『静寂の一発』
昭和二十五年、名古屋西区。
加藤精密加工所の先代が死んだ。
享年五十八。
死因は胃の病だと聞いた。
わしはまだ十八で、工場に入って二年目の見習いだった。先代には何度も怒鳴られた。千分の一寸の狂いを見つける目を持った人で、わしの削った部品を手に取っては、鼻で笑った。
「おまえの仕事は、まだ丸い」
角を出せと言われた。
逃げを作るなと言われた。
鉄は嘘をつかんが、人間はすぐ嘘をつくと言われた。
その先代が、黒い布の向こうで白い顔になっていた。
葬儀は、自宅の座敷で行われた。
畳は湿気を含み、線香の煙は低く垂れていた。祭壇には白黒の写真が置かれ、先代はいつもの険しい顔ではなく、少しだけ人のよさそうな顔をしていた。あの写真を選んだのは奥さんだろう。工場で見た先代は、あんな顔をしていなかった。
親族、近所衆、工場の職人、取引先の者。
黒い服が座敷にぎっしり詰まっていた。
扇風機はなかった。
障子は開けられていたが、風は入ってこなかった。
男たちは額に汗を浮かべ、女たちは黒い袖で口元を押さえていた。
僧侶の読経が始まった。
ぼそぼそとした声が、線香の煙に絡んで座敷を這った。
木魚が鳴る。
ぽく。
ぽく。
ぽく。
死というものは、案外、規則正しい音をしているのだと思った。
わしは工場の若い衆と並んで、部屋の端に座っていた。隣には鋳物担当の大崎さんがいた。腹の出た男で、夏になるとよく腹を壊した。反対側には検査係の森田さんがいた。痩せていて、いつも眉間に皺を寄せている。
座敷の向こうには、親族の若い娘が座っていた。
喪服というより、黒い着物を無理に着せられているように見えた。年は二十そこそこだろう。肌が白く、首筋に汗がひとすじ落ちていた。背筋を伸ばし、膝の上に置いた両手をぴたりと重ねている。
工場の油と鉄に慣れた目には、そこだけやけに静かに見えた。
木魚が鳴る。
ぽく。
ぽく。
その時だった。
ボブリッ。
木魚ではなかった。
読経でもなかった。
畳の奥で何かが破れたような、湿った皮袋を指で弾いたような、言葉にするにはあまりにも正直すぎる音がした。
座敷の空気が、一枚だけめくれた。
僧侶の声が、半拍だけ揺れた。
誰も動かなかった。
誰も、聞こえた顔をしなかった。
しかし、全員が聞いていた。
大崎さんの眉がぴくりと動いた。
森田さんの喉仏が上下した。
親族席の端にいた婆さんが、数珠を握る手に力を入れた。
わしも前を向いたまま、耳だけが後ろを振り返っていた。
ぽく。
ぽく。
木魚は何事もなかったように続いた。
だが、次に来たのは音ではなかった。
臭いだった。
最初は線香の煙が濃くなったのかと思った。古い座敷に染みた湿気。葬儀の菓子。汗。味噌の残り香。そういうものが一つに沈んだのだと思った。
違った。
それは下から来た。
畳の目の間を這い、膝の裏へまとわり、袴の裾から忍び込んでくるような臭いだった。
熟れていた。
だが、生きていた。
古い漬物甕の蓋を開けたような重さの中に、今まさにこの世へ出たばかりの生々しさが混じっていた。
大崎さんが、鼻だけで息を止めた。
森田さんは目を閉じた。
祈っているのではない。
耐えているのだ。
親族の子どもが小さく鼻を鳴らした。
母親らしい女が、その膝をつねった。
誰も、言えなかった。
ここは葬儀である。
人が死んでいる。
死んだ人間の前で、生きている人間の腹の都合を裁くことはできない。
だが、気にはなる。
誰だ。
誰がやった。
わしは前を向いたまま、頭の中で座敷の配置を思い出した。
音は右寄りから来た気がした。
いや、木魚の間に紛れたせいで、方向は曖昧だった。
臭いは低く広がっている。発生源が近ければ強いはずだが、人が密集しているせいで風の道がない。
まず疑わしいのは大崎さんだった。
腹が出ている。
昼飯に芋を食っていた。
しかもさっきから汗のかき方が尋常ではない。
しかし、大崎さんは違う。
この人は隠し事ができない。もし自分なら、もう耳まで赤くなっているはずだ。今の大崎さんは、むしろ怒っている。犯人に対して腹を立てている顔だ。
森田さんは、さっきから目を閉じたままだった。
あの人も違う。
自分のものなら、あそこまで正確に被害者の顔はできない。
親族席の婆さんは、数珠を握る手だけを震わせていた。
あれは怒りでも羞恥でもない。
犯人を知ってしまった者の震えに見えた。
わしの目は、自然とその隣へ動いた。
若い娘だった。
背筋は伸びたまま。
目は伏せたまま。
口元はわずかにも動かない。
誰よりも静かだった。
静かすぎた。
大崎さんは怒っている。
森田さんは耐えている。
婆さんは震えている。
子どもは鼻を鳴らしている。
だが、その娘だけは、最初から葬儀そのものになっていた。
汗が首筋を一筋、また落ちた。
白い指が、膝の上でほんのわずかに重なり直した。
その動きで、わしは分かった。
この人だ。
けれど、言えなかった。
言えるわけがなかった。
先代の写真がこちらを見ていた。
鉄は嘘をつかん。
人間はすぐ嘘をつく。
そう言った先代なら、どうしただろう。
犯人を指さしただろうか。
音の角度を測り、臭いの濃度を比べ、発生源を特定しただろうか。
工場の検査台なら、きっとそうした。
だが、ここは座敷だった。
黒い布と線香と、泣き疲れた親族のいる場所だった。
千分の一寸の狂いより、知らないふりをする一寸が必要な場所だった。
木魚が鳴る。
ぽく。
ぽく。
ぽく。
誰かが咳をした。
それを合図にしたように、座敷の空気が少しだけ動いた。
大崎さんが、そっと膝を組み替えた。
森田さんが、数珠を持つ手を直した。
婆さんは顔を伏せたまま、小さく息を吐いた。
若い娘は、まだ動かなかった。
読経は続いた。
死者を送る声が、再び座敷を満たしていった。
異音はなかったことになった。
疑惑もなかったことになった。
誰も何も言わず、誰も誰も見なかった。
やがて、焼香の順番が回ってきた。
わしは立ち上がり、祭壇の前へ進んだ。
先代の写真は、やはり工場で見るより少しだけ優しい顔をしていた。
抹香をつまむ指先に、鉄粉の癖が残っていた。
わしはそれを香炉へ落とした。
煙が上がった。
線香の匂いが、ほんの少しだけ勝った。
席へ戻る途中、親族の若い娘の横を通った。
娘は顔を上げなかった。
ただ、膝の上の指先だけが、かすかに白くなっていた。
わしも、何も見なかった。
何も聞かなかった。
ただ、座敷の隅に戻って、もう一度正座した。
ぽく。
ぽく。
ぽく。
葬儀は、また静寂に戻っていった。
その証拠だけが、畳の低いところに、まだ少し残っていた。




