五、命令無視して敗北!
5.
四年春,延又擊蘇茂、周建於蘄,進與董憲戰留下,皆破之。因率平狄將軍龐萌攻西防,拔之。復追敗周建、蘇茂於彭城,茂、建亡奔董憲,董憲將賁休舉蘭陵城降。憲聞之,自郯圍休。時,延及龐萌在楚,請往救之。帝敕曰:『可直往搗郯,則蘭陵必自解。』延等以賁休城危,遂先赴之。憲逆戰而陽敗,延等逐退,因拔圍入城。明日,憲大出兵合圍,延等懼,遽出突走,因往攻郯。帝讓之曰:『間欲先赴郯者,以其不意故耳。今既奔走,賊計已立,圍豈可解乎!』延等至郯,果不能克,而董憲遂拔蘭陵,殺賁休。延等往來要擊憲別將於彭城、郯、邳之間,戰或日數合,頗有克獲。帝以延輕敵深入,數以書誡之。及龐萌反,攻殺楚郡太守,引軍襲敗延,延走,北渡泗水,破舟楫,壞津梁,僅而得免。帝自將而東,征延與大司馬吳漢、漢忠將軍王常、前將軍王梁、捕虜將軍馬武、討虜將軍王霸等會任城,討龐萌於桃鄉,又並從征董憲於昌慮,皆破平之。六年春,遣屯長安。
(訳)
四年(28)、蓋延は再び
蘇茂・周建を蘄に撃ち、
進軍して董憲と交戦、
留(県)を下して(下って?)
これらを皆破った。
平狄将軍・龐萌を率いて
西の守りを攻め、これを抜いた。
再度追撃して周建・蘇茂を彭城に破り、
蘇茂と周建は董憲のもとへ逃亡した。
董憲の部将の賁休は
蘭陵城を挙げて降伏したが、
董憲はこの事を聞くと
郯から賁休を包囲した。
この時、蓋延及び龐萌は楚におり
賁休の救援に向かう事を要請した。
光武帝は詔勅を下して述べた。
「直接向かって郯を搗つべきだ、
さすれば蘭陵の囲みは間違いなく解かれる」
蓋延らは賁休の籠る城が
危急の状況にあることから
遂にこれの救援に向かってしまった。
迎え撃った董憲が陽って敗れると
蓋延らは駆逐して退却させ、
囲みを抜いて蘭陵へ入城した。
明くる日、董憲が
大軍を出撃させて一斉包囲すると、
懼れた蓋延らは
慌てて脱出して囲みを破り
そこで郯県の攻撃に向かった。
光武帝は蓋延を責譲して言った。
「先日、先に郯へ赴けと命じたのは
事態が予測できなかったから
(安全策を採るべきと考えたの)だ。
今こうして奔走してしまい
賊の計が已に立てられたからには、
囲みをどうやって解けというんだ!」
蓋延らは郯へ至ったが
果たせるかな勝つ事は出来ず、
董憲はかくて蘭陵を抜き
賁休を殺してしまった。
蓋延は彭城・郯・下邳の間を往来して
董憲の別将を要撃し、
ある時は日に数度も合戦して
大いに勝利を収め、俘虜を獲ていた。
光武帝は、蓋延が
敵を軽んじて深入りする事を
たびたび書状を与えて誡めた。
龐萌が反逆して楚郡太守を攻め殺し、
軍を引き連れて
敗れた蓋延を襲撃してきた。
蓋延は逃走し、北へ泗水を渡り
船と渡し場の橋梁を破壊して
やっとの事で免れ得た。
(蓋延が敗れたため)
光武帝は自ら東行し、
蓋延と、大司馬の呉漢、
漢忠将軍の王常、前将軍の王梁、
捕虜将軍の馬武、討虜将軍の王覇らと
任城にて合流、桃郷に龐萌を討伐し、
一方で昌慮に於いて董憲の征伐にも従い
いずれも撃破してかの地を平定した。
六年(30)春、派遣された長安に駐屯した。
(註釈)
徐州で劉永の残党と激戦。
もと赤眉の董憲も加わりますが
この董憲がなかなかの曲者です。
董憲の配下が蘭陵で降伏し、
これを知った董憲は
郯県から蘭陵を包囲。
蓋延は
「蘭陵の救援に向かってもいいすか?」
と、光武帝に裁可を仰ぎますが、
「いや、郯の方を討伐しなさい。
蘭陵の包囲は勝手に解けるから」
という反対意見が出ます。
蓋延はこれを無視して蘭陵に突っ込み
結果、惨憺たる敗北を喫します。
温和な光武帝もこの失態には
「だから郯行けっつっただろが!!!!
これでどうやって蘭陵落とすんだよ!!」
と大激怒。
平狄将軍の龐萌は
これ、俺のせいにされるのか??
と恐れて、謀反。
相手を舐めていた蓋延は
なすすべなくやられてしまいました。
光武帝は仕方なく
自ら董憲・龐萌の征伐に乗り出し、
王常の奮戦もあって
彼らの平定がかないました。