### 第5巻 第五章:過去からの来訪者
### 第5巻 第五章:過去からの来訪者
僕の背後で、空間そのものが濁ったインクを流し込んだかのように歪んだ。
そこから現れたのは、半透明のノイズを纏った一人の男だった。第1巻の冒頭、管理官の粛清によって消されたはずの、かつての最高位調律師・カイルだ。
「驚いたな。死んだはずのプログラムが、まさか世界を食いつぶそうとしているとは」
カイルの声は、どこか遠くから聞こえるオルガンの音色のように響いた。彼はかつて僕たちの師であり、同時にこの街のシステムを最も深く理解していた男だ。彼の手には、僕が持っているものと同じ、しかしより古びた「調律の譜面」が握られていた。
「カイル……どうして、あんたがここに」
「『死』など、このシステムには存在しない。ただ、データが整理されただけだ。私は管理官たちの檻の裏側に、ずっと隠れていたのさ」
カイルの瞳は、僕たちの感情的な葛藤を冷笑するように細められた。彼は僕が持っている「鍵」のデータに視線を固定する。
「お前たちがやろうとしていることは、過ちだ。感情をこのシステムに同化させれば、世界は壊れる。いや、逆に『完全な管理下』に置かれ、二度と誰一人として独自の旋律を奏でることができなくなるだろう。お前たちの望む『自由』は、そこで永劫の停止を迎える」
カイルは、ゆっくりと歩み寄ってくる。彼の纏うオーラが、僕たちの音楽の共鳴を強制的に抑制していく。
「お前たちが持っているそのデータ、私に渡せ。私が最初の調律師たちが遺した『真の再起動コード』を完成させる。そうすれば、音楽も管理官も存在しない、ただただ平穏な『虚無』の世界が待っている」
シノが僕の前に立ちはだかった。
「そんなの、誰も望んでいないわ。私たちは音楽と共に生きたいの!」
「音楽だと? 音楽など、この壊れた世界を誤魔化すための鎮痛剤に過ぎない!」
カイルが右手を掲げると、空間の論理が再構築され、無数の光の刃が僕たちに向かって放たれた。それは管理官たちの機械的な攻撃とは比べ物にならない、音楽の構造そのものを鋭利に研ぎ澄ませたような攻撃だった。
カイルは、僕が持っている調律の権限そのものを奪いに来たのだ。
彼が求めているのは、世界を救うことではない。かつての調律師たちがなし得なかった「システムの完全な消去」――つまり、世界そのものの終焉だった。
僕とシノは、背中合わせになる。
目の前の敵は、かつて僕たちに音楽を教えてくれた男。しかし今や、彼は僕たちの未来を奪う死神となっていた。
---




