2-1
◇
数日後。
シュテルンは王都西区の外れにある旧薬草園を訪れていた。王家直属だった時代の名残を残す、古い温室区画。現在は王国管理から外れ、かつて旧王家に仕えていた貴族家門が細々と維持している土地だった。希少薬草の栽培と管理を請け負うその一族は、王政が変わった今でも完全には切り捨てられず、王城へ最低限の薬草供給だけを続けている。
シュテルンがここへ来た理由は単純だった。
王国からの依頼品確認。
外交部経由で申請されていた薬草の受領確認と、管理状態の視察。それだけなら、本来は部下でも済む仕事だ。だがシュテルンは自分で来た。
理由を考えればいくらでも並べられる。旧王家系統との接触確認。温室管理者の監査。あるいは舞踏会以降、名前が浮上し始めている“ゾンネ”という人物の観察。どれも間違いではない。だが、どれもしっくり来なかった。
調査報告を読んで以降、妙にあの女の言葉だけが頭に残っている。あの静かな声まで、不自然なほど鮮明だった。
「……」
シュテルンは小さく息を吐く。
自分が何を確認したいのか、まだ上手く整理できていない。
それでも足はここまで来ていた。
温室の扉を開ける。昼下がりの柔らかな光が、ガラス越しに白く落ちていた。湿った空気。甘い花の匂い。青い薬草の香り。土と水が混ざる静かな空間は、社交界とも王城とも違う時間で満たされている。
奥の方で、ゾンネが薬草へ触れていた。白い指先で葉を避け、状態を確かめながら必要な部分だけを摘み取っていく。その動きには迷いがない。まるで植物の性質を最初から知っているかのようだった。シュテルンは少しだけ目を細める。舞踏会で見た時とは違う。今の彼女には、誰かへ向けるための顔が一切なかった。
ただ静かに、この空間に馴染んでいる。その姿が、妙に自然だった。
彼女の方へ近づいた瞬間、手が一度だけ止まる。振り返りはしない。ただ、小さく声だけが落ちた。
「……王国の人って、本当に突然来るのね」
歓迎の響きは薄い。だが追い返すほどの拒絶でもない。シュテルンは少しだけ目を細める。
「今回は正式な確認依頼ですよ」
「薬草管理の視察、だったかしら」
「ええ。一応は」
“一応”
その言葉に、ゾンネが僅かに視線だけを向ける。
探るような目だった。シュテルンは肩を竦める。
「半分くらいは個人的な興味ですね」
「正直なのね」
「隠しても見抜かれそうですので」
その返答に、ゾンネは小さく鼻で笑う。初めて見る、わずかに力の抜けた反応だった。そしてようやく、彼女は薬草へ視線を戻す。
「……それで?」
「どうしましたか?」
「視察。するんでしょう?」
その言い方は投げやりなのに、どこか受け入れているようでもあった。シュテルンは温室内を見回す。
棚一面に並ぶ薬草。乾燥途中の花。見慣れない調合器具。そして、その中に混ざるいくつかの危険植物。
「……随分と、物騒なものまで育てているんですね」
シュテルンがそう言うと、ゾンネが視線だけを向ける。
「物騒?」
「毒性がある花でしょう?」
「そうね」
あっさり認めた。ゾンネは紫色の花へ指先を滑らせる。花弁の縁は僅かに黒ずんでいた。
「でも、毒だから悪いわけじゃないのよ」
「と言いますと?」
「量を変えれば薬にもなるわ」
まるで紅茶の話でもするような口調だった。シュテルンは少しだけ眉を上げる。
「随分、簡単に言いますね」
「だって、実際に、そういうものだもの」
ゾンネは棚へ並ぶ小瓶へ視線を向ける。
「毒と薬は、案外紙一重よ」
「例えば?」
ゾンネは少し考えるように首を傾げた。
「同じ薬草でも、乾燥時間を変えるだけで作用が変わるわ。発酵させれば鎮静になるものもあるし、逆に毒性が強くなるものもある」
白い指先が葉を摘む。その仕草は優雅なのに、妙に慣れていた。
「混ぜる素材次第で香りも作用も変わるし……熱の入れ方でも変化する。ほんの少し分量を違えるだけで、人を眠らせる薬にもなるし、命を奪う毒にもなる」
そこまで言ってから、ゾンネはふとシュテルンを見る。
「……怖い?」
試すような声だった。だがシュテルンは小さく笑う。
「いえ。むしろ興味深いですね」
その返答に、ゾンネは少しだけ目を細めた。普通なら、この手の話をすると大抵は距離を置く。気味悪そうな顔をする者も少なくない。
だがシュテルンは違った。怖がりもしない。引きもしない。むしろ楽しそうだ。
「あなた、本当に変わってるのね」
「それはお互い様では?」
ゾンネは小さく肩を竦める。そして再び薬草へ触れながら、ぽつりと零した。
「薬も毒も、人間が勝手に線引きしてるだけなのよ」
その言葉だけ、妙に静かだった。シュテルンは僅かに目を細める。その瞬間。
彼は初めて思った。この女は、“普通”ではない。ただ美しいだけでも、賢いだけでもない。もっと得体の知れない何かを抱えている。
「あなた、本当に何者なんです?」
不意に零れた問い。するとゾンネは少しだけ瞬きをした。それから、どこか曖昧に笑う。
「……ただの変わり者じゃないかしら?」
その答えは、はぐらかしにも見えた。だがシュテルンは、それ以上追及しなかった。追及するより先に。もっと知りたいと思ってしまったからだ。
◇
数日後。
王城の回廊は、夜会準備の使用人達で騒がしかった。磨かれた床を忙しなく行き交う靴音。運ばれていく装飾品。開け放たれた窓から入り込む風。
普段は静かな王城も、今はどこか落ち着かない空気に包まれている。近く開催される外交夜会のため、王城では香料や薬草類の納品確認も増えていた。王都西区の旧薬草園から届けられた薬草についても例外ではなく、その確認役として今日はゾンネ自身が王城へ来ている。
そんな中。ゾンネは大量の書類を抱えながら廊下を歩いていた。納品記録、薬草一覧、調合管理表。紙束は腕の中で今にも崩れそうになっている。
それでも本人は平然としていた。
「……随分重そうですね」
後ろから、聞き慣れた声が落ちる。ゾンネは振り返りもしない。
「そうでもないわ」
「その割には危なっかしいですが」
「気のせいよ」
その瞬間。抱えていた紙が傾いた。数枚が床へ滑り落ちる。
沈黙。
ゾンネがゆっくり視線を逸らした。
「……今のは事故よ」
「えぇ、もちろん」
シュテルンは笑いながら紙を拾う。慌てる様子を隠そうとしているのが分かりやすい。
珍しい。
どんな状況でも崩れない女なのに。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。……意外ですね」
「何が?」
「あなたが慌てるなんて」
ゾンネは紙を受け取りながら小さく眉を寄せる。
「慌ててないわよ」
「そういうことにしておきます」
その返答に、ゾンネは少しだけ不満そうな顔をした。だがゾンネは少しだけ不満そうな顔をして、ぷいと視線を逸らした。どんな状況でも崩れない彼女の、そんな子供っぽい抵抗を、シュテルンは面白そうに見つめていた。
「送りましょう」
「必要ないわ」
「そう言うと思いました」
断られることなど最初から分かっていたように言う。ゾンネは呆れたように息を吐いた。
「あなた、暇なの?」
「失礼ですね。これでも忙しいんですよ」
「全然そう見えないわよ」
結局。シュテルンは自然な顔で隣を歩き始める。ゾンネも、追い払わなかった。
最初の頃なら、適当な理由をつけて距離を取っていただろう。けれど最近は違う。気づけば、こうして隣にいることが増えていた。
廊下の窓から風が吹き込む。その拍子に、ゾンネの抱えていた紙がまた一枚揺れた。シュテルンが自然に押さえる。
「……危なっかしいですね、本当に」
「だから事故だって言ってるでしょう?」
「普段完璧そうな人が崩れると、少し安心します」
ゾンネが怪訝そうに見る。
「安心?」
「えぇ。人間らしいので」
その言葉に、ゾンネは少しだけ黙った。人間らしい。その言葉を向けられること自体が、どこか久しぶりだった。
「……変な人」
小さく零す。するとシュテルンは穏やかに笑った。
「よく言われます」
拒否されても離れない。それが最近のシュテルンだった。そしてゾンネもまた。以前ほど、その距離を嫌がらなくなっていた。
◇
王都上層区の外れに、その古書店はあった。表向きは、貴族向けの小さな会員制書店。だが実際には、王立図書館にも収蔵されていない古文書や、個人蔵の研究記録まで流れ着く“知る者だけが知っている場所”だった。
重い木扉を開けた瞬間、空気が変わる。乾いた古紙の匂い。革張りの背表紙に染み込んだ古いインク。棚の奥には、年代不明の写本や、発禁寸前の研究資料まで並んでいる。
静かだった。
ここでは無駄な会話をする者が少ない。知識を探しに来る人間だけが、静かに滞在する場所だからだ。
その最奥、本棚の影が濃く落ちる区画で、ゾンネは小さく眉を寄せていた。
「……あと少しなのだけれど」
視線の先には、最上段へ押し込まれた一冊の古書。擦り切れた革表紙。旧王家時代の薬草記録をまとめた希少本だった。
ゾンネは静かに脚立を引き寄せる。慣れた動きだった。片足を乗せ、そのまま迷いなく上へ登る。細い指先が本へ伸びる。あと少し。だが、届かない。ゾンネは露骨に嫌そうな顔こそしなかったが、ほんの僅かに眉間へ皺を寄せた。もう一段上へ、と足を動かしかけた瞬間。
「こちらですか?」
背後から静かな声が落ちる。同時に、すっと伸びた手が最上段の本を軽く引き抜いた。ゾンネが振り返る。そこには、いつの間にか当然のような顔で立っているシュテルンがいた。
「……いつからいたの?」
「少し前からですよ」
何事もなかったように答える。ゾンネは軽く息を吐いた。
「気配がないのよね、あなた」
「外交官ですから」
即答だった。便利な肩書きね、とでも言いたげな視線が返る。シュテルンは小さく笑いながら、本を差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
ゾンネが手を伸ばす。その瞬間、指先が僅かに触れた。ほんの一瞬だけ。普通なら気にも留めない程度の接触。
だがシュテルンだけが、その感触を妙に意識していた。ゾンネはまるで何事もなかったように本を受け取る。興味はすでに本へ戻っていた。
「便利ね、その言葉」
「どの言葉です?」
「外交官ってやつ」
呆れたように言いながら、ゾンネは脚立から降りる。動きに無駄がない。そのまま古書を小脇へ抱えた。シュテルンは自然に隣へ並ぶ。歩幅を合わせることすら、もう無意識だった。
「便利、でしょうか?」
「えぇ。都合のいい時だけ現れる感じがするもの」
さらりとした言葉。けれど棘は薄い。半分くらいは冗談だった。シュテルンは少しだけ目を細める。
「それは誤解です」
「そう?」
ゾンネが横目でちらりと見る。
「じゃあ何なのよ。」
少しの沈黙。古書店の奥では、老店主が静かに紙を綴じる音だけが響いている。シュテルンは歩きながら、淡々と答えた。
「必要な時にしか、使ってませんから」
軽い言い方だった。けれどどこか妙に真面目だった。ゾンネは一瞬だけ黙る。それから視線を前へ戻した。
「……それ、もっと悪い意味にも聞こえるわね」
「そうでしたか?」
「えぇ」
小さく息を吐く。だがその声音は、以前より柔らかい。
シュテルンは気づく。この人は、本来なら人との距離を極端にとる。近づきすぎれば離れるし、踏み込まれれば遮断する。それなのに最近は、隣にいることを完全には拒絶しなくなっている。
この古書店も、本来なら彼女にとって“ひとりでいるための場所”だったはずだ。温室とは違う。知識の中へ沈むための避難場所。誰にも邪魔されず、誰にも見られず、自分の思考だけで呼吸できる場所。そこへ、シュテルンは当たり前のように入り込んでいる。それなのに、不思議と不快ではなかった。その事実の方が、ゾンネには少しだけ理解できなかった。
◇




