第一話 走って、数えて、死んだ
岩の天井を、俺は見上げていた。
天井、というより洞窟だ。青白い明かりがぼんやりと岩肌を照らしていて、ひどく静かで、そして——寒くない。
俺は、たしか。
夜だった。雨だった。買い忘れた夕飯のことを考えていて、白いヘッドライトが、ありえない角度で膨らんで——
「…………」
落ち着け。まず深呼吸だ。……深呼吸を、した気がする。空気を吸った手応えはまるでないのに、妙に落ち着いた。この時点でおかしいと気づくべきだったが、おかしいことに、おかしいと思わなかった。
だめだ。頭が回らない。徹夜明けよりひどい。こういうときは、手順どおりにやる。十五年、不具合と付き合ってきた俺の、体に染みついた手順だ。
一、事象を確認する。俺は洞窟にいる。
二、再現手順を確認する。不明。直前の記憶は、雨と、ヘッドライト。
三、影響範囲を確認する。……体が、妙に軽い。痛みがない。あれだけの勢いでぶつかられて、痛みがないのは、おかしい。
四、切り分けをする。つまりこれは、夢か、病院のベッドの上の夢か、それとも——
五、関係各所への連絡。……今日、定例だぞ。進捗を聞かれる。誰かがビルドを回さないと。誰か。誰かって、誰だ。それを決めるのが俺の仕事だろう。
だめだ、と俺はもう一度思った。こんなときまで仕事の段取りを組んでいる。休め。せっかく夢を見ているんだから、少しは。
「かた」
すぐ横で、音がした。
見ると、骨が立っていた。
人間の、骨格標本みたいなやつだ。理科室にいるあれが、支柱もなしに立って、所在なさげにあごを鳴らしている。その向こうにも一体。さらに向こうにも。洞窟のあちこちに、骨、骨、骨。
「……ああ、なるほど」
俺は妙に納得した。夢だ。徹夜が続くと、脳は品質保証を放棄する。バグだらけのビルドが夢に出てくるのは日常だったし、骨格標本の群れくらい、うちの炎上案件に比べればずいぶん平和なグラフィックである。
「おーい」
呼びかけてみた。骨たちは、こちらを見た。見た、と思う。目の穴に目玉はないのだが、なんとなく向きで分かる。
そして、何も起きなかった。骨たちはまたぼんやりと明後日のほうを向き、一体が歩き出し、岩にぶつかり、方向を変えた。
「大丈夫か、おい」
ぶつかった一体に近寄って声をかけたが、反応はない。ゆらゆらと立ち尽くしているだけだ。目の穴の奥に、何も灯っていない。近くで見ると、それは少し、こたえる眺めだった。空っぽの家の窓みたいで。
会話は、成立しなかった。夢にしても、モブのAIが雑すぎる。誰だ、この挙動でリリースを通したのは。
——そのときだった。
洞窟の入口のほうで、光が揺れた。たいまつだ。人の声。若い男の声が「逃げた!」と弾み、低い女の声が「追え。それが練習だ」と続いた。
近くにいた骨が二体、弾かれたように走り出した。二体は途中で正面からぶつかり、あごを鳴らして言い争うようにして、結局別々の方向へ逃げていった。示し合わせというものが、見事なまでにない。
「え、なに、逃げるの? なんで——」
なんで俺も走ってるんだ?
考えるより先に、体が走り出していた。周りが逃げれば逃げる——どうやらこの体は、そういう作りらしい。それはもう全力で。そして走りながら、俺は把握しはじめていた。視界がやけに低い。腕を振るたび、視界の端で白いものが揺れる。細い。異様に細い。考えるな。今は逃げろ。追っ手は——
一人。剣を持った少年だ。そばかす。サイズの合っていない革鎧。振り上げた剣の軌道が、まっすぐで素直だ。
その後ろ、ずっと奥の岩場に、大人が三人。腰を下ろしてこちらを眺める革鎧の女。あくびをかみ殺すひげの年配。立ったまま何かを書きつけている旅装のひとり。
見てるだけである。大人が三人、子供を働かせて、見てるだけ。何なんだこの現場は。管理者は何をしている。
——いや、今はいい。素直な太刀筋。素直、ということは、癖が読める。
走りながら、俺は数を数えはじめた。気づけば、指を折っていた。手応えのない、軽い指だ。それでも折らないと、数が逃げる。
少年の踏み込みは三歩で一拍。曲がり角では必ず外側に膨らむ。角で一瞬足が止まり、指を折り、また走る。
奥から、女の声が飛んだ。「ひよこ! あれを追え!」
あれ。あれとは。……俺か。光栄のかけらもない指名である。追跡が、俺一本に絞られた。
横合いから小さいのがもう一人、回り込みが早い。俺の逃げ足はといえば、遅い。軽いくせに遅い。出力が低い。性能の割に燃費だけいい安物みたいだ。
一、二、三で踏み込み。一、二、三で——来た。
かわす。曲がる。膨らんだ。今だ、距離が開く。
「なんだこれ」
面白くなってきている自分がいた。まずい状況のはずだ。刃物を持った子供に追いかけ回されている。なのに、頭の芯が冴えていく。追う側の動きに規則があって、逃げる側の性能に限界があって、その間に、ぎりぎりの隙間がある。この隙間の幅を測る作業を、俺は前に、何千時間もやったことがある。
テストプレイだ。これは、テストプレイの手触りだ。
コントローラーを握って、画面の中の追いかけっこを、飽きるほど繰り返した。ここで捕まったら理不尽。ここで逃げ切れたら緩い。面白いのは、いつだって、その間の細い線の上だ。線の引き方だけは、忘れたことがない。
小さいほうが横から来る。回り込みが早い。上手い。将来有望。うちに欲しい。
一、二、三。一、二、三。数えて、折って、曲がって——
小さいのに横から追い立てられ、曲がった先は、壁だった。
振り返る。少年が、肩で息をしながら剣を構え直し、逃げ道をふさいでいた。教科書どおりの、いい挟み方だった。
数え終えた、と思った。
彼の次の踏み込みは、たぶん三歩。俺の体は、それをかわせない。性能が足りない。ここまでの計測が、そう言っている。仕様だ。どうしようもない。
体のほうは、正直だった。あごが、勝手に小さく鳴っていた。——怖い。頭より先に、体がそう言っている。
読めているのに、届かない。悔しさより先に、変な感心が来た。よくできている。逃げ手の希望を最後まで残して、それでも詰む。誰の設計だ、これは。
剣が振り上げられた。
少年の顔は、真剣だった。楽しんでいるのでも、憎んでいるのでもない。教わったことを、教わったとおりに、一生懸命やっている顔だった。ああいう顔で仕事をする若手は、伸びる。
だから、というわけでもないのだが。
そのとき、俺の体は最後に何をしたか。
頭を、下げていた。
防御でも命乞いでもなく、深々と、礼をしていた。長い会議が終わったあとの、あの角度で。お疲れ様でした、と言うときの、あの角度で。
我ながら、あんまりだと思う。
白い光が振り下ろされて、視界がばらばらに傾いた。
傾いた視界の端を、俺の腕が転がっていった。
白かった。細かった。骨だった。
「……は?」
暗転。




