六〜八、その後の蓋延
6.
九年,隗囂死,延西擊街泉、略陽、清水諸屯聚,皆定。
(訳)
九年(33)、隗囂が死ぬと
蓋延は西のかた街泉・略陽・清水といった
諸所の屯聚を撃ち、全て平定した。
(註釈)
隴西の隗囂、
30年に反逆して33年に没。
蓋延は、中郎将来歙とともに
隴西の鎮圧に当たりました。
7.
十一年,與中郎將來歙攻河池,未克,以病引還,拜為左馮翊,將軍如故。十三年,增封定食萬戶。十五年,薨於位。
(訳)
十一年(35)、中郎将の来歙とともに
河池を攻めたが、勝利することが出来ず、
病気を理由に引き返し、
拝されて左馮翊となり
将軍位は元の通りとされた。
十三年(37)、
増封されて食邑を万戸と定められた。
十五年(39)、位にあるまま薨去した。
(註釈)
来歙が刺客に襲われたとき
蓋延を呼び寄せて
後のことを託しました、が、
蓋延も病気がちで
後方に引っ込んだもよう。
天下が統一されると
蓋延は万戸侯に封じられ、
その二年後に在官のまま亡くなった。
8.
子扶嗣。扶卒,子側嗣。永平十三年,坐與舅王平謀反,伏誅,國除。永初七年,鄧太后紹封延曾孫恢為蘆亭侯。恢卒,子遂嗣。
(訳)
子の蓋扶が嗣いだ。
蓋扶が卒すると、子の蓋側が嗣いだ。
永平十三年(70)に
舅の王平(楚王劉英の臣)の謀反に連座して
誅伐され、封国を除かれた。
永初七年(113)、
鄧太后の介紹で
蓋延の曽孫の蓋恢が蘆亭侯となった。
蓋恢が卒すると、子の蓋遂が嗣いだ。
(註釈)
王常の子孫も、楚王の謀反に加担したかどで
封国没収されてましたが、
蓋延系も同じ轍を……。
と、思ったら鄧禹の系類の
鄧太后の口添えで復活したようです。
三国志に蓋なんとかさんはいたかな?
最後にンバの蓋延評です。
戦闘 ★★★★★★★ 7
いかんせん、
300斤の弓のイメージが良すぎるよね。
劉永戦は鬼のような強さで
連戦連勝したけれど、
その後の董憲戦がキズ。
戦略 ★★★★ 4
劉永のときは野の穀物を刈り取り
無駄なく詰めていったが、
董憲戦では
光武帝の命令無視して蘭陵へ向かい
まんまと偽退却の計にハマる。
瀕死の来歙を前にして号泣、
あたふたしてしまう可愛いところも。
パワーが有り余ってるから
敵を舐めてしまいがち?
でもその脳筋っぽさがまたいい。
内政 ★★★★★ 5
幽州にいた頃は
各地で治績をあげていた。
左馮翊の長になると
増長する振る舞いが見られた。
プラスマイナスゼロ。
人格 ★★★★ 4
隠しきれないDQN感。
龐萌が謀反したのも
蓋延にやられると思ったからかな。
雲台28将にしては
意外と点数が奮いませんでしたが、
優秀な将軍であることは間違いないです。




