4章-2.転落(1) 2020.7.2-2021.3.2
悪夢の始まりは、2020年の7月初旬だった。その時私は、いつもと変わらず自室で研究をしていた。そんないつもと何も変わらない日常を過ごす中で、突然悪魔がやってきたのだ。
そこから私の人生は一気に狂いだした。
***
私の名前は福寿という。26歳、男だ。私の家は晩翠家という。代々毒と薬を扱う家系で、私は次期当主という立場にある。
私の家は珍しくどこの組織にも勢力にも属さず中立を守る家だ。依頼された毒や薬を適切に売り生計を立ててきた。毒の一族という位置付けにはあるが、中立という特性上、メインはどちらかと言うと毒よりも薬かもしれない。
武力を持たない我が家系では、この中立を非常に重んじていた。
納品する品の精度の高さや品質の良さ、他の毒を扱う家よりも圧倒的に優れているからこそ、この関係性は保つことが出来ている。
こうした優位性を保てているのには明確な理由が2つある。
1つ目は晩翠家の人間が持つ毒を見る目だ。毒物や薬物となるものを見分ける目がある。効果も目視だけで読み取ることが出来るという特殊な目を持っている。
それゆえ他の毒を扱う家とは圧倒的に研究の精度が異なるのだ。この目に関しては、遥か昔の先祖が実験を繰り返し得たものであると聞いている。遺伝によって引き継がれる特性だ。
そして2つ目が毒への耐性だ。これはまさに長年の先祖達による試行の成果だ。晩翠家の人間はあらゆる毒に強い人間に生まれる。この優位性は非常に有効で、戦闘になった場合など晩翠家以外の人間が死ぬような毒を撒いてしまえばいいのだ。
例え武力がなくても今まで晩翠家が生き残る事が出来たのはこうした特性のおかげだろう。
そんな晩翠家に仕掛けてくる者は少ない。毒というもの自体が防ぐ事が難しく、無闇に対立することを避ける人間がほとんどだからだろう。
晩翠家の人間のように特殊な目があれば、どこに毒が仕込まれているかなど分かるため対策できるだろうが、それ以外の人間にとってはそう簡単なことでは無いはずだ。
だから私は単純に油断していたのだ。このまま永遠にこの環境は変わることなく続くと、少しも疑っていなかった。
悪魔の手はもっとずっと前から着実に忍び寄り、ひたすらにこちらの首を狙っていたというのに。全く気が付かなかった。
気がついたのは悪魔が現れた時、その時には全てが取り返しのつかない所にあった。全てが手遅れだった。悪魔が作りあげた舞台の上に突然立たされ、後は渡された台本通り踊るしかない状態だった。
「こーんにーちはー。晩翠家の皆さん。はじめまーしてー。自分、ラックっていいまーす。以後お見知り置きをー」
本当に突然だった。
晩翠家の敷地内への正面出入口、塀の門扉を破壊しながら1人の男がやってきた。
ふざけた口調、ふざけた態度、ふざけた行動。相手を見下しバカにした様な態度でその男は真っ直ぐに屋外にいた現在の当主である私の父の前まで歩いてきた。
たまたま私は、研究していた自室の窓からその様子を見ていた。
ラックと名乗る男は、背の高い細身の男だった。年齢は30から40歳程度と見える。長い金髪を後ろで1つに結んでいる。服装は黒のスーツをだらしなく着崩して着ていた。
男は真っ直ぐに父の目の前に立つと、父を見下したように嘲笑する。
父は表情一つ変えずにその男を見据えていた。
「晩翠家の当主さまー? 自分と話をしましょー」
「分かった」
父はラックという男を連れて屋内に入っていく。客間へ通すのだろう。
男を連れて歩く父はちらりと私の方へ視線をよこした。おそらくお前も来いという合図だと思われる。私は身だしなみを整え客間の方へ向かった。
客間に入る襖前まで来ると、父と母がいた。険しい顔をしている。ただ事ではないと改めて感じた。
父は私を確認すると、客間の襖を開けた。中にはあの男が座布団に立膝を付き舐めた態度で座っていた。灰皿なんて無いのにタバコも吸い、非常に態度が悪い。
私は父と母に続いて客間に入り、男の前に並んで座る。父も母もそんな男の様子を見ても一切表情を変えることは無かった。私もそれに倣い、顔に出さないように努める。
「要件はなんだ?」
父は男に尋ねる。その声には一切の感情がなく、機械的な会話のように聞こえた。
「そんな急がないでくださーい。この家はお茶も出せないんでーすかー?」
「我が家の飲食物を接種したがるとは、酔狂な人だ。お望みであればお出ししよう」
「もー。嫌だなー。冗談でーす。誰が毒の一族の茶なんか飲むんだってーの」
この男は一体何をしに来たのだろうか。全く読めない。
「じゃぁ、お待ちかねの本題でーす! 自分は取引にきまーした!」
「取引。晩翠家が中立である事を知っていて取引か」
「ははっ! もっちろーんでーす!」
男は楽しそうに笑っている。何か優位に立てるようなものがあるとでもいうのか。
この家にはたくさんの毒の罠が仕掛けられている。ふざけたことをする侵入者がいれば簡単に殺せる。それは周知の事実だ。
従ってこのような態度を貫く事ができる人間など今までいなかった。にもかかわらずこのような態度をとるという事は、この男は絶対に攻撃されないという保証ができる何かを持っていると考えられる。
「キキョウちゃんは、元気でーすかー?」
何故……?
何故、キキョウの名前が……?
「ははっ! 流石にキキョウちゃんのお名前には反応示しまーしたねー?」
桔梗は私の妹だ。3年以上前にこの家から独立している。独立の後は連絡を取ることもないため、現在どうしているかなど詳しい事は全く分からない。
野良のプレイヤーとして生きていくと、この家を出ていった。それきりだ。
そんな妹の名前が今なぜ、この男の口から出てくるのだ。
気持ちが悪い。嫌な予感しかしない。
キキョウは好奇心旺盛で非常にアクティブな子だった。内向的で部屋にこもって研究する私とは正反対な性格だとよく周りからは言われていたのを思い出す。
晩翠家では毒や薬の研究を積み重ねることが良しとされる風潮であったため、妹のキキョウは非常に生きにくさを感じていただろう。だから、独立するという選択も納得できる選択だと感じたのを覚えている。
また、毒を戦闘面へ活用する研究に関しては、実はキキョウが誰よりも優れていた。周囲の大人たちがあまり興味を示さなかったためにこの家でこそ評価はされなかったが、私としてはキキョウの研究をとても評価をしていた。他の家族は何とも思っていなかったようだったが、私にとっては自慢の妹だ。
特に、研究への姿勢は自分とそっくりだった。正反対なんて言われていたが、異なるのは方向性だけで、研究体質な部分は同じなのだと良く感じたものだった。
最近では、毒を戦闘面に活用したキキョウはそれなりに優秀なプレイヤーになっていたと噂では聞いていた。実際に会って話すことは無かったが評判はよく耳に入っていた。
そんな噂を聞くたび、元気に活躍しているキキョウを誇らしく思っていた。
私はキキョウの名を聞いた瞬間、それらの事を一気に思い出す。
そして、より一層不安に駆られた。
そんな妹の名前がどうして……。
本当に本当にやめてくれと、そんな気持ちがぐるぐると回る。
このタイミングで出るのだ。絶対に良い話なわけがない。
だから……。だから、覚悟をしなければ……。
不安で押しつぶされそうになりながらも、私は何とか平常心を心掛け顔に出さないよう努めたのだった。




