第五話 正の字を数える小鬼
給料日から、また何日かが過ぎた。三ノ三の洞窟で、俺は数え直しを続けている。
数えるものの当てはあった。当てはあったが、それを書き留める手立てが、なかった。
ひよこの二人は、あれからも通ってくる。剣がテオ、回り込みの小さいのがミナだ。来るたびに追いかけっこは少しずつ形を変えて、テオの踏み込みは伸び、ミナの回り込みはずる賢くなった。俺の逃げ足は変わらない。性能は変わらないなりに、演出の引き出しだけが増えていく。
問題は、記録だった。
頭の中で数えるのには限界がある。今のところ、記憶に不足はない。だが——減るんだよ、ちょっとずつ、とドロテアは言った。この頭がいつまで当てになるのか、保証はどこにもない。数字は、頭の外に置いておきたい。
書きたい。書く道具がない。手元にあるのは給料の残り三グリムで、インク壺が買えるのかどうかも分からない。
そんなことを考えながら洞窟の隅を歩いていたとき——音が、聞こえた。
かち、かち。
骨の音ではない。もっと軽い、木の音だ。
岩陰をのぞくと、小さいのがいた。
ゴブリンだ。裏市場で見かけた種族——ただし、給料日に帳面を読み上げていた奴とは、別の小さいのだ。大きな耳に、細い数え棒を挟んでいる。そいつは岩陰にしゃがみ込んでいた。そこからは、洞窟の入口が一直線に見通せる。観測点としては、悪くない場所だった。
一つ数えるたび、耳から抜いた棒の先で、かち、と岩を打つ。五つ目で、手元の帳面に線を引いて束にする。
のぞき込む。線が並んでいる。五本でひと束になる、几帳面な印。俺の目には、正の字にしか見えなかった。なので以後、俺の中では正の字である。
「……何を数えてる?」
ゴブリンは、飛び上がった。帳面を胸に抱え込み、大きな耳をぺたんと伏せて、岩と俺の間で視線を泳がせる。逃げ場を探す目だ。ここで詰めると逃げられる。俺は一歩下がって、しゃがんで、目の高さを合わせた。
「取らない。見せてくれとも言わない。ただ、何を数えてるのかだけ、教えてくれ」
長い沈黙のあと、ゴブリンは小さな声で言った。
「……きのうの、ちょうせんしゃ」
「何人だった」
「四人。せいかん、四人。……ぜんぶ、です」
四人。ぜんぶ生還。
俺は、しばらく声が出なかった。
帳面なら、この世界にもあった。上の台帳。給料の帳面。だがあれは、仕事だ。この区画で、誰に命じられたわけでもなく、給料が出るわけでもなく、岩陰にしゃがみ込んで、来た客と帰った客を正の字で数えている者がいた——話が、まるで別だ。
聞けば、普段は裏の雑用番で、表に出てくるのは数えるときだけだという。道理で会わなかったわけだ。頭数も持ち物もさらったつもりの俺の数え直しは、その網から、こいつを丸ごとこぼしていた。
「いつから数えてる?」
「……ずっと、まえから」
「なんで?」
ゴブリンは、初めて俺の目を見た。それから、世界でいちばん当たり前のことを言う顔で、言った。
「すき、だから。かぞえるの」
——採用。
「よし。お前、今日から帳簿係だ」
「ちょうぼ、がかり」
「この区画の数字を預かる係だ。俺が任命する」
「だれの、めいれいですか」
「誰のでもない。俺の独断だ」
考えてみれば、俺にはこの区画の役職どころか、任命する権限も何もない。骨番一一四の雑魚が、裏の雑用番のゴブリンを、勝手に係に任じただけだ。給料も出ない。それでも、言葉にした瞬間、ゴブリンの耳がぴんと立った。
名前を聞くと、ピン、と返ってきた。数え棒の音から来た呼び名らしい。名前というより音だが、番号よりは、ずっといい。
「給料は出せない。俺の全財産は三グリムだ」
「はあ」
「代わりに、お前の数えた数字は、月にいちど、俺が全部聞く。一行も飛ばさずにだ」
ピンは、目をまん丸にした。それから、耳から数え棒を抜いて握りしめ、こくこくと二回うなずいた。数えた数字を全部聞いてくれる相手というのは、どうやらこの小鬼の一生に、まだいなかったらしい。
帳面は裏市場の紙の端切れをとじたもので、インクは鍋のすすを何かで溶いたものだという。道具まで自前だった。ただ、すすのインクは乾くとはがれて、数字が消えることがあるらしい。数字が消える帳面は、帳面ではない。俺の三グリムは、裏市場のインク壺に化けることが決まった。飯でもなく、酒でもない。財政支出の第一号である。
その日から、俺とピンの計測が始まった。
数えるものは三つに決めた。
一つ。来た客の数。
二つ。帰った客の数。
三つ。——また来た顔。
「また来た、かお?」
「同じ客が、もう一度来ることだ。一見が百人より、常連が二人のほうが強い。店はそれで回る」
前の世界で高くついた教訓の一つだ。新しい客を呼ぶのは高くつく。戻ってくる客は、それだけで店の柱になる。ここがダンジョンだろうと、たぶん、理屈は同じだ——たぶん、の部分は、これから数えて確かめる。
ピンの帳面に、新しい段ができた。正の字の列の上に、つたない区切り線。来た数。帰った数。また来た顔。
ひよこの二人が来た日、ピンは初めて三段目に線を引いた。
「じょうれん、一ごう。二ごう」
「そうだ。うちの一号と二号だ」
数えはじめると、見えていなかったものが見えてくる。ある日、見ない顔が一組来た。若い三人組で、入口のあたりをうろうろして、骨を二体ばかり追いかけて、帰った。ピンの一段目に、正の字が三画増えた。
「テオたちの、しりあい?」
「かもな。どこかで何か聞いたのかもしれん」
翌日、俺が頭の中で「昨日は七人」と数えていたら、ピンが帳面を突きつけてきた。六人、と正の字が言っていた。
「かぞえ直します。数字が、へんな顔をしてるので」
数え直した。六人だった。俺の頭の中の七人目は、一昨日の客だった。……この頭は、やはり当てにならない。帳面のほうが、俺より正しい。それが確かめられただけで、この係を置いたかいがあったというものだ。
正の字が増えていくのを眺めるのは、妙な気分だった。四人来て、四人帰る。引いて、ゼロ。欠けた客の欄に、線が一本も増えない。そういう帳面は、それだけで少し、温かい。
一日の勘定を締めたあと、俺はピンの帳面を借りて、最初からめくってみた。
正の字は、ずっと前のページから続いていた。ページの厚みからして、俺が来るより前。おそらく、俺が死ぬより、ずっと前から。誰も見ていない岩陰で、この区画の客は、ずっと数えられていたのだ。
ページをめくる手が、ふと止まった。
隅に、絵があった。
下手くそな似顔絵だ。短い黒髪。眉のところに、傷らしい線が一本。目つきの鋭い女の顔が、正の字の脇に、小さく描いてある。その下に、たどたどしい文字が添えてあった。
「ピン。これは、なんて書いてある?」
ピンは帳面をのぞき込んで、こともなげに読み上げた。
「あでる。……よくくる、ひと。なまえ、よばれてた。いつも、あたらしいひとを、つれてくる」
あでる。よく来る、人。
「三段目を作ったとき、なんで教えてくれなかった」
「……きかれて、ない、です」
理屈は完璧だった。この係は、聞かれたことしか答えない。質問を設計するのは、どうやら俺の仕事らしい。
ひよこの二人は、常連の一号と二号。だがピンの帳面によれば、この区画には——俺が来るよりずっと前から——もう一人、「また来た顔」がいたことになる。
新しい人を連れて。仕事で。いちばん弱い区画に、何度も、何度も。
仕事なら、それまでの話だ。だが——仕事だけで、正の字はここまで並ぶものだろうか。
この女は、何を、しに来ている?




