

 手ぬぐいを探す。

 障子を開ける。

 人を呼ぶ。


 そのどれもが、正しいようで、何かを壊す。


 茶室は狭い。


 逃げ場がない。


 正しさを置く場所も、あまりない。


 目の前の人は、私が憧れた先生だった。

 この茶室で、何十年も人を迎え、何百何千という一碗を差し出してきた人だった。


 その人の身体が、今、ほんの少しだけ先に老いた。


 心でも、作法でも、精神でもなく。


 身体だけが、先に崩れた。


 それを私が見つけてしまった。


 先生の茶筅が止まった。


 茶碗の中には、きめの細かい泡が立っていた。

 いつものように、美しかった。


 先生は茶碗を回し、私の前へ出した。


 その手は、震えていなかった。


 私は、両手を畳についた。


 頭を下げる。


 教わった通りに。


 深すぎず、浅すぎず。


 そして茶碗を受けた。


 熱かった。


 掌に、茶碗の温度が移った。

 釉薬のわずかな凹凸が指に触れた。


 先生の前で、この一碗を受け取らないという選択はなかった。


 受け取れば、何もなかったことになる。


 受け取らなければ、すべてが起きたことになる。


 私は茶碗を回した。


 一度。


 二度。


 教わった通りに、正面を避ける。


 茶の香りが立った。


 その奥に、濁ったものがあった。


 鼻の奥がきゅっと縮んだ。

 喉が、勝手に拒もうとした。


 それでも私は、茶碗を口へ運んだ。


 ずず。


 音を立てる。


 いつもより、少し大きく。


 茶は熱かった。


 苦みが舌に乗り、湯の熱が喉を通った。

 青い香りが、濁った空気を少しだけ押し戻した。


 私は飲んだ。


 もう一口。


 もう一口。


 最後まで。


 茶碗の底が見えた。


 私は茶碗を置き、指先で飲み口を拭った。


 懐紙を出す手が、少し震えた。


 先生は、その震えを見ただろうか。


 分からなかった。


 先生はただ、静かに座っていた。


 炉のそばで。


 袴の裾を、少しも動かさずに。


 私は茶碗を返した。


「結構なお点前でございました」


 声は、思ったより普通に出た。


 それが、ひどく怖かった。


 先生は、わずかに頭を下げた。


「お粗末でございました」


 その声も、いつもと同じだった。


 いつもと同じであることが、こんなにも重いとは思わなかった。


 釜が鳴っている。


 しゅん。


 しゅん。


 露地の方で、鳥が一度だけ鳴いた。


 私は立ち上がらなかった。

 先生も立ち上がらなかった。


 ただ、茶室の中に、二人で座っていた。


 畳の上の湿りは、まだそこにあった。


 何もなかったことには、なっていなかった。


 けれど、何かが終わったことにも、してはいけなかった。


 私はもう一度、深く頭を下げた。


 にじり口へ向かう。


 手をつく。

 膝を送る。

 身を低くする。


 外へ出る直前、私は茶室の方を振り返りそうになった。


 振り返らなかった。


  露地の石は、まだ雨を含んでいた。

 足袋の裏に、湿りが移った。


 待合まで戻ってから、ようやく息をした。


 胸の奥が痛かった。


 泣きたかったのか、吐きたかったのか、分からなかった。


 私は手の中の扇子を強く握った。


 屋敷の奥から、まだ釜の音が聞こえていた。


 しゅん。


 しゅん。


 松風だけが、何も知らないように鳴っていた。

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