1.
どうぞよろしくお願いいたします。
みーんみん、みーん、みーん、みんみんみんみん
耳を突き刺す音量で響く蝉の声。まだ七月になったばかりというのに、もうこんなに主張が激しくなっている。さらには雲ひとつない空から、人間を燃えカスにしそうなくらいのビームが降り注ぐ。
——なんでこんな時期に研修旅行なんだろう
詠は社会人二年目になる二十四歳。これで研修旅行も二回目になる。
今年の行き先は観光名所のとある県。行くなら北にしてほしかったところだが、末端職員がそんなことを言えるはずもない。
一応、行先の希望アンケートは回覧されるが、記入しても意味はないと耳にした。そのときにはすでに、行先は決まっているそうだ。友人に聞いてみたところ、同じような答えが返ってきた。
朝っぱらからアルコールを摂取した人たちは元気いっぱい。足元に敷かれたアスファルトが、集めた熱を押し返してくるのにずんずん歩いている。むらむらと陽炎が見えるくらい。
酒を飲んでいない人も暑さにやられ、酔っ払いと同じくらいに顔が火照っている。
これから酒造に見学に行くというのに、こんなのでいいのだろうか。
飲んでいない人は暑さに負けて無言、できあがっている人は蝉に負けないくらいの声量で会話中。
詠は酒が飲めない。これは体質というもので、採血のためのアルコール消毒でも肌は真っ赤に、よく煮詰めた甘酒でも酔ってしまうほどの重症だ。医者にアウトを言わせ、ドクターストップを理由に酒の誘いは断っている。
だからこそわからない、気持ちよさそうに話す人たちの気持ち。これではただの近所迷惑だ。
でも実は、あそこに混ざりたいという気持ちもある。アルコールというのは夜に摂取のイメージが強いから、朝や昼だと特別感を得られそうで。だからこそ、あちらの人たちはあんなに楽しそうなのだろう。
酒造がある地域ということで、周囲は田んぼが広がっている。若々しい稲が気持ちよく見える。民家がぽつぽつとあるくらいで、大きな声が迷惑になることなどないのだろう。酔い醒ましの散歩にはちょうどいいかもしれない。
——この気温、湿度でなければね
行先の酒造の周辺は道が狭く、残念ながらバスが入れなかったため、近くで下ろしてもらい歩いている現在。目的地までたった五分とはいえ、辛い。
到着した頃には全員汗だく。なのに見学では蒸した米の熱気が伝わって、体は冷えない。説明を受けながら大人数で歩いているため、冷房が効いているはずの場所に移動したはずなのに涼しさを感じない。
ここでは神様に奉納するための人間が飲んではいけないお神酒も作っていて……、などの説明もされたが、そんな間にも冷房の温度を下げてほしいと考えていた。
さて、そのあとは広い土産屋で自由行動。呑兵衛たちは、見学後の無料試飲でさらに飲んで、大変楽しそうだ。上の機嫌が悪くならなかったのは良いこと。
飲めない詠だが、家族への土産として、飲み比べができるワンカップのセットを購入し、自分にはここの特産で作られたとおすすめポップの付いていたジュース。これで充分だ。
またあの熱したフライパンの上を歩いて戻るのは億劫だと思っていたとき、
「涼しいところに行きたいですね」
誰かのそんな言葉に、説明をしてくれた人が言った。
近くに神社がある、と。
そこはこの酒造から近いため、毎日拝みに行っているという。階段は上るが木陰になっていて、少なくともバスが待っている場所まで歩くよりずっと涼しい。
しかもその神社は小さいながらに駐車場があり、まわると観光バスも通れるとのこと。呑兵衛たちが値段など気にせずしこたま酒を購入したおかげか、何台かの車でそこまで送ってくれるという。良い客には良いサービスがつくらしい。実際は、酔った客、だが。
到着したのは、ごく一般的な神社。鳥居があり、狛犬がいて、手水舎があり。
人がいないことから、観光名所とは言えないように感じる。しかしきれいに掃除されていて、空気が軽く思う。日陰に入ったからかもしれないが。
もともと予定にない場所だったが、二十分ほどの時間をとって自由見学となった。
お社には、さっきの酒造のお酒があげられている。店で売っていたものだったらしく、あれ買った、という会話が聞こえてきた。
ということは、これは神様用のお神酒ではない。見てみたいという気持ちがあった詠は肩を下げた。
手を合わせ、旅行中涼しいようにお願いし、神様に対してもご開運のお祈りをし、一周まわる。こういうとき、詠はいつも単独行動。社内の人との関係が悪いのではない。マイペースに動きたいからだ。
お社のまわりも木で覆われていて、まるでこの場所を守っているようだ。ただ、階段を上って来ただけあって、木の向こうは高すぎず低すぎない崖が。近いところには黄色のテープが張られていて、入れないようになっている。
とはいえ、跨ぐこともしゃがんでくぐり抜けることも簡単で、酔っ払いが誤って……、なんてこともあり得る。さすがにそんなことをすることはないと思うが。
木陰は照り付ける太陽の日差しを遮って、木漏れ日に変えてくれている。木の周辺を歩いていると、すり抜けてきた風が気持ち冷たく感じる。この崖の向こうに水の張られた田んぼがあるからだろうか。田んぼの上を駆け抜けた風が、湿気をこの木で押しとどめられ、冷たさだけを残してくれているのかもしれない。それが心地よくて、時間に間に合うまではこのあたりをぶらぶらすることにした。
——おばあちゃんの家のまわりも、こんなのだったな
木々をすり抜ける風が、ひゅぅぅ、と音を立てる。さっきより強くなった。心なしか暗くなった気もする。
どこからか、なんか出そう、なんて神様の前で縁起でもないことを言う人がいた。
でも、たしかに、と思ってしまった詠。もし出るなら……
「よみちゃん、」
自分を呼ぶ声。
会社の人ではありえない。下の名前で呼んでくる人はいない。
それに、この声。こみ上げる懐かしさ。
「よみちゃん、」
——おばあちゃんの、声
父方の祖母が、二年前に他界した。ちょうど社会人になり、仕事にも慣れてきた頃だった。
大好きだった。幼い頃は家が近いこともあり、歩いて遊びに行っていた。忙しい両親の代わりに、たくさんたくさん面倒を見てくれた。さみしいとき、一緒にいてくれた。おやつを作ってくれた。ことあるごとに、褒めてくれた。いたずらしたら、叱りながらも笑ってくれた。どんな泣き言も無言で聞いてくれた。
がんばってるの知ってるよ、とそれだけで癒された。
最期は、突然訪れる。
祖母はぽっくりと、逝ってしまった。心臓の発作かなにかだったろうか。
その日は珍しく上司に褒められて、祖母にも褒めてもらおうと、帰りに車を走らせたのだ。社会人になってからは家が遠くなったから。
いわゆる第一発見者になったのが、詠。居間の和室に横たわった祖母を見つけた。祖父の遺影がある仏壇のお茶を下げようとしたのか、湯呑が転がって色が変わった中身が、くすんだ畳の色と一体化していた。
笑った顔を、見たかった。
それはもう、叶わない。
はずなのに。
「おばあちゃん?」
探す。姿を探す。
あのときはまだ寒くて、いつもの山吹色の半纏を着たおばあちゃんが、
——あ
「いらっしゃい」
その姿は忘れない。その声も、言葉も。
“いらっしゃい”と、どんなときもそう言って招き入れてくれた。
いつも、笑顔で。
そして、今も。
「おばあちゃん!!」
木の向こうで、いつもの笑顔で、招いてくれている。
——行かなきゃ
走り出そうとしたそのとき。
「だめだ!!」
大きな声とともに、体をがっしりと掴まれる。
「離して、離して!」
「だめだ、行くな! 危ない!」
「なんで?! あれは私のおばあちゃん! 危なくなんてない!」
男の声。止められている体。羽交い絞めにされても、負けじと足を出す。
行く。絶対に。
「おばあちゃん!」
「いらっしゃい」
「よく見ろ!」
「おばあちゃん!! 今!」
——行く、から!!
「それはほんとに、君のおばあちゃんか?!」
「当たり前で、」
——え?
男に止められても前に出そうとしていた体と足から、一気に力が抜けた。どん、と後ろ向きに転がる。うぐ、と苦しい声がしたのは、男のものか。そんなことは気にならない。ひゅ、と喉が鳴る。
たくさんの手の影が、こちらに伸びている。形は手のように五本指だが、薄暮時のような薄暗い色で、人ではありえない腕の長さ。骨などないように、ゆらゆらと揺らめきなにかを求めてうじゃうじゃと伸びている。
背筋に走るものがあった。
これは、恐怖だ。
「おばあ、ちゃん、は」
それは、アスファルトの上にあった陽炎のように、ゆらりゆらりと揺れている。まわりの手と同じく薄墨色で、さっき見た祖母の輪郭など、ひとかけらもない。
尻餅をついたまま、詠は後退していた。そこはだめ、と誰かが、なにかが、詠に訴えかけている。
「わかった?」
男の声。
「あれは、君のおばあちゃんじゃない」
つう、と涙が滑り落ちる。これは恐怖ではない。悲しみだ。
また会えた。やっと会えた。
するはずだった報告をして、褒めてもらって、笑ってもらおうと思ったのに。
「あの先は、崖だ」
——崖?
何本もの手が伸びているが、それが伸びてこない線がある。よく見れば、それは、危険と張られたテープだった。
「私、あのまま、行ってたら」
「死んでたよ」
このお社まで、階段を上って来た。向かったその先が崖になっている場所。落ちたら。高すぎず低すぎないとしても。
死んでた、のその一言が、伸びる手とまた別の意味で、背筋を凍らせる。
「あ、あ、あれは」
——何?
「故人の未練だ」
この人の手のようなものが、死んだ人間の未練だなんて。
男の言葉を真面目に受け取る自分を、おかしいとは思わなかった。伸びてくる手が、なにかを求めている。手の形だとわかってすぐに、そう思ったから。
「君は呼ばれたんだ」
「なんで」
「君のなにかが、このなかの強い未練と共鳴したから」
「きょう、めい」
「きっと君は、他の感情に共感しやすいんだろう。未練を果たそうと生を求めて、あれは生きた人間を呼び込むんだ」
「おばあちゃんが、おばあちゃんだったあれが、一番、強い、未練?」
あれは祖母に見えていた。もう形はなく、もとより祖母ではなかったが、その未練は詠と同じ想いを、死んでもなお抱き続け、求めている。
——そんなの
——そんなの
「やめろっ」
男の声がした。なにをやめろと言ったのかわからない。
わかったのは、唸るように手が詠に押し寄せたこと。視界が一気に真っ暗になる。光などない世界。
あの手に、飲み込まれたと思った。男が言った“呼ばれた”は、よく死んだ人間に使う意味だと思った。
ということは、飲み込まれた詠は、その未練とやらに“生”を“奪われた”と思った。
——かなしすぎる
この闇世界。目を閉じて開けてみても、同じこと。どこからもなにも聞こえない。やっぱり。
——見つけた
音が、した。
声が、人の声が。
どこだかわからない場所で、詠のなかになにかが、一気に、流れ込んだ。




