五、席次諸将を絶す
5.
後帝於大會中指常謂群臣曰:『此家率下江諸將輔翼漢室,心如金石,真忠臣也。』是日遷常為漢忠將軍,遣南擊鄧奉、董訢,令諸將皆屬焉。又詔常北擊河間、漁陽,平諸屯聚。五年秋,攻拔湖陵,又與帝會任城,因從破蘇茂、龐萌。進攻下邳,常部當城門戰,一日數合,賊反走入城,常追迫之,城上射矢雨下,帝從百餘騎自城南高處望,常戰力甚,馳遣中黃門詔使引還,賊遂降。又別率騎都尉王霸共平沛郡賊。六年春,征還洛陽,令夫人迎常於舞陽,歸家上冢。西屯長安,拒隗囂。七年,使使者持璽書,即拜常為橫野大將軍,位次與諸將絕席。常別擊破隗囂將高峻於朝那。囂遣將過烏氏,常要擊破之。轉降保塞羌諸營壁,皆平之。九年,擊內黃賊,破降之。後北屯故安,拒盧芳。十二年,薨於屯所,謚曰節侯。
(訳)
その後、光武帝は大会の最中に
王常を指して群臣へ述べた。
「彼の家は下江の諸将を率いて
漢室を輔翼し、心根は金石の如く。
真の忠臣である」
この日、王常は漢忠将軍に遷った。
南のかた鄧奉・董訢攻めに派遣され
命により諸将は皆彼に属した。
また詔勅が下されて
王常は北のかた河間、漁陽を撃ち
諸所の屯聚を平定した。
五年(29)秋、湖陵を攻伐し、
一方で光武帝と任城で合流すると
従軍して蘇茂、龐萌を破った。
下邳に進攻して
王常の部隊は城門にて一日に数度交戦、
賊が逆走して城へ入ると
王常は追撃してこれに迫り
城の上から(城の上へ?)射掛けられた矢が
雨のように降り注いだ。
光武帝が百余騎を従えて
城の南の高所から望見すると、
王常の戦力は甚だしく、
中黄門を早馬に遣わし、
詔を下して引き返すように通達させたが、
とうとう賊は降伏した。
また、別働隊として騎都尉の王覇を率い
ともに沛郡の賊を平定した。
六年(30)春、
征伐から洛陽へ帰還すると
命を下して、舞陽に夫人に王常を迎えさせ、
家に帰して上冢(先祖の祭祀)を行わせた。
西方の長安に駐屯し、隗囂を拒いだ。
七年(31)、
璽書を持たせた使者を遣わして
即座に王常を拝して横野大将軍とした。
位次(席次)は諸将の席を絶するものだった
(ぶっちぎりでトップだった)。
王常は別働隊として
隗囂の部将の高峻を朝那に撃破した。
転出して、塞を保っていた羌族や
諸諸の営壁を降伏させ
これらを全て平定した。
隗囂が烏氏を通過しようとした際に
王常はこれを要撃して破った。
九年(33)、
内地の黄賊を撃破し、降伏させた。
その後、北の故安に駐屯し、盧芳を拒いだ。
十二年(36)、
屯所に於いて薨じ、諡して「節侯」といった。
(註釈)
河北戦線で劉秀をサポートしてくれた
漁陽太守の彭寵でしたが
同時期に加入した呉漢や王梁、
蓋延が昇進する中で
自身には何の沙汰もなかったために不満を抱き、
更に幽州の統治を巡って
刺史の朱浮と真っ向対立。
やがて劉秀に反旗を翻してしまいます。
更始帝亡き後、関中の赤眉軍については
劉秀配下の雲台二十八将、
1位の鄧禹と7位の馮異が担当。
鄧禹は一時は関中を平定するも赤眉軍に大敗、
馮異に交代して、苦戦の末に勝利を収めます。
2位の呉漢と11位の蓋延が
もと梁王の劉永を平定。
光武帝の配下たちはおおむねクリーンで
略奪をしないことで有名ですが、
超強力な烏丸突騎を主力とする
呉漢の部隊だけは別です。
攻めたら奪う、犯す、殺す。
荒くれにとってはそれが戦のモチベだもの。
あろうことか、呉漢は
劉秀のホームである南陽で
略奪をやっちゃいました。
劉秀の姉婿の甥である鄧奉は
呉漢のやり方にぶっち切れてしまい、
反乱を起こします。
身内から反逆者が出たことは
劉秀に大きなショックを与えました。
雲台二十八将の上位が平定に当たりますが
南陽の精鋭を率いる鄧奉はえらい強さで、
2位の呉漢が敗れ、
8位の朱祜が捕まってしまい、
3位の賈復が大怪我を負うという
稀に見る大苦戦を強いられます。
ついに劉秀自ら討伐に乗り出し、
追い詰められた鄧奉は
捕虜となっていた朱祜の仲介で
とうとう降伏しました。
劉秀は鄧奉を赦そうとしましたが
6位の岑彭と4位の耿弇は
それでは示しがつかないとして
鄧奉を殺すように劉秀に進言。
鄧奉はかくて処刑されました。
王常は反乱の鎮圧にフルスロットルで当たり
たびたび戦功をあげています。
「城上射矢雨下」は
敵がやってるのか味方がやってるのか。
「常戰力甚」をみた劉秀が
王常にいったん退却を促している。
ので、ふつうに苦戦してる描写ですかね。
沛を一緒に攻めた
王覇(≠丸大食品)は、雲台28将の23位。
「疾風勁草」の語源になった人です。
河北で劉秀たちが
王郎勢力から追われてた時に、
みんなを怖がらせないように
「河が凍ってる」って嘘ついたら
本当に凍ってて逃げ切れたという
ミラクルな逸話が。
「上冢」は馮異伝にも出てきた表現。
先祖の祭祀をする、的なニュアンスかな?
劉秀は、李通の親父さんや
姉・劉元の追悼も忘れませんでした。
そして、30年に劉秀は
蜀の公孫述を討たんと
隴西の隗囂に派兵を促しますが
隗囂は乗り気でなく、
そのまま離反してしまいます。
隗囂がここですんなり協力していれば
もうちょっと早く天下統一できたかも。
33年に隗囂が病死し、
36年に呉漢が公孫述を討伐、
さらに盧芳が降伏したことで
ついに天下統一、成る!
しかし、雲台32将のうち半数近くは
その頃には既に亡くなっていました。
26年に10位の景丹、26位の万修、28位の劉植が、
29年に24位の任光が、
30年に27位の邳彤が、
31年に21位の傅俊が、
33年に9位の祭遵が、
34年に7位の馮異と12位の銚期が、
35年に6位の岑彭と来歙が、
36年に5位の寇恂、そして王常も……。
ラスボスを目前にして
仲間がどんどん死んでいくあたりがハード。