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淡々後漢書  作者: ンバ
第十八、蓋延伝
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36/102

六〜八、その後の蓋延

6.

九年,隗囂死,延西擊街泉、略陽、清水諸屯聚,皆定。

(訳)

九年(33)、隗囂かいごうが死ぬと

蓋延は西のかた街泉がいせん略陽りゃくよう清水せいすいといった

諸所の屯聚を撃ち、全て平定した。


(註釈)

隴西の隗囂かいごう

30年に反逆して33年に没。


蓋延は、中郎将来歙(らいきゅう)とともに

隴西の鎮圧に当たりました。


7.

十一年,與中郎將來歙攻河池,未克,以病引還,拜為左馮翊,將軍如故。十三年,增封定食萬戶。十五年,薨於位。

(訳)

十一年(35)、中郎将の来歙らいきゅうとともに

河池かちを攻めたが、勝利することが出来ず、

病気を理由に引き返し、

拝されて左馮翊さひょうよくとなり

将軍位は元の通りとされた。


十三年(37)、

増封されて食邑を万戸と定められた。


十五年(39)、位にあるまま薨去した。


(註釈)

来歙らいきゅうが刺客に襲われたとき

蓋延を呼び寄せて

後のことを託しました、が、

蓋延も病気がちで

後方に引っ込んだもよう。


天下が統一されると

蓋延は万戸侯に封じられ、

その二年後に在官のまま亡くなった。


8.

子扶嗣。扶卒,子側嗣。永平十三年,坐與舅王平謀反,伏誅,國除。永初七年,鄧太后紹封延曾孫恢為蘆亭侯。恢卒,子遂嗣。


(訳)

子の蓋扶がいふが嗣いだ。


蓋扶が卒すると、子の蓋側がいそくが嗣いだ。


永平十三年(70)に

舅の王平おうへい(楚王劉英の臣)の謀反に連座して

誅伐され、封国を除かれた。


永初七年(113)、

鄧太后の介紹で

蓋延の曽孫の蓋恢がいかい蘆亭ろてい侯となった。


蓋恢が卒すると、子の蓋遂がいすいが嗣いだ。


(註釈)

王常の子孫も、楚王の謀反に加担したかどで

封国没収されてましたが、

蓋延系も同じ轍を……。


と、思ったら鄧禹の系類の

鄧太后の口添えで復活したようです。


三国志に蓋なんとかさんはいたかな?



最後にンバの蓋延評です。


戦闘 ★★★★★★★ 7


いかんせん、

300斤の弓のイメージが良すぎるよね。


劉永戦は鬼のような強さで

連戦連勝したけれど、

その後の董憲戦がキズ。



戦略 ★★★★ 4


劉永のときは野の穀物を刈り取り

無駄なく詰めていったが、

董憲戦では

光武帝の命令無視して蘭陵へ向かい

まんまと偽退却の計にハマる。


瀕死の来歙を前にして号泣、

あたふたしてしまう可愛いところも。


パワーが有り余ってるから

敵を舐めてしまいがち?

でもその脳筋っぽさがまたいい。


内政 ★★★★★ 5


幽州にいた頃は

各地で治績をあげていた。


左馮翊の長になると

増長する振る舞いが見られた。

プラスマイナスゼロ。


人格 ★★★★ 4


隠しきれないDQN感。

龐萌が謀反したのも

蓋延にやられると思ったからかな。


雲台28将にしては

意外と点数が奮いませんでしたが、

優秀な将軍であることは間違いないです。


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