終章2:まどろむ脅威
前話までのあらすじ:ドフを殺し、その魔力を吸収した里奈。トーラやラネッシュをも上回る力を手にした彼女だが、その直後、二度目の世界移動を経験する。霊堂知命会からの召喚であった。
かつてのトーラと同じようにして生まれ育った世界へ舞い戻った里奈。そこで父の死と、彼女を神と崇める
人々を目の当たりにする。霊堂知命会の目的は、魔女の力によって世界の常識を覆すこと。里奈は自分に向けられた思いに応え、集まった人々へ自身の力を振るうのだった。
ガラス張りの天井から陽光が降り注ぐ。
人々が行き交うリノリウムの床、あるいは彼らが腰掛ける合成皮革のソファー。それらはエタノールで念入りに消毒が施され、故に中央市警察病院には常に、少しだけ人を警戒させるような甘くざらついた匂いが漂っている。
「お大事になさってください」
受付の事務員がそう口にする。ある患者は「ありがとう」とはにかみ、またある患者は何も言わず、ぷいとそっぽを向いた。事務員も慣れたもので、その無愛想な様に一瞥すらくれることはない。
もとより患者に愛想など求めていないということだ。ただでさえ仕事が山積みな中、一人一人の患者に割ける時間は限られている。
そんな中、受付に二つの人影が近づいた。吊るしのスーツを纏っているがその下の肉体は鍛え上げられており、見るものが見れば一目で尋常のサラリーマンではないことが分かるだろう。
事実、彼らを見た事務員は素性を聞きもせず、
「305です」
と言った。同時に複数の書類のとじ込まれたファイルを二人に手渡す。
「おう」
二人組のうち年かさの方が鷹揚に答えた。若者の方がファイルを受け取ったのを確認し、廊下へ歩き出す。この廊下は別棟へと続いている。
「精神鑑定の結果は?」
「表立って変なところはないみたいですけどね」
歩きながら、若者はファイリングされた書類をめくる。
「強いて言えば、これでしょうか」
若者が差し出した1枚の書類には、ひときわ目を引くものがあった。紙面右に縮尺を小さくして載せられている稚拙な木のイラストだ。左側にはイラストを踏まえた精神科医の分析が書き連ねられている。
「バウムテストか。患者にイラストを描かせて、そこから内面を読み取るという」
「ええ。全体の評価としては「謙虚で社交性も高く、活動力のある人柄が読み取れる」と」
「結構じゃないか」
「気になるのはこの部分です」
若者が指したのは分析結果の一文だ。
「何……描写の途中で枝の描写を変えた可能性がある。だと」
「そうなんです、ここ見てください。描かれている枝のうち、一本が微妙に歪んでる」
「確かに、一度細くなった枝が元の太さに戻っているな。そしてこの枝は、妙に長い」
「そう、この一本だけが、まるで天を抱くように長く伸ばして描かれているんです」
「そんなの、よくあることなんじゃないのか。そもそも素人の描いた絵なんだし」
「それならいいんですが、医者はこの枝が、本来はこの細まった部分で描写を終えるつもりだったのではないかと分析しています」
「途中で描写を変えた可能性というのは、そういうことか」
「はい。ここで窄まるようにして切るつもりだった枝を、あえてより長く伸ばした」
「そんなことをする理由があるのか?」
「バウムテストを知っていて、内面を隠すためにそうしたのでは……」
長い廊下に二人の足音だけが響いた。
年かさの方が低い声で尋ねた。
「枝がここで切れていたら、それはどういう内面を示してる?」
「他者への攻撃性」
「………………」
「バウムテストで見るのはイラストの形だけじゃありません。描写する際の鉛筆の動きも判断材料になります。それによると、一度紙面右側に鉛筆を立てたのちに真ん中に置き直して描き始めたと」
「紙面の右側に木を描いたとしたら、一体どんな分析をされていた?」
「諸説ありますが、基本的にはアグレッシブなプラスの意味を持たされます。一言で言えば、自己肯定感が強い」
「つまり、医者はこう言いたいんだな? この娘は自己肯定感が強く、他者に攻撃的だ、と」
「そう決めつけてはいません。あくまで結果は、善良な女子中学生のメンタリティを持っていることを示しております」
「同じことだ」
年かさの男の額には、深いシワが刻まれていた。
「あれだけの惨事に巻き込まれて、バウムテストで無欠の回答を叩き出す? もし演技でなかったとしたら、それはそれで別の怪物を示唆してんだよ」
「怪物って……お忘れですか、あの子は大量殺人事件に巻き込まれて、お父さんまで無くしているんですよ。まだほんの子供なのに」
「現場に残った痕跡はこう言ってる。虐殺を引き起こしたのはあの子だと」
「信じがたいことです。確かに現場には海外から違法に買い付けた軍用兵器があった。いくつかは、すでに起動した形跡まで……。里奈ちゃんがそれを使ったと言うんですか?」
「違う、信者たちが使ったんだ。あの娘から身を守るために。だが、及ばず殺されてしまった」
若者が深いため息をついた。礼儀を欠いていると非難されても仕方ない態度。だが、年かさの男はそれを咎めなかった。
「俺の頭がおかしくなったとでもいいたいようだな」
「…………いえ」
「ごまかす必要はない。俺も自分が正気なのかどうか、分からなくなる時がある」
だがな、と彼は息を大きく吸った。
「深見里奈さんは、確かに死んだ。俺は殴り殺された彼女の死体を確かに確認した。監察医の派遣だって俺がしたんだ。だが彼女はピンピンしていやがった。お偉方は俺が判断を誤ったと……生きた人間を死体と見間違ったと非難したがっているようだが、それにしてもおかしい。俺が見た顔面ボロボロのホトケはどこへ消えた? カルトの連中が病院を襲ったのはなぜだ? 深見さんはなぜ学校にも行かず、あんな所にいたんだ?」
「何が言いたいんです?」
「俺らの知識じゃ言い表せない何かが起きたんだよ。それはたぶん、奇跡なんて輝かしいものじゃない。もっと異質で、この世界に存在してはいけない何か。あの子は、その落とし子だ」
「……それ、俺以外の人の前で言っちゃダメですよ。正気を疑われそうなんで」
「そうでもなければ信者たち146名が、一人も逃げ出すことができずに殺された説明がつかないんだよ」
「こんちわ〜っす」
若い男が軽薄な様子で引き戸を引いた。むろん、この態度は演技だ。病室の中に居る人物を萎縮させず、親しみやすい雰囲気を演出するための演技。彼はそういう工夫に余念のない男であった。
「元気かな、里奈ちゃん」
室内はがらんとしていた。深見里奈が収容されている病室は、患者と訪問者の身の安全を考慮して必要最低限の物品しか置かれていない。床に固定された椅子とベッド。一見すると洒落た模様のようにも見える窓枠の格子は、その意味を知るものにとっては中世の牢屋にあるものと何ら変わりない。壁際では頑丈なアクリルに覆われた人工の目が、小さな被疑者を——今は二人の訪問者も——見つめ続けていた。
「ああ、警察の……。こんにちは」
そう答えた少女の声に、一切の揺らぎはなかった。眠っていたのか、ベッドの中から身体を起こす。一冊の本が毛布の上から滑り落ちて、パタリと床に転がった。
「何か分かりましたか?」
(この娘の綺麗な瞳を見ていると、信じたくなる)若い男は思った。
(あらゆる証拠を無視して、この子を連れ出してやりたくなる)
年かさの男は無愛想に返した。
「分かったとしてもあなたに教えることは出来んのですよ、深見さん」
「私が被疑者だから?」
年かさの男は答えなかった。代わりに若い方が、
「そうピリピリしないでよ、うちもお巡りさんだからさ、色々疑ってかからなきゃダメなんだよ」
「そうですよね。……訪ねてくる皆さんの顔を見ていると、自分が何かとんでもないことをしでかしたんだろうって、何となく分かるんです。何か思い出せれば……」
顔をしかめてこめかみに手を当てる里奈。
「もう何回も聞かれたことだと思うけど、もう一度だけいいかな。本当に何も覚えていないの?」
「すみません……何も。朝学校に行こうと家を出て……気がついた時には病院にいたんです」
「お巡りさんが駆けつけた時に、君はひどい怪我を負っていた。……同じように大変な怪我をした人が、近くにたくさんいたんだ」
その「たくさん」に含まれる全員が今では命を落としていることは、彼女には伝えていない。
「何が起こったのか分かれば、みんなの治療に役立てられるかもしれない。どうかな」
最初に報告を受けた時、若い男の脳裏に浮かんだ言葉は「相打ち」だった。最新兵器で武装したカルト団体の構成員とたった一人の女子中学生が戦い、片方は死に絶え残る片方も重傷を負う相打ちになった。ありえないことだが、現場に残された全ての証拠(と男の直感)はそう語っていた。
(そう、論理的に考えればありえない。だけど、)
——もっと異質で、この世界に存在してはいけない何か。
そういうものが介在した可能性が、もしあるとすれば。
「ごめんなさい、本当に何も覚えていないんです。それだけ大きな被害が出たのなら、例えば獣害とか」
その可能性は既に検討済みだった。現場には獣の痕跡は残っていない。もっとも悲惨さで言えば悪名高い獣害事件にも引けを取らないレベルであるのは間違いない。なにせ被害者のうち、真っ当な形で棺に収められたものは片手で数えられる程度の人数しかいなかったのだ。
「確かにあのあたりは熊が出るがなぁ。入り口を考えると、大きな動物は侵入できないだろう?」
里奈はキョトンとした様子で年かさの男を見ていた。彼の放った鎌かけは不発に終わった。
「そういうことはもっとすごいプロの人たちが調べているから、いいんだ」
若い男は慌てて割って入った。
「ちょっとした心当たりとかでも、教えてくれると嬉しいんだけど。例えば最近身の回りで起こった不審な出来事とか、怪しい人を見たとか」
「もう知っていることは全部お話ししたのですが……」
「うん、何度もゴメンね。けどそこから新しい発見があったりするからさ、もうちょっとだけ付き合ってよ」
警察の言う「ちょっと」は、「納得がいくまで」を意味する。二人は2時間ほどかけて、半ば尋問のように里奈の知っている情報を吸い上げた。その結果……。
「進展なし、でしたね」
「そう簡単に進展なんてあるもんじゃない。……にしても、本当に記憶を失っている可能性が出てきたな」
「そうですね……彼女の返答は全て、こちらから提供した情報に彼女なりの推測を混ぜたものでした。あの子の持っている情報が全くのゼロであるか」
「あるいは、我々の想像以上に頭の切れる娘なのか、だな」
二人の足取りは重い。勤務時間を使って出向いたにも関わらず収穫がゼロとなれば、上からの反応も芳しくないだろう。
「……お前、あれ見たか?」
「あれ?」
「俺たちが部屋に入った時、ベッドの上から本が床に落ちただろう? 何を読んでいたか、分かったか?」
二人の訪問者が去った後、里奈はしばし瞳を閉じて脱力していた。長時間に及ぶ取り調べに疲れ果てた雰囲気を意図的に醸し出す。それは部屋の片隅に設えられた小さなカメラを通して、彼女を監視している者たちへと伝わるはずだった。
(しっかりマークされてる。この監視を掻い潜って動くのは、無理だ)
そもそも傷も癒えていない。今は身をひそめるべきだろう。
あの日、本性を剥き出しにした自分たちの信仰神に対して霊堂知命会の面々は武器を向けた。予想できたことだった。彼らの前身はそれらの備えを欠いた結果、異世界の魔女トーラに反撃を受けたのだろうから。
襲い来る最新兵器の波状攻撃。だがそれはあの世界で見た魔術と比べれば遥かに御し易いものであった。何せ、兵器は設計された通りの攻撃しか放てないのだ。変幻自在の魔術と比べるべくもない。
人数が多すぎたこともあり無傷とはいかなかったが、その後血の海で失神している里奈を警察が発見、保護した。それ以来ずっと、事件に巻き込まれた記憶喪失の哀れな被害者を装っている。
(とはいえ疑われてるなぁ。もうちょっとあれこれ考えなきゃ)
ベッドの上から手を伸ばして床に落ちた本を拾い上げた。
今はこれくらいしかすることがない。今後に役立ちそうな知識を集め、自分の中に重ねていくことしか。
『人体解剖生理学』と書かれた飾り気のない表紙の本を開きながら、里奈は考える。
今は被害者に身をやつし、知識と力、それに人脈を育てる時間。だがそれも、いずれ終わるときが来る。
そのときに、また動き出すのだ。
私が私として生きるために。世界に殺意を振りまくために。
殺人少女の異世界譚はここで終わり、そして新しい物語が始まる。
終末に始まりがあるとしたら、それはきっとこの瞬間なのだろう。
魔女は静かに身を横たえ、力を蓄えている。
そのことに世界は、まだ気づいていない。
ここまで当作品をご覧くださりありがとうございました。
おかげさまで、ひとまず完結へと漕ぎ着けることができました。
拙い文章ながら、自分の書きたい世界、人物を表現することができ、これぞ創作の醍醐味とその楽しさを噛み締めております。
また機会があれば、月草の作品をご笑覧いただければ幸いです。




