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『彼の居場所に彼はいない』前編

【プロローグ】


『結局、数字が全てだからね、この仕事は』


熱気と喧騒に満ちた居酒屋の片隅で、宮田拓也がその言葉を口にした瞬間、テーブルの上の空気が、まるで冬の窓ガラスのように白く凍りついた。

ビールジョッキを片手に上機嫌で語っていた同僚の声が止まる。


後輩の弾むような笑い声が消える。

いくつもの視線が、まるで異物を見るかのように、拓也へと突き刺さる。

その中に、ほんの少しの軽蔑と、深い失望の色が混じっていることに、アルコールで麻痺した頭では気づくことができない。


彼はまだ、知らない。

このたった一言が、積み上げてきた(と思い込んでいた)全てを崩壊させる、引き金になるということを。

彼の居場所に、彼がいなくなるまでの、始まりの一夜だった。


【第一章:運命の一日】


1


その日の朝。

午前六時。無機質な電子音が、宮田拓也みやた たくやの意識を浅い眠りから引き剥がした。

遮光カーテンに閉ざされた部屋は、まだ夜の続きを生きている。


手を伸ばしてスマートフォンのアラームを止めると、拓也は身体を起こし、壁の一点を睨みつけた。

そこに貼られているのは、先月までの営業成績を記録した自作のグラフ。

右肩上がりに伸びるはずの折れ線が、この二ヶ月、不格好に停滞している。


その事実が、毎朝、彼の喉に小さな棘を刺すのだった。

27歳、大手建設会社入社5年目。同期の中でも、出世の道筋がうっすらと見え始める頃だ。

彼女はいない。


プライベートの時間のほとんどは、自己投資という名の武装に充ててきた。

シャワーを浴びながら、拓也は昨夜読んだビジネス書の一節を反芻する。


『結果とは行動の集積である』。


ならば、俺の行動が足りないのか。

それとも、間違っているのか。

答えは出ない。


ただ、焦りだけが冷たいシャワーの水と共に、心を削っていく。

高校時代を思い出す。

必死に白球を追いかけた。


誰よりもバットを振った。

だが、最後の夏、甲子園のアルプススタンドで、メガホンを握りしめていたのは自分だった。

グラウンドで躍動する仲間たちの栄光が、誇らしいと同時に、胸に焼き付くような焦燥感を刻みつけた。


――次は、俺が。


次は俺が、誰の目にも明らかな「結果」を出して、グラウンドの真ん中に立つ。

その渇望が、27歳の宮田拓也を今も突き動かしている。


2


午前十時、営業部の定例会議。

重苦しい雰囲気の中、部長の武田誠一郎が口を開いた。

元・伝説的な営業マンである彼の言葉には、誰もが耳を傾ける。


「……以上が今月の進捗だ。だが、一つ共有したい案件がある。仁科」


名前を呼ばれ、仁科祐樹にしな ゆうきが「はい」と少し緊張した面持ちで顔を上げた。

拓也の同期だ。


「先日、新駅ビルの基礎工事の件で、設計部と資材部が揉めていた件。あれを、仁科が間に入って見事に調整してくれた。おかげで、プロジェクトの遅延を防ぐことができた。これは、契約を一本取ってくるのと同じくらい、価値のある仕事だ」


武田の言葉に、チームの何人かが「おお」「仁科、やるな」と頷く。

仁科は「いえ、俺は、皆さんの話を聞いてただけで……」と照れ臭そうに頭を掻いている。

その光景が、拓也の胸をざわつかせた。


仁科の営業成績は、お世辞にも良いとは言えない。

いつもニコニコと人の話を聞き、誰もやりたがらない雑務を引き受けては「ありがとう」と感謝されている。

それが、拓也にはひどく非効率で、無価値なものに思えた。

その時、武田の厳しい視線が、まっすぐに拓也を射抜いた。


「いいか、宮田。お前の数字への執念は買う。だがな、巨大なプロジェクトは信頼で動くんだ。

契約書のインクだけじゃ、ビルは建たない。仁科の仕事から、お前が学ぶべきことは多いはずだ」


静まり返った会議室。全チームの前で、仁科と比較され、諭された。

それは、拓也にとって、公衆の面前で頬を張られるにも等しい、強烈な屈辱だった。

甲子園のスタンドの光景が、脳裏をよぎった。まただ。また、俺は、グラウンドの外にいる。


3


その夜。拓也が担当していた案件で、小さな追加契約が取れた。

ささやかな祝賀会が、会社の近くの居酒屋で開かれた。


「さすが宮田!」「おめでとう!」


後輩たちに酒を注がれ、上機嫌でグラスを煽る。

昼間の屈辱は、アルコールの泡と共に少しずつ溶けていくように思えた。

そうだ、これだ。結局、会社は数字で貢献する人間を評価する。


仁科のようなやり方では、いつまで経っても祝杯はあげられない。

高揚感が、彼の思考を鈍らせていく。

その時だった。話題が、昼間の会議のことに移った。


「でも、仁科さんの調整能力って、本当にすごいですよね」


「ああ。あれは誰にでもできることじゃないよな」


その会話が、拓也の心の逆鱗に触れた。

カチン、と音がした。

アルコールが、溜め込んでいた黒い感情の蓋をこじ開ける。


『言ってやれ』と、スタンドにいた頃の自分が囁く。

こいつらには分からない、本当の価値というものを。

拓也は、わざとらしく大きな声で言った。


「まあ、そういうのも大事かもしれないけどさ」


そして、彼は、プロローグのあの言葉を口にした。


「『結局、数字が全てだからね、この仕事は』」


凍りついた空気の中で、彼は一人、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。


【第二章:崩壊への序曲】


4


運命の一夜が明けた翌週から、宮田拓也の世界は、静かに、だが確実に変容していった。

月曜の昼。

いつもなら「宮田さん、ランチ行きましょう」と声をかけてくる後輩が、目を合わせようともしない。

気づけば、自分以外のチームメンバーで連れ立って、食堂へと消えていた。


チームの非公式なチャットグループから、いつの間にか自分が外されていることに気づいたのは、火曜の午後だった。

画面の向こうで交わされているであろう、自分抜きの会話を想像し、奥歯を噛みしめる。

誰も、拓也をあからさまに非難はしない。


業務上の会話は、以前と変わらず交わされる。

だが、その全てから、人間的な温度が抜け落ちていた。

彼は、チームという生命体から切り離された、機能だけの部品になった。


「くだらない」と拓也は自分に言い聞かせた。

「馴れ合いで仕事をしているわけじゃない」。

彼は、この状況を覆す方法は一つしかないと信じていた。


圧倒的な、誰にも文句を言わせない「数字」を叩き出すこと。

それからの拓也は、狂気的なまでの集中力で仕事に没頭した。

同僚との雑談も、休憩時間も全て削り、新規クライアントへのアポイントと資料作成に時間を注ぎ込む。


その姿は、周囲には悲壮なものに映っていたが、彼自身は、栄光への道を突き進んでいると信じて疑わなかった。


5


そして、その時は来た。

数週間後、拓也は、誰もが不可能だと諦めていた競合他社の牙城を崩し、数億円規模の超大型契約を獲得した。

それは、今年度の上半期で、全社トップとなる数字だった。


契約書にサインをもらった瞬間、拓也は勝利を確信した。

全身の細胞が歓喜に打ち震える。

これで、全てが覆る。


俺の正しさが証明される。

昼間の会議での屈辱も、その後の孤立も、全てはこの瞬間のための布石だったのだ。

高揚感を胸に、オフィスへと凱旋する。


だが、彼を待っていたのは、称賛の嵐ではなかった。

オフィスは、いつも通りの静かな空気に満ちていた。

何人かが拓也の帰還に気づき、一瞬視線を向けたが、すぐに手元のスクリーンへと戻っていく。


祝福の言葉も、駆け寄ってくる後輩もいない。

拓也は、自分のデスクに力なく鞄を置いた。社内メールで成果を共有しても、返信はまばらだった。

以前なら、すぐにでも企画されたはずの祝賀会が開かれる気配は、全くない。


おかしい。

何かが、おかしい。

俺は、勝ったはずだ。


甲子園のど真ん中で、優勝旗を掲げたはずだ。

なのに、なぜ。

なぜ、誰も見ていない?


その時だった。

部長室のドアが勢いよく開き、血相を変えた武田部長が、ずかずかと拓也の元へやってきた。

その手には、数枚の書類が握りしめられている。

そして、静まり返ったオフィスに、武田の怒声が響き渡った。


「宮田!お前がチームを無視して勝手に進めたせいで、プロジェクト全体が大混乱に陥ってるぞ!一体どうしてくれるんだ!」


その言葉の意味を、拓也はすぐには理解できなかった。

ただ、自分の最大の成功が、キャリアを終わらせかねない、取り返しのつかない失敗を引き起こしていたという事実だけが、ハンマーのように彼の頭を殴りつけた。

視界が、白く染まっていく。

自分の足元が、ガラガラと音を立てて崩れていくのを感じながら、拓也は、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

【前編・完】

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