↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/36

12万円の夜

挿絵(By みてみん)

仕事終わりにスマホを見たら、画面が震えていた。

時刻は夜の9時過ぎ。電話に出る前に、着信画面の「弟」という文字をじっと見つめる。

こんな時間に電話をかけてくるなんて、本当に珍しい。

普段なら「いい加減にしろよ」と思うが、その日は嫌な予感がして、すぐに出た。


「もしもし、どうしたんだ?」

『……あ、兄ちゃん?』


聞こえてきた弟の声は、震えていた。

声の奥で、カランカランと猫の首輪の鈴が鳴る。心臓がドキン、と跳ねた。


『ちぃ太が……吐いたんだ。さっきから、もう何回も』

「ちぃ太が?」

『うん。どうしよう。病院、行くべきかな?』


行けよ、そんなもの。

行くに決まっているだろう。

なんで相談してくるんだ。

そう思ったが、口から出たのは「どこに?」という問いだった。

弟は運転免許を持っていない。

車もない。

夜間救急はタクシーしかない。


「場所は分かっているのか?」

『いや、それが…』


弟の歯切れの悪い返事に、僕はため息をついた。

スマホを耳に当てたまま、もう一台のタブレットで「〇〇市 猫 夜間救急」と検索する。

Googleマップの画面が光って、病院名と住所が並んだ。


「〇〇にある病院、ここだ。知ってるか? 家からタクシーで15分くらいだろう」

『うん、多分』

「とりあえず、予約して、タクシー呼んで行きな。俺も今から向かうから」

『え、本当に? ごめん、ありがとう』


電話を切ると、すぐに上着を羽織って財布と鍵を持つ。

急いで玄関を出ると、外はもうすっかり夜だった。


病院の待合室は、消毒液のツンとした匂いと、やたら清潔な紙の匂いが混じっていた。

壁の時計は23:48。長針が12に触れるたび、待合の空気が一瞬だけ固くなる。

受付で渡された同意書に、弟は震える手でサインしていた。


「上限って、いくらにしたらいい?」弟は一瞬だけこちらを見る。

僕は数字を言わず、「必要なだけ」と返した。責任の所在が宙に浮いた。

受付の人が「自己負担が…」と説明してくれる。

その声に、弟は「はい」とだけ返事して、上限額の欄をちらっとも見ていなかった。


こいつ、本当に……。


僕は心の中で、頭を抱えた。

上限額、見ておけよ。

サインする前に、せめて金額だけは確認しておけって。

何も考えず、ただただ「ちぃ太が助かるなら」という気持ちだけで動いている。

その気持ちは立派だが、本当にそれだけで生きていけると思うなよ。

診察室の扉が「カチッ」と音を立てて閉まると、弟とちぃ太の姿は消えた。

待合室に取り残された僕は、座り直して、スマホで銀行口座の残高をチェックする。

今月の家賃、水道代、電気代、食費。

全部引いたら、いくら残る? クレジットカードの利用枠もちらっと確認して、頭の中で計算していく。


「まあ、なんとかなるか」

誰に言うわけでもなく、そう呟いた。


前回の通院のことも頭をよぎる。

予防接種だった。

その日は給料日直後だったのだが、弟はソシャゲのガチャに何万円もつぎ込んで、結局「やばい、今月やばい」と言って、僕が一時的に貸した。

何回も同じことを繰り返している。

そんなことを考えていたら、診察室の扉が開いて、看護師さんが「〇〇さーん」と僕たちを呼んだ。


診察室に入ると、ちぃ太はもう点滴につながれて、小さく丸まっていた。

点滴のチューブを小さな気泡が上っていく。音はないのに、時間だけが伸びる。

先生が診察結果と今後の治療について説明してくれる。

吐き気は治まっているが、念のため点滴で栄養と水分を補給して、検査もいくつかするらしい。


「お見積もりですが、点滴と検査、それから夜間加算が入りまして、全部で12万円くらいになります」


先生がそう言うと、弟は息をのんだ。

僕はもう、金額なんてどうでもよかった。


「やろう。今はそれだけ考えよう」

僕がそう言うと、弟は無言でこくり、と頷いた。


会計を待つ間、弟が自販機でエナドリを買う。

「…今、その200円が刺さるんだけど」


思わず、心の声が漏れそうになった。

給料日直後にガチャに何万も使うくせに、こういう時に限って「200円、いるかな…」という顔をする。その200円も、僕からしたら貴重な現金なのに。

ちぃ太がキャリーケースに戻ってきた。

ケース越しにちぃ太の丸い瞳と目が合う。「もう大丈夫だよ」と言いたそうに、じっと僕を見つめていた。

先生が、ちぃ太の食事や薬の量を丁寧に説明してくれる。

弟は真剣な顔で聞いて、スマホのメモ帳に書き込んでいた。

やるべきことはちゃんとやるんだな。そう思ったら、少しだけ気持ちが落ち着いた。


会計カウンターで、弟が震える手でカードを差し出す。

「一括で…」


その言葉に、受付のお姉さんが「別枠での決済や、分割払いもご案内できますが…」と優しく声をかけてくれた。


弟は無言で首を振る。そこで、僕が口を挟んだ。

「すみません。半額、俺が出します」


受付のお姉さんが、領収書の“支払い者”の欄を「弟/兄(50/50)」と書き直してくれる。

サインペンのインクが、わずかに滲んだ。


「半額で済んでよかった、じゃないだろう」


思わず、心の声が漏れそうになる。

弟の顔には「助かった」という安堵が浮かんでいた。

その顔を見ると、腹が立って仕方がなかった。


帰りのタクシーのメーターが、どんどん上がっていく。

このメーターの数字が、そのまま弟の金銭感覚を表しているみたいで、見るたびにイライラする。

弟が急に「ごめん。今月、ちょっと使いすぎて」と言った。

僕は「大丈夫」とだけ返した。舌の先で言葉を折った。喉仏が一段、下に落ちる感覚。


弟の家の近くのコンビニに寄って、弟が猫砂と水、ついでにアイスを二つ買っている。

レジでSuicaが鳴らない。

残高不足。

弟が小銭を探す間、僕は札を出した。

現金はアプリに残らない。こういう抜け穴が、一番、怖い。


「アイスいる?」と聞かれて、僕は一瞬迷った。

「いる」と返事したが、間が空いてしまった。


家に着くと、まず弟は猫の水を替えた。

給餌器の残量もチェックして、フードを足す。

その手順だけは、毎回、間違いがない。


「この子は、ちゃんと大事にするんだな」

僕は、改めてそう思った。

やるべきことはちゃんとやる。

ただ、貯めるだけができない。それがこいつの悪い癖だ。

キッチンで領収書を広げる。

『夜間加算』『点滴』『検査』。12万円の内訳を、声に出さずに指でなぞる。


「半額、来月でいいから」

僕がそう言うと、弟は「半分、今週中に振り込む」と言う。

現金で払うつもりか? いや、それはやめてくれ。


スマホの家計アプリを開いて、新しい項目を新設する。


「ちぃ太医療費(共同)」

「毎月3,000円ずつ積み立てよう。自動で」


僕は提案した。弟は渋る。


「えー、来月からでいいじゃん」

「今、設定する」


僕は有無を言わさず、自分のスマホから弟の家計アプリにアクセスする。

「オートチャージの設定画面、開いて」


弟が入力する。指が止まる。

「達成できるかな」と不安そうな顔をする。


「達成したら、猫草と、お前のアイスも買える」

そう言うと、弟はふっと笑った。

ちょうど、棚の上からちぃ太がひょこっと顔を覗かせている。


そういえば、ちぃ太との出会いも、僕が関わっていたな。

弟が「猫拾った」と電話してきた夜、雨が降っていた。

段ボールの中で濡れて震える子猫を見て、僕はため息をついた。


「責任持てよ」と言うと、弟は「分かっている」と言った。

その時の目は、今と同じくらい真剣だった。


「最初のトイレ砂も、俺が買ったな」

ふと、そんなことを思い出した。


「ありがとう」

弟が言った。視線は猫に向けたまま。

「礼は猫に言え」

そう言ってやろうと思ったが、やめた。


深夜2時。帰る準備をする僕を、弟が玄関まで見送ってくれる。

弟が財布を出して、札を数え始めた。


「半分、今すぐ渡そうと思って」

僕は「いい。振り込みで」と、現金を押し戻す。


「家計アプリ、共有にしたから見える」

「監視?」

「安心のため」

一瞬の沈黙。

「……監視でいいよ」


弟がそう言って、僕は「ああ、こいつ、少しは成長したのかな」と思った。

言い合いにならない匙加減を、お互い覚えたのかもしれない。

玄関の前で、キャリーの扉が少しだけ鳴る。

ちぃ太が小声で「にゃあ」と鳴いた。


僕は軽く手を振る。ちぃ太は細い目で僕を見ている。

階段を降りる途中、スマホが通知音を鳴らした。

弟から“共同積立、設定完了”のスクショが送られてきた。

僕は既読だけつけた。言葉を惜しむのは、たぶん自分の節約癖だ。


帰宅路。

コンビニの外灯が眩しい。

アイスのポスターが目に留まる。

僕は買わない。

財布に現金を残す。

家に帰って、自分の家計ノートを開く。

今日の日付と「−6万」と書く。

余白に、小さく文字を書き足した。

「次は言う、言わない、どちらが助けになる?」


翌朝、弟から短いメッセージが届く。

『食べた。ありがとう』

「よかった」とだけ返す。


仕事の昼休み、共同積立の残高が“3,000円”になっている。

「始まった。多分、続く。続けさせる」

そう独り言を呟いた。


夕方、弟からもう一通。『来月からは1万円にする』。

僕は既読をつけた。返事は遅らせて、夜、電話で話そうと思った。

電話口の弟は、照れているのが分かる。「やれるか試したい」と、照れ隠しにぼそぼそ喋る。


「無理なら戻せばいい。猫の分は、俺も入れるから」


静かな沈黙が流れる。弟の部屋の奥から、猫の鈴の音が聞こえる。


「じゃあ、来月の医療保険の資料、送るな」

「高いかな」

「安い方を選ぼう」


兄の机の領収書ファイル。一番上に「12万円」の紙。

その下に、共同積立のスクショをプリントして差し込む。


「払う金は減らない。でも、迷いは減らせる」


夜、窓辺で伸びをするちぃ太の写真が送られてくる。

僕はスタンプを押さない。ただ、スマホに保存するだけだった。

そして、最後の一行。次の給料日、アイスは2本でいい。1本は冷凍庫に残しておく。

週一のペースで更新していきます。よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。