12万円の夜
仕事終わりにスマホを見たら、画面が震えていた。
時刻は夜の9時過ぎ。電話に出る前に、着信画面の「弟」という文字をじっと見つめる。
こんな時間に電話をかけてくるなんて、本当に珍しい。
普段なら「いい加減にしろよ」と思うが、その日は嫌な予感がして、すぐに出た。
「もしもし、どうしたんだ?」
『……あ、兄ちゃん?』
聞こえてきた弟の声は、震えていた。
声の奥で、カランカランと猫の首輪の鈴が鳴る。心臓がドキン、と跳ねた。
『ちぃ太が……吐いたんだ。さっきから、もう何回も』
「ちぃ太が?」
『うん。どうしよう。病院、行くべきかな?』
行けよ、そんなもの。
行くに決まっているだろう。
なんで相談してくるんだ。
そう思ったが、口から出たのは「どこに?」という問いだった。
弟は運転免許を持っていない。
車もない。
夜間救急はタクシーしかない。
「場所は分かっているのか?」
『いや、それが…』
弟の歯切れの悪い返事に、僕はため息をついた。
スマホを耳に当てたまま、もう一台のタブレットで「〇〇市 猫 夜間救急」と検索する。
Googleマップの画面が光って、病院名と住所が並んだ。
「〇〇にある病院、ここだ。知ってるか? 家からタクシーで15分くらいだろう」
『うん、多分』
「とりあえず、予約して、タクシー呼んで行きな。俺も今から向かうから」
『え、本当に? ごめん、ありがとう』
電話を切ると、すぐに上着を羽織って財布と鍵を持つ。
急いで玄関を出ると、外はもうすっかり夜だった。
病院の待合室は、消毒液のツンとした匂いと、やたら清潔な紙の匂いが混じっていた。
壁の時計は23:48。長針が12に触れるたび、待合の空気が一瞬だけ固くなる。
受付で渡された同意書に、弟は震える手でサインしていた。
「上限って、いくらにしたらいい?」弟は一瞬だけこちらを見る。
僕は数字を言わず、「必要なだけ」と返した。責任の所在が宙に浮いた。
受付の人が「自己負担が…」と説明してくれる。
その声に、弟は「はい」とだけ返事して、上限額の欄をちらっとも見ていなかった。
こいつ、本当に……。
僕は心の中で、頭を抱えた。
上限額、見ておけよ。
サインする前に、せめて金額だけは確認しておけって。
何も考えず、ただただ「ちぃ太が助かるなら」という気持ちだけで動いている。
その気持ちは立派だが、本当にそれだけで生きていけると思うなよ。
診察室の扉が「カチッ」と音を立てて閉まると、弟とちぃ太の姿は消えた。
待合室に取り残された僕は、座り直して、スマホで銀行口座の残高をチェックする。
今月の家賃、水道代、電気代、食費。
全部引いたら、いくら残る? クレジットカードの利用枠もちらっと確認して、頭の中で計算していく。
「まあ、なんとかなるか」
誰に言うわけでもなく、そう呟いた。
前回の通院のことも頭をよぎる。
予防接種だった。
その日は給料日直後だったのだが、弟はソシャゲのガチャに何万円もつぎ込んで、結局「やばい、今月やばい」と言って、僕が一時的に貸した。
何回も同じことを繰り返している。
そんなことを考えていたら、診察室の扉が開いて、看護師さんが「〇〇さーん」と僕たちを呼んだ。
診察室に入ると、ちぃ太はもう点滴につながれて、小さく丸まっていた。
点滴のチューブを小さな気泡が上っていく。音はないのに、時間だけが伸びる。
先生が診察結果と今後の治療について説明してくれる。
吐き気は治まっているが、念のため点滴で栄養と水分を補給して、検査もいくつかするらしい。
「お見積もりですが、点滴と検査、それから夜間加算が入りまして、全部で12万円くらいになります」
先生がそう言うと、弟は息をのんだ。
僕はもう、金額なんてどうでもよかった。
「やろう。今はそれだけ考えよう」
僕がそう言うと、弟は無言でこくり、と頷いた。
会計を待つ間、弟が自販機でエナドリを買う。
「…今、その200円が刺さるんだけど」
思わず、心の声が漏れそうになった。
給料日直後にガチャに何万も使うくせに、こういう時に限って「200円、いるかな…」という顔をする。その200円も、僕からしたら貴重な現金なのに。
ちぃ太がキャリーケースに戻ってきた。
ケース越しにちぃ太の丸い瞳と目が合う。「もう大丈夫だよ」と言いたそうに、じっと僕を見つめていた。
先生が、ちぃ太の食事や薬の量を丁寧に説明してくれる。
弟は真剣な顔で聞いて、スマホのメモ帳に書き込んでいた。
やるべきことはちゃんとやるんだな。そう思ったら、少しだけ気持ちが落ち着いた。
会計カウンターで、弟が震える手でカードを差し出す。
「一括で…」
その言葉に、受付のお姉さんが「別枠での決済や、分割払いもご案内できますが…」と優しく声をかけてくれた。
弟は無言で首を振る。そこで、僕が口を挟んだ。
「すみません。半額、俺が出します」
受付のお姉さんが、領収書の“支払い者”の欄を「弟/兄(50/50)」と書き直してくれる。
サインペンのインクが、わずかに滲んだ。
「半額で済んでよかった、じゃないだろう」
思わず、心の声が漏れそうになる。
弟の顔には「助かった」という安堵が浮かんでいた。
その顔を見ると、腹が立って仕方がなかった。
帰りのタクシーのメーターが、どんどん上がっていく。
このメーターの数字が、そのまま弟の金銭感覚を表しているみたいで、見るたびにイライラする。
弟が急に「ごめん。今月、ちょっと使いすぎて」と言った。
僕は「大丈夫」とだけ返した。舌の先で言葉を折った。喉仏が一段、下に落ちる感覚。
弟の家の近くのコンビニに寄って、弟が猫砂と水、ついでにアイスを二つ買っている。
レジでSuicaが鳴らない。
残高不足。
弟が小銭を探す間、僕は札を出した。
現金はアプリに残らない。こういう抜け穴が、一番、怖い。
「アイスいる?」と聞かれて、僕は一瞬迷った。
「いる」と返事したが、間が空いてしまった。
家に着くと、まず弟は猫の水を替えた。
給餌器の残量もチェックして、フードを足す。
その手順だけは、毎回、間違いがない。
「この子は、ちゃんと大事にするんだな」
僕は、改めてそう思った。
やるべきことはちゃんとやる。
ただ、貯めるだけができない。それがこいつの悪い癖だ。
キッチンで領収書を広げる。
『夜間加算』『点滴』『検査』。12万円の内訳を、声に出さずに指でなぞる。
「半額、来月でいいから」
僕がそう言うと、弟は「半分、今週中に振り込む」と言う。
現金で払うつもりか? いや、それはやめてくれ。
スマホの家計アプリを開いて、新しい項目を新設する。
「ちぃ太医療費(共同)」
「毎月3,000円ずつ積み立てよう。自動で」
僕は提案した。弟は渋る。
「えー、来月からでいいじゃん」
「今、設定する」
僕は有無を言わさず、自分のスマホから弟の家計アプリにアクセスする。
「オートチャージの設定画面、開いて」
弟が入力する。指が止まる。
「達成できるかな」と不安そうな顔をする。
「達成したら、猫草と、お前のアイスも買える」
そう言うと、弟はふっと笑った。
ちょうど、棚の上からちぃ太がひょこっと顔を覗かせている。
そういえば、ちぃ太との出会いも、僕が関わっていたな。
弟が「猫拾った」と電話してきた夜、雨が降っていた。
段ボールの中で濡れて震える子猫を見て、僕はため息をついた。
「責任持てよ」と言うと、弟は「分かっている」と言った。
その時の目は、今と同じくらい真剣だった。
「最初のトイレ砂も、俺が買ったな」
ふと、そんなことを思い出した。
「ありがとう」
弟が言った。視線は猫に向けたまま。
「礼は猫に言え」
そう言ってやろうと思ったが、やめた。
深夜2時。帰る準備をする僕を、弟が玄関まで見送ってくれる。
弟が財布を出して、札を数え始めた。
「半分、今すぐ渡そうと思って」
僕は「いい。振り込みで」と、現金を押し戻す。
「家計アプリ、共有にしたから見える」
「監視?」
「安心のため」
一瞬の沈黙。
「……監視でいいよ」
弟がそう言って、僕は「ああ、こいつ、少しは成長したのかな」と思った。
言い合いにならない匙加減を、お互い覚えたのかもしれない。
玄関の前で、キャリーの扉が少しだけ鳴る。
ちぃ太が小声で「にゃあ」と鳴いた。
僕は軽く手を振る。ちぃ太は細い目で僕を見ている。
階段を降りる途中、スマホが通知音を鳴らした。
弟から“共同積立、設定完了”のスクショが送られてきた。
僕は既読だけつけた。言葉を惜しむのは、たぶん自分の節約癖だ。
帰宅路。
コンビニの外灯が眩しい。
アイスのポスターが目に留まる。
僕は買わない。
財布に現金を残す。
家に帰って、自分の家計ノートを開く。
今日の日付と「−6万」と書く。
余白に、小さく文字を書き足した。
「次は言う、言わない、どちらが助けになる?」
翌朝、弟から短いメッセージが届く。
『食べた。ありがとう』
「よかった」とだけ返す。
仕事の昼休み、共同積立の残高が“3,000円”になっている。
「始まった。多分、続く。続けさせる」
そう独り言を呟いた。
夕方、弟からもう一通。『来月からは1万円にする』。
僕は既読をつけた。返事は遅らせて、夜、電話で話そうと思った。
電話口の弟は、照れているのが分かる。「やれるか試したい」と、照れ隠しにぼそぼそ喋る。
「無理なら戻せばいい。猫の分は、俺も入れるから」
静かな沈黙が流れる。弟の部屋の奥から、猫の鈴の音が聞こえる。
「じゃあ、来月の医療保険の資料、送るな」
「高いかな」
「安い方を選ぼう」
兄の机の領収書ファイル。一番上に「12万円」の紙。
その下に、共同積立のスクショをプリントして差し込む。
「払う金は減らない。でも、迷いは減らせる」
夜、窓辺で伸びをするちぃ太の写真が送られてくる。
僕はスタンプを押さない。ただ、スマホに保存するだけだった。
そして、最後の一行。次の給料日、アイスは2本でいい。1本は冷凍庫に残しておく。
週一のペースで更新していきます。よろしくお願いします。




