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ラナンキュラス 〜距離を置く彼女と、興味を抱く彼。王都の秘密が二人を絡め取り、やがて独占欲という名の歪な恋を育む〜  作者: 佳月


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2-2


 ――その日の夕刻、場所を王立図書館の閉架古書庫へと移しても、やはり彼の姿があった。

 一般閲覧室とは切り離された地下区画は、人の気配も少ない。高い書架が規則正しく並び、積み上げられた古書や資料の影が、時間の感覚を曖昧にしている。

 乾いた紙とインクの匂い。

 古い革表紙の匂い。

 静まり返った空気の中には、ページをめくる音だけが微かに響いていた。ゾンネは奥の棚から古書を取り出し、机の上へ次々と並べていく。


 内容を確認し、必要な箇所へだけ短く書き込みを入れる。その動きには無駄がない。迷いも、躊躇もなかった。

 まるで最初から本の位置も内容も把握しているかのように、次々と資料を処理していく。その少し後ろで、シュテルンも資料を手にしていた。だが視線は半分ほど、ゾンネへ向いている。作業そのものより、彼女の指先の動きや、本を読む時の癖の方へ意識が向いていた。

 集中している時のゾンネは、妙に無防備だ。周囲への警戒が薄れる。人の気配にも鈍くなる。それは社交界で見る姿とは、まるで別人だった。

 やがて、資料整理のために使われていた区画の扉が静かに閉じられる。


 重たい金属音。


 続いて、外側で鍵が掛かる音がした。


 おそらく巡回司書が、まだ中に人がいることへ気づかなかったのだろう。遠ざかっていく足音だけが、静かな古書庫へ薄く残る。数秒の沈黙。それからシュテルンが小さく息を吐いた。


「……閉じ込められましたね」


 声音は軽い。困っているというより、少し面白がっているような調子だった。だがゾンネは、本から視線を離さない。


「別に。本があるもの」


 即答だった。まるで“閉じ込められた”という状況自体へ価値を置いていない。シュテルンは少しだけ目を細める。


「怖くないんですか?」

「何が?」

「閉じ込められていることです」


 ゾンネはそこでようやく顔を上げた。数秒だけ考えるように視線を動かす。それから淡々と答えた。


「静かだし、嫌いじゃないわよ」


 その言葉には不安も焦りもない。ただ、事実としての感想だけが置かれていた。シュテルンは小さく笑う。


「あなた、本当に変わってますね」

「今さら?」


 返しは淡白だ。けれど以前より、少しだけ柔らかい。


 沈黙が落ちる。


 古書庫の中は、外界と切り離されたように静かだった。厚い石壁の向こうに王都の喧騒があることすら、今は現実感が薄い。

 ゾンネは再び本へ視線を戻す。その横で、シュテルンも机へ軽く腰を預けた。


「こういう状況、嫌いじゃないんですね」

「嫌いじゃないわ」


 また即答。迷いがない。シュテルンはその横顔を見る。

 この女は、孤独を怖がらないのではない。最初から、“孤独という状態”を特別だと思っていないのだ。誰かが隣にいても。誰もいなくても。そのどちらにも、大きな差を置いていない。だからこそ、距離感が独特なのだろう。近づかれても執着しない。離れても引き止めない。けれど完全に拒絶もしない。

 まるで最初から、“人はいつか離れるもの”として扱っているような在り方だった。なのに。なぜか今、この沈黙は居心地が悪くない。むしろ妙に落ち着く。シュテルンは視線を少しだけ落とし、小さく息を吐いた。


「……本当に、不思議な人ですね」


 ゾンネは返事をしない。ただページをめくる音だけが静かに響く。だがその時間は、どちらにとっても確かに“退屈ではなかった”。


 結局、二人がその閉架古書庫から解放されたのは、それから一時間ほど経ってからのことだった。巡回に戻ってきた司書が鍵を開け、恐縮しながら頭を下げるのを、シュテルンはいつもの完璧な外交官の笑顔と口添えで、何事もなかったかのように穏便に収めてみせた。

 すっかり日の落ちた夜の街路へ出たところで、シュテルンは隣を歩くゾンネに視線を落とす。彼女の腕には、古書庫で確認しきれなかったいくつかの古い写本が、私的な貸出の手続きを経てしっかりと抱えられていた。


「まだ、調べ物の続きがあるのでしょう。……さすがにこの時間から、あなたを一人で帰らせるわけにはいきません。お送りします」


 いつもの断らせない紳士的な口調。ゾンネは少しだけ眉をひそめたが、彼が一度言い出したら引かないことをすでに知っていた。それに、夜道で旧王家の血筋を狙うような不穏な影から、彼という存在が結果的に最高の盾になることも、合理的思考の彼女は理解していた。


「……勝手にしてちょうだいな」


 そうして辿り着いたのは、彼女がひっそりと暮らす、邸宅

 高い本棚には年代物の古書が隙間なく並び、乾いた紙とインクの匂いがゆっくりと空間へ染みついていた。彼女が私的に集めた希少書の取り扱いも多く、部屋の奥の机は、まるで外界から隔絶されたように静かだった。その一角の机には、持ち帰った本や、開かれた資料がいくつも積み重なっている。年代の異なる薬学書、古い調合記録、写本の複製資料。整頓されているようでいて、ゾンネ以外には規則が分からない並び方だった。紙をめくる乾いた音だけが、ときおり静寂へ落ちる。ゾンネは追加資料を探しに、奥の書架へ向かっていた。その隙に、シュテルンは机上の一冊へ視線を落とす。


 特別な理由はない。


 ただ、彼女が触れていた本が少し気になっただけだった。何気なくページを開く。その瞬間。


 ふわり、と。


 空気がわずかに変わる。古紙の匂いに混ざって、微かな薬草の香りが立ち上がった。乾燥させた葉の青さ。調合途中のような淡い苦味。それは香水のように作られた匂いではない。

 長い時間、薬草へ触れ続けている人間にだけ染みつく自然な香りだった。まるで本そのものへ、彼女の痕跡が移っているみたいだった。


「……いい匂いがしますね」


 静かな声。ちょうど戻ってきたゾンネが、その言葉に眉を寄せる。


「薬草の香りでしょう?」


 即答だった。だが完全に否定しているわけではない。シュテルンは小さく笑う。


「えぇ。でも嫌いじゃない」


 何気ない返答。本当にそう思ったから、そのまま口にしただけの声音だった。ゾンネは一瞬だけ黙る。視線が、ほんの僅かに揺れる。


「……あなたも距離感がおかしいと思うわよ」


淡々とした指摘。だが以前のような鋭さは、もうほとんど残っていなかった。シュテルンは軽く肩を竦める。


「褒め言葉として受け取っておきます」

「褒めてないわ」


 間髪入れず返される。それでも声音は少し柔らかい。シュテルンは小さく笑った。

 そして本を閉じることなく、そっと机へ戻す。その仕草を見ながら、ゾンネは小さく息を吐いた。呆れているようにも見える。けれど本気で嫌がっているわけではない。


 その曖昧さが、最近は少しずつ増えていた。本来なら、“匂い”なんて言葉はもっと警戒される。


 近い。


 踏み込みすぎている。そう受け取られてもおかしくない距離感だ。けれど、この二人の間では不思議と会話が止まらない。

 ゾンネは再び椅子へ腰を下ろし、本へ視線を戻す。シュテルンもそれ以上は何も言わなかった。ただ向かいへ座り、同じ空間の静けさへ自然に溶け込んでいく。

 紙をめくる音だけが静かに響く。その時間は、少し前までなら考えられないほど穏やかだった。そしてその変化を、まだ自覚しきれていないのは――おそらくゾンネの方だった。



 その日の空は、朝からどこか落ち着かなかった。薄い灰色の雲が王都の上に広がり、陽射しはずっと鈍いままだった。石造りの街並みも、人々の声も、すべてが湿った空気に薄く覆われている。


 王城での用件を終えた頃には、空気の匂いが完全に変わっていた。外交区から上層街へ向かう石畳の道は薄く湿り、空には重たい灰色の雲が広がっている。

 王都北区画――貴族階級向けの研究施設や薬草温室が並ぶ一帯へ到着した頃、とうとう雨が落ち始めた。


(降る)


 そう思った次の瞬間、雨が落ち始める。

 最初は細かな粒だった。だがすぐに勢いを増し、石畳を叩く音が通りへ広がっていく。逃げ遅れた人々が軒先へ駆け込み、街のざわめきが少しずつ乱れていく。

 シュテルンは外套の肩へ落ちた雫を払いながら、小さく息を吐いた。


 ちょうど近くにあるのは、王家とも取引を持つ薬草温室。

 貴族階級向けの管理施設であり、希少薬草の栽培や研究も行われている場所だった。そして現在、その管理の一部を任されているのが、ゾンネの親族筋にあたる家系でもある。シュテルンがここへ出入りする理由も存在していた。 


 外交部経由の薬草管理記録の確認。

 王城への納入調整。


 表向きの理由なら、いくらでもある。だが最近は、そのどれもが少しずつ曖昧になっていた。ガラス屋根へ雨粒が打ちつけ始める。


 その時だった。


「……中へどうぞ」


 雨音に紛れるような静かな声。シュテルンが視線を上げると、温室の入り口にゾンネが立っていた。片手で扉を押さえたまま、こちらを見ていた。


「助かります」


 シュテルンが近づくと、ゾンネは少しだけ扉を開ける。


「別に」


 いつも通りの淡々とした返事。


「濡れたまま歩かれると、床が汚れちゃうもの」


 そう言いながらも、閉め出す気配はない。シュテルンは小さく笑い、そのまま温室へ足を踏み入れた。


 空気が変わる。


 外の冷えた雨の匂いが消え、代わりに湿った土と薬草の香りが肺へ満ちてくる。

 甘い花の匂い。青い葉の青臭さ。水を含んだ土の重い香り。外界とは切り離された、小さな別世界だった。

 ガラス屋根へ落ちる雨音は遠く、むしろこの空間の静けさだけを際立たせている。奥へ進くゾンネの背を、シュテルンは静かに追った。温室の中央付近では、棚いっぱいに薬草が並んでいる。希少種も多い。王都でもここまで管理された温室は珍しかった。


 ゾンネは慣れた動きで薬草の状態を確認し始める。葉の裏を見て、水分量を確かめ、必要なものだけを摘み取っていく。その動きには一切迷いがない。

 まるで植物の呼吸を最初から理解しているようだった。シュテルンはしばらく黙ってそれを見ていた。するとゾンネが、振り返らないまま口を開く。


「今日は静かなのね」

「そうでしょうか」

「えぇ。いつもより、少しだけ」


 観察するような声だった。シュテルンは棚へ視線を向けたまま、小さく笑う。


「たまにはこういう日もあります」

「具合でも悪いの?」


 ゾンネは薬草の葉を整えながら言う。気遣いというより、状態確認に近い声音。だがシュテルンは、その言葉に少しだけ目を細めた。


「……そう見えます?」

「顔色は悪くないけれど」


 そこでようやくゾンネが振り返る。淡い光が髪を透かし、静かに揺れた。


「妙に大人しいもの」


 その言葉に、シュテルンは小さく肩を竦める。


「それは失礼ですね」

「事実を言っただけよ」


 ゾンネはまた薬草へ視線を戻した。雨音だけが静かに続いている。しばらく沈黙が落ちる。

 だが不思議と息苦しさはない。社交界なら、沈黙は埋めるものだ。言葉を選び、空気を操作し、相手の反応を計算する。けれどここでは、その必要が妙に薄かった。シュテルンは温室の奥を見渡しながら、静かに言う。


「あなたといると、妙に落ち着くんですよ」


 その言葉は軽い調子だった。冗談にも聞こえる。社交辞令にも聞こえる。だがこの場所で聞くには、少しだけ真っ直ぐすぎた。ゾンネの手が止まる。


 数秒。


 雨音だけが続く。彼女は振り返らないまま、小さく言った。


「……変な人」


 拒絶ではない。呆れとも少し違う。ただ、理解できないものを見る時の声だった。


「よく言われます」


 シュテルンはそう返しながら、視線をゾンネへ向ける。薬草へ触れる白い指先。水を含んだ葉を確かめる丁寧な動き。

 社交界で見せる完璧な姿とは違う、余白のある横顔。そして何より、この場所にいる時だけ、彼女は少しだけ無防備だった。


 その事実を理解した瞬間。シュテルンは、妙に静かな気持ちになっている自分へ気づく。誰かに合わせる必要もない。言葉を選び続ける必要もない。ただ、この空間にいるだけで呼吸が楽になる。

 そしてその理由が、目の前の女性なのだと。まだ彼は、そこに名前をつけていなかった。ただ確かに。この時間が終わることを、少しだけ惜しいと思っていた。



温室へ入った瞬間、湿った空気がゆっくりと肌へ絡みついた。外の乾いた風とは別世界だった。薬草特有の青い香り。濡れた土の匂い。ガラス越しに落ちる淡い光。彼女の親族が管理する研究温室は、王都の喧騒から切り離されたような静けさに包まれている。


 シュテルンは視線を奥へ向けた。作業台の前で、ゾンネが誰かと話している。若い研究助手だった。机の上には調合途中の試薬と乾燥薬草が並び、男は記録紙を片手に慌ただしく言葉を返している。


「ですから、この比率なら安定すると思ったんですが……」

「安定はするけれど、香りが強すぎるのよねぇ」


 ゾンネは薬瓶を揺らしながら答える。その声音は普段より少し柔らかかった。研究の話をしている時特有の、熱の抜けた自然な声。

 いつものように一方的に結論を出すのではなく、相手の意見を聞きながら会話している。それだけで、空気が少し違って見えた。


(距離も近い)


 仕事上の距離としては問題ない範囲。それなのに。シュテルンは、その場でほんの僅かに目を細めた。


(……)


 胸の奥が、理由の分からない違和感を返す。熱いわけでもない。怒りとも違う。ただ、静かに引っかかる。


(面白くない)


 そう思った瞬間、自分でも少し驚いた。

 ゾンネがこちらへ気づく。


「どうしたの? 顔色が悪いわよ」

「そうですか?」


 即座にいつもの調子で返す。笑みも崩れていない。完璧な外交官の顔のまま。


「温室、暑いものね」

「えぇ」


 ゾンネは軽く納得したように頷く。


(暑いせいではないんですが)


 シュテルンは内心でそう思いながらも、口には出さない。ただ自然に視線だけが、再び研究助手へ向かっていた。


「お知り合いですか?」


 穏やかな声。あくまで礼儀正しく、何の問題もない問い。だがその“穏やかさ”が、逆に圧になっていた。

 研究助手は一瞬だけ言葉を詰まらせる。


「え、えぇと……温室の調合記録を少し……」

「そうですか」


 短い返答。それだけなのに、空気がわずかに変わる。研究助手の背中に、見えない圧が乗る。何もされていない。責められてもいない。それでも、なぜか居心地が悪かった。

 ゾンネだけが、その違和感に気づいていない。


「……何してるの?」


 不思議そうに首を傾げる。シュテルンは微笑んだまま答える。


「特に何も」


 完璧な笑顔。丁寧な態度。礼儀正しい声。それなのに。なぜか研究助手は、これ以上ここにいるべきではない気がした。


「すみません、そろそろ次の整理がありますので……!」


 半ば逃げるように一礼し、その場を離れていく。足音が遠ざかると、温室には再び静かな空気だけが残った。ゾンネはその背中を見送りながら、小さく瞬きをする。


「……どうしたのかしら?」

「さあ?」


 シュテルンは何事もなかったように振る舞う。ゾンネはしばらく考えるように黙り込み、それから淡々と言った。


「あなた、たまによく分からない空気出すわよね」

「よく言われます」


 いつもの会話。いつもの距離。だがシュテルンの中では、さっきの違和感だけがまだ残っていた。


(……面白くない、か)


 その感情の正体には、まだ名前がついていない。けれどひとつだけ分かっていることがある。この女が、自分以外の誰かと自然に話しているのは。なぜか、少しだけ気に入らなかった。



 夜会を終えた王都は、昼間とは違う静けさを纏っていた。


 煌びやかな灯りと音楽に満ちていた会場から少し離れるだけで、空気は驚くほど穏やかになる。石畳には街灯の淡い光が落ち、回廊付きの街路には夜風が静かに流れていた。遠くではまだ馬車の音や人々の笑い声が残っている。だがそれも、この場所まで来るともう別世界の出来事のようだった。


 シュテルンとゾンネは並んで歩いていた。互いに急ぐ様子はない。社交界の人間同士なら、夜会の出口で形式的に別れて終わる関係でもおかしくない。それなのに気づけば最近は、こうして帰路を共にする時間が増えていた。


 会話がなくても、不思議と沈黙が重くならない。そのことを、シュテルンは少し前から自覚し始めている。夜風がゾンネの髪を揺らした。彼女は視線を前へ向けたまま、不意に口を開く。


「そういえば」

「はい?」


 シュテルンが視線を向ける。ゾンネは特に間を置かず続けた。


「あなた、誰にでもああいう話し方なの?」

「どういう意味です?」

「距離が近いのよ」


 言葉は淡々としていた。責めているわけでも、嫌がっているわけでもない。ただ純粋に“そう見える”という事実を口にしただけの声音だった。シュテルンは小さく笑う。


「外交官ですから」


 即答だった。ゾンネはすぐに息を吐く。


「本当に便利なのね、その言葉」


 その返しに、シュテルンは肩を竦める。


「よく言われます」

「でしょうね」


 短いやり取り。それだけなのに、空気は妙に穏やかだった。二人の足音が石畳へ静かに重なる。回廊の柱が一定の間隔で影を落とし、そのたびに二人の輪郭が明暗の中をゆっくり移動していく。

 やがて、ゾンネがふと呟く。


「……シュテルン」


 その瞬間。彼の足が、ほんのわずかに止まった。空気が薄く揺れる。ゾンネは気づいていない。あるいは気づいていても、特別なことだとは思っていない。


「どうかした?」


 不思議そうな声。シュテルンはすぐに歩幅を合わせ直し、小さく笑った。


「いえ。少し驚いただけです」

「驚くこと?」

「初めて名前を呼ばれたので」


 その言葉に、ゾンネは一瞬だけ瞬きをした。まるで今さら気づいた、という顔だった。


「そんなことで?」

「そういうものですよ」


 シュテルンは穏やかに返す。だがその声音は、いつもより少し柔らかかった。ゾンネは数秒だけ黙る。それから視線を逸らすように前へ戻した。


「呼びにくい名前でもないでしょう?」

「そういう問題ではない気がしますね」

「そう?」


 淡々とした返事。けれど拒絶の色はない。むしろ、以前よりずっと自然だった。シュテルンはその横顔を見る。この女は、距離を詰めることに驚くほど無自覚だ。


 相手へどんな影響を与えるのかも、あまり理解していない。だから時々、ひどく危うい。なのにその無防備さを、不快だと思えない。


(むしろ――嬉しいと思ってしまう)


 その事実に、シュテルン自身がまだ少し慣れていなかった。回廊の隙間から夜風が吹き抜ける。

 街灯の光が揺れ、二人の影が石畳へ長く並んで伸びた。まだ確かに距離はある。だがその距離は、以前よりほんの少しだけ、確実に近づいていた。


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