一、馬商人呉漢
雲台28将の2位、
生涯大司馬、忠義一徹、
朴訥なる猛将、呉漢伝。
1.
吳漢字子顏,南陽宛人也。家貧,給事縣為亭長。王莽末,以賓客犯法,乃亡命至漁陽,資用乏,以販馬自業,往來燕、薊間,所至皆交結豪傑。更始立,使使者韓鴻徇河北。或謂鴻曰:『吳子顏,奇士也,可與計事。』鴻召見漢,其悅之,遂承制拜為安樂令。
(訳)
呉漢は字を子顔、南陽郡宛県の人である。
家は貧しく、県に給事して亭長となった。
王莽の末年に
賓客が法を犯した事から
かくて亡命して漁陽へと至った。
資用に乏しかったために
馬の販売を生業として
燕、薊の間を往来し、
至る所全てで豪傑と親交を結んでいた。
更始帝が立つと、
使者の韓鴻に河北を徇らせた。
或る者が韓鴻に向かって、
「呉子顔は奇士にございます、
ともに事を計るべきでしょう」
と述べたので、
韓鴻が呉漢を引見してみると
彼はこれに悦んだ。
かくて承制し(呉漢を)拝して安楽侯とした。
(註釈)
続漢書にいう、
県のあるじが蛮夷ならば「道」といい
公主(内親王)の食邑を
「(沐浴)邑」といい、
一万戸以上の県には「令」、
一万戸に満たない県には「長」、
侯国には「相」が置かれる。
平原の相、とか
安喜の令、とかね。
行政区分は
州>郡>県>亭
亭には「亭長」がおり
盗賊をとりしまる。
(本註にいう)都尉の指図を受ける(下役)。
「風俗通」にいう、
亭とは、留であり、要は宿場のこと。
亭史は、もとは「負弩」といい
「(亭)長」、あるいは「亭父」に改名された。
あの劉邦もはじめは亭長だった。
漢官儀にいう、
民は23歳で「正」となり、
1年を以って衛士となり、
1年で騎士の適正試験を受けて
戦陣における弓術や馬術を習う。
8月に太守、都尉、令、長、相、丞、尉
などの試験が行われて優劣をチェックされる。
(長いので中略)
56歳で定年。
亭長はみな「五兵」を習い設ける、
五兵というのは、
弓弩、戟、楯、刀剣、甲鎧である。
太鼓の役人は
赤い頭巾、行滕(纏足みたいなものか)、
剣を帯び、刀を佩き、
縦を持ち、鎧を纏い、
矛戟を設え、射術を習う。
この「正」ってのは、適正の意味合いかな。
徴兵に足る年齢=正と表現するんだろう。
23歳で訓練生、
24歳で(地方の?)警護、
25歳で兵士の適正試験を受けえ
本格的な戦技を学ぶ。
56歳で定年。
李通伝では、光武帝が
南陽で反乱を起こそうとした時に
材官騎士……がなんちゃらって書いてある。
兵士の登用試験を狙って
クーデターを起こせば
武装してても怪しく思われないし
現王政に不満を抱いてる若者の勧誘も
スムーズに行えるって感じ。
「漢官儀」では、
「亭長」も適正者を選んで
任用する、というニュアンスで書かれてる。
呉漢はおそらく、
貧乏で学がないし
口下手で自分を売り込むのも
苦手だったので、
腕っ節で職に就くことにしたのだ。
亭長になった後で
賓客が法を犯したため
荊州南陽郡から幽州漁陽郡へ逃げた。
「亡命」の「命」は戸籍のこと、
戸籍から外れる、
本籍から逃亡するという意味合い。
お金がなくなってしまったので
馬商人をしながら糊口をしのぎ、
豪傑と親交をむすんだ。
幽州には匈奴がいるから
馬を仕入れやすいのかしら。
石勒と汲桑の出会いも
こんな感じだったなぁ。




