五、二十八将集結!
5.
初,更始遣尚書令謝躬率六將軍攻王郎,不能下。會光武至,共定邯鄲,而躬裨將虜掠不相承稟,光武深忌之。雖俱在邯鄲,遂分城而處,然每有以慰安之。躬勤於職事,光武常稱曰『謝尚書真吏也』,故不自疑。躬既而率其兵數萬,還屯於鄴。時光武南擊青犢,謂躬曰:『我追賊於射犬,必破之。尤來在山陽者,勢必當驚走。若以君威力,擊此散虜,必成禽也。』躬曰:『善。』及青犢破,而尤來果北走隆慮山,躬乃留大將軍劉慶、魏郡太守陳康守鄴,自率諸將軍擊之。窮寇死戰,其鋒不可當,躬遂大敗,死者數千人。光武因躬在外,乃使漢與岑彭襲其城。漢先令辯士說陳康曰:『蓋聞上智不處危以僥幸,中智能因危以為功,下愚安於危以自亡。危亡之至,在人所由,不可不察。今京師敗亂,四方雲擾,公所聞也。蕭王兵強士附,河北歸命,公所見也。謝躬內背蕭王,外失眾心,公所知也。公今據孤危之城,待滅亡之禍,義無所立,節無所成。不若開門內軍,轉禍為禍,免下愚之敗,收中智之功,此計之至者也。』康然之。於是康收劉慶及躬妻子,開門內漢等。及躬從隆慮歸鄴,不知康已反之,乃與數百騎輕入城。漢伏兵收之,手擊殺躬,其眾悉降。
(訳)
当初、更始帝は尚書令の謝躬に
六人の将軍を率いさせて王郎を攻めるも
下す事が出来ずにいた。
ちょうど光武帝が至って
共に邯鄲を平定したが、
謝躬の裨将は虜掠を行なって
互いに命令に従おうとせず、
光武帝はこれをたいそう嫌忌していた。
(光武帝と謝躬は)
倶に邯鄲に在ったものの
結局は城を分けて拠していた。
事あるごとにこれを慰安し、
謝躬が職務に勤めている事から
光武帝は常に「謝尚書こそ真の吏です」
と称えて(油断させて)いたため、
自ずと疑われる事はなかった。
謝躬がその手勢数万を率い
引き返して鄴に駐屯した後、
光武帝は南方の青犢を攻撃しており
謝躬に向かって言った。
「私が射犬に賊を追撃さば
必ずこれを破れます、
尤來のうちで山陽にいる者は
勢いからいって
間違いなく驚いて
逃走していくでしょう。
もし君の威風や兵力により
これを撃ち賊を散らしたなら
必ずや擒とする事が出来ます」
謝躬は「よし」と言った。
青犢を撃破するに及んで
尤來は果たせるかな
北のかた隆慮山へと逃走していった。
謝躬はそこで大将軍の劉慶、
魏郡太守の陳康を留めて鄴を守衛させ、
自ら諸将軍を率いてこれを撃ったが、
窮した賊は死に物狂いで戦い、
その鋒に当たる事は出来ず
謝躬は遂に大敗を喫してしまった。
死者は数千人であった。
光武帝は、謝躬が外部へ向かった事に因み
そこで呉漢と岑彭を遣わして
その城を襲撃させた。
呉漢は先ず弁士に命じて
陳康に説かせた。
「蓋し、上知は危うきに
僥倖を以って処さず、
中知は危うきに
功績を為す事に能く因らず、
下愚は危うきに於いて
自身の滅亡を以て安んず
と聞き及んでおります。
危急存亡に至り
他人に由って存立する事は
察さずにはいられません。
今、京師は破れて乱れ、
四方が雲擾(雲のようにみだれる)
している事は、貴公も
聞く所でございましょう。
蕭王(劉秀)の
兵は強く、士はなつき、
河北が帰順している事は、
貴公も見る所でございましょう。
謝躬が、内は蕭王に背き
外は衆人を失っている事は
貴公も知る所でございましょう。
貴公は今、孤立して
危機の迫った城に據り、
滅亡の災禍を待ちながら
義を立てる所はなく
節を成す所もございません。
もし門を開いて
(蕭王の)軍を招き入れれば、
禍を転じて禍を為すような
〝下愚〟の敗北を免れて
〝中智〟の功績を収める事となり、
この計略の至上(の成功)となります」
陳康はこれを尤もだと考えた。
こうして陳康は
劉慶及び謝躬の妻子を捕え、
門を開けて呉漢らを招き入れた。
謝躬が隆慮山から鄴へ帰還するに及んで
陳康が已に反いたものとは知らず、
かくて数百騎で軽率にも入城してしまった。
呉漢が兵を伏せてこれを捕え、
手ずから謝躬を撃ち殺すと、
その部衆は悉くが降伏した。
6.
躬字子張,南陽人。初,其妻知光武不平之,常戒躬曰:『君與劉公積不相能,而信其虛談,不為人備,終受制矣。』躬不納,故及於難。
(訳)
謝躬は字を子張、南陽の人である。
当初その妻は、光武帝が彼に
好意を抱いていない事を察知し、
常に謝躬を戒めて、こう言っていた。
「あなたと劉公とは、互いに
親睦を重ねたわけではありませんのに、
その虚言を信じて備えを設けなければ
最終的には掣肘を受ける事になりますよ」
謝躬は聞き入れなかったために
難が及ぶ事になったのであった。
(註釈)
とりあえず更始帝の息のかかった人間
どんどん排除して地歩を固めていく劉秀一行。
尚書令の謝躬もリストに入っていた。
馬武伝では、
劉秀らが宴席を開いて
謝躬を暗殺しようとした際、
(馬武がいたために)
失敗してしまったという。
しかし、ここで抜け目なく
馬武をたらし込みに動いてるのが
劉秀のすごいところ。
いつも通りの韜晦で油断させて
呉漢と岑彭に襲撃させ、彼を捕えた。
謝躬は岑彭に平伏したが、呉漢は
「幽霊と話す必要なぞない!」と一蹴。
王郎が信都を攻めて
李忠らの家族を人質に取った時に
信都を奪い返してくれたのが
謝躬だったら、クソ気まずくなるけど
呉漢はそんな事考えない。命令は遂行する!
各地では、新王朝崩壊の
きっかけとなった赤眉軍のほかにも
銅馬、大肜、高湖、重連、鐵脛、
大搶、尤來、上江、青犢、五校、
檀郷、五幡、五樓、富平、獲索などの
賊徒が暴れまわっていた。
即座に散った陳勝、呉広と違って、
赤眉は鎮圧されずに生き残ってたから
食い詰め者たちに
ロマンを与えていたに違いない。
劉秀が尤來、大搶、五幡を討伐した際
勝ちに乗じて深入りしすぎるという
珍しいポカをやらかして
居合わせた耿弇に失笑されている。
この時、劉秀の姿が見えないために
「もう亡くなられてしまったのでは…」
と言う者も出て意気消沈していたが、
呉漢はここで
「みんながんばれ、
主公の甥御が南陽におられるのだから
主公がいなくなったとて
どうして憂える事がある!」
と、すごい事を言ってのけた。
結局劉秀は生きて帰ってきたので
気まずい空気が漂ったものと思われる。
呉漢は士気が落ちてるのを見て
みんなを鼓舞しただけで
劉秀への叛意があったわけでない、とおもう。
謝躬をくだしたことで
馬武も劉秀に帰順。
首席鄧禹、次席呉漢、3位賈復、4位耿弇
5位寇恂、6位岑彭、7位馮異、8位朱祜
9位祭遵、10位景丹、11位蓋延、12位銚期
13位耿純、14位臧宮、15位馬武、16位劉隆
17位馬成、18位王梁、19位陳俊、20位杜茂
21位傅俊、22位堅鐔、23位王覇、24位任光
25位李忠、26位万修、27位邳彤、28位劉植
ここに雲台28将が出揃った!




