二、光武に付き従う
2.
更始至洛陽,以光為信都太守。及王郎起,郡國皆降之,光獨不肯,遂與都尉李忠、令萬脩、功曹阮況、五官掾郭唐等同心固守。廷掾持王郎檄詣府白光,光斬之於市,以徇百姓,發精兵四千人城守。更始二年春,世祖自薊還,狼狽不知所向,傳聞信都獨為漢拒邯鄲,即馳赴之。光等孤城獨守,恐不能全,聞世祖至,大喜,吏民皆稱萬歲,即時開門,與李忠、萬脩率官屬迎謁。世祖入傳舍,謂光曰:『伯卿,今勢力虛弱,欲俱入城頭子路、力子都兵中,何如邪?』光曰:『不可。』世祖曰:『卿兵少,如何?』光曰:『可募發奔命,出攻傍縣,若不降者,恣聽掠之。人貪財物,則兵可招而致也。』世祖從之。拜光為左大將軍,封武成侯,留南陽宗廣領信都太守事,使光將兵從。光乃多作檄文曰:『大司馬劉公將城頭子路、力子都兵百萬眾從東方來,擊諸反虜。』遣騎馳至巨鹿界中。吏民得檄,傳相告語。世祖遂與光等投暮入堂陽界,使騎各持炬火,彌滿澤中,光炎燭天地,舉城莫不震驚惶怖,其夜即降。旬日之間,兵眾大盛,因攻城邑,遂屠邯鄲,乃遣光歸郡。
(訳)
更始帝が洛陽へ至ると
任光は信都太守となった。
王郎が決起するに及んで
郡国は皆これに降ったが、
任光だけは肯じず、
かくて都尉の李忠、令の万修、
功曹の阮況、五官掾の郭唐らと
心を一つにして固守した。
廷掾(役職)が、王郎の檄文を持って
役府を詣で、任光に建白すると
任光は市に於いてこれを斬った。
百姓の間を徇って
精兵四千人を徴発し、城を守った。
更始二年(24)の春、
世祖が薊から引き返して狼狽し
向かう先もわからずにいた時、
信都郡のみが漢の為に
邯鄲を拒んでいると伝え聞いて
即座に馳せてこれに赴いた。
任光らは孤城を単独で守り
保全出来ぬことを恐れていたが、
世祖が至ったと聞いて大いに喜び、
吏人や民衆は皆万歳を称えて
即時に開を開き、
(任光は)李忠・万修とともに
属官を率いて迎謁した。
世祖は伝舎(宿舎)に入ると任光に謂った。
「伯卿、今は勢力が虚弱であるから
倶に城頭の子路、力子都の兵の中へ
入ろうと考えているのだが、
如何だろうか?」
任光は言った。
「なりませぬ」
世祖は言った。
「卿は兵が少ないのに、如何するのだ」
任光は言った。
「奔命の士を募って
傍県へ出撃させるべきです。
もし降らねば、恣にこれを
掠める事も聴受しましょう。
人は財物を貪るもので
則ち、兵を招致する事ができます」
世祖はこれに従った。
任光を拝して左大将軍とし、
武成侯に封じると、
南陽の宗広を留めて
信都太守の事業を兼領させ、
任光には兵を率いて従軍させた。
任光はそこで多くの檄文を作して述べた。
「大司馬の劉公(劉秀)は
城頭の子路、力子都の兵百万衆を率いて
東方より来たり、反虜どもを撃つ」
騎馬を遣わして
鉅鹿の境域じゅうに駆け至らせ、
吏民は檄文を得ると、
伝えて互いに告知し合った。
世祖はかくて任光らとともに
日暮れの頃に堂陽の界域へ入り、
騎馬にそれぞれ炬火を持たせると
澤中にどんどん火光が満ちていき
天地を照らした。
城を挙げて震駭、恐惶せぬ者はなく
その夜、即座に降伏してきた。
旬日の間に兵力は大いに盛んとなり、
これにより城邑を攻め、
遂には邯鄲を屠った。
かくて、任光を郡へと帰還させた。
(註釈)
河北の王郎戦。
任光は各地を転々とする劉秀を
李忠や万修とともに信都に迎え入れる。
兵が足りないから、一時的に
当時強盛を誇っていた
子路、力子都の傘下に入ろうか
と提案する劉秀。
任光は反対して
降伏を肯じない郡県からの
掠奪を許可する事で
兵を集めようと提案。
劉秀は従った。
このあと諸将と合流したら
李忠だけ掠奪してなかったので
劉秀からほめられたという。
任光は劉秀に従って出征し、
南陽の宗広がその間信都太守を代行、
裏切り者が出たことは
李忠伝にて後述します。
劉秀が任光連れてったのは
昆陽で共闘済みだから
信頼感があったのかな。
めちゃくちゃ不利な状況から
よくひっくり返したなぁ。




