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淡々後漢書  作者: ンバ
第十五、来歙伝
22/102

一・二、光武帝と親密なり/更始政権から光武政権へ

後漢書の列伝五、最後の一人は来歙らいきゅう


蜀の来敏らいびんの祖先です。

(興勢の戦いで費禕ひいと囲碁打ってた人)

1.

來歙字君叔,南陽新野人也。六世祖漢,有才力,武帝世,以光祿大夫副樓船將軍楊仆,擊破南越、朝鮮。父仲,哀帝時為諫大夫,娶光武祖姑,生歙。光武甚親敬之,數共往來長安。


(訳)

来歙らいきゅうは字を君叔くんしゅく南陽なんよう新野(しんや)県の人である。


六代前の祖先の来漢は

才力を有し、武帝(劉徹)の御世に

光禄大夫を以て

樓船ろうせん将軍楊仆(ようぼく)(僕)の副将となり

南越・朝鮮を撃破した。


父の来仲は哀帝の時代に諌議太夫となり、

光武帝の祖姑を娶った。

そして、来歙が生まれたのである。


光武帝は甚だ彼と親密で敬重しており

幾度かともに長安(と南陽)を往来していた。


(註釈)

光武帝と来歙らいきゅうは親戚。

祖父母がきょうだい同士。

ふたりはなかよし(語彙力


光武帝紀の冒頭によると、

劉秀は王莽おうもうの天鳳年間に

長安へ遊学してた時期があり、

尚書を修めて大義に通略していた。


朝鮮は、

朝貢ちょうこうすくない」という意味だそうですね。


来漢らいかんは字を須婁附スロープといい、

来仲らいちゅうは字を光仲ピカチュウという。

(いわない


2.

漢兵起,王莽以歙劉氏外屬,乃收系之,賓客共篡奪,得免。更始即位,以歙為吏,從入關。數言事不用,以病去。歙女弟為漢中王劉嘉妻,嘉遣人迎歙,因南之漢中。更始敗,歙勸嘉歸光武,遂與嘉俱東詣洛陽。


(訳)

漢兵が決起すると、王莽は

来歙が劉氏の外戚である事から

これを収監してしまったが

賓客が共に(来歙を)簒奪して

免れることができた。


更始帝が即位すると来歙は吏となり、

関中入りに従った。

幾度か進言するも用いられず、

病を以て去った。


来歙の妹は漢中王劉嘉(りゅうか)の妻となっており

劉嘉は人を遣って来歙を迎えさせたので

南の漢中へ向かった。


更始帝が敗れると、来歙は劉嘉に

光武帝への帰順を勧めた。

かくて劉嘉とともに東の洛陽を詣でた。


(註釈)

劉嘉りゅうかも漢王朝の宗室です。

劉秀の兄、劉縯りゅうえんと長安に遊学した経歴あり。


舂陵で挙兵があると、劉嘉も

劉秀らといっしょに官軍と戦いました。


王莽は、南陽劉氏が

反乱を起こしたと聞くと

その親族にあたる来歙を

牢屋へぶち込んでしまいましたが、

彼を慕う賓客の手によって

無事救出されました。人望あるね!


劉嘉はその後、

更始帝政権下で漢中王となり、

病気(仮病)で更始帝のもとを去った

来歙を受け入れます。

劉嘉は来歙の妹を娶ってたので

彼の義理の弟にあたるのでした。


更始帝が倒れた後の劉嘉は、関中で

延岑えんしんや赤眉と激戦を展開。


この延岑がめちゃくちゃしぶとい。

光武帝の天下統一に

最後まで立ちはだかる強敵です。


その後、劉嘉・来歙は

関中の接収に現れた

光武帝配下の鄧禹とううに帰順します。


鄧禹が赤眉にボコボコにされてしまい

馮異ふういが代わりに頑張って平定しました。


馮異は生涯ほぼ無敗のチートですが

数少ない敗戦が、ここで

鄧禹が言うこと聞かなかったときです。

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