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オリエンテーション

 日々のことを思い返しても仕方がない。

 生きていくのが常識だからとばかりに、半ば機械的に体を電車に押し込んでいくだけの毎日だった。


 ◆


 そんな日常から……

 長く時間がたったような、意識の切れ間もさえなかったような

 私は不可思議な空間にいた。青白い薄もやがゆらゆらとうねっている。視界のすべてがその幽体で覆われていた。

 先程までの凡庸な日々が夢だったかのようだ。というかこちらのほうが白昼夢だろうか。

 もやがうごめき道のように分かれる。するとそこから人影が現れた。

 不気味な笑顔。男とも女とも取れない。短い銀色の髪。穏やかな笑顔に、毒気を交えた顔。アルカイックスマイルに添加物が混じったうさん臭さだ。

 その恰好は、天使だろうか。白のローブに、翼。ステレオタイプすぎて安っぽい。むしろ、青白い光をまとっていると、ランプの魔人のように見える。

 そいつは軽く咳払いをして喋り始めた。

「わたしは、アルファでありオメガであり、AからZでもいいし、以から須まででも好きな感じで、ほら万能的な感じに当てはめておいてね。厳密にはちょいと違うけども、超越的存在なのはあってるからさ」変声期みたいな悪戯心が声にも表れていた。しゃべり方もドラマ出演に張り切りすぎた舞台俳優みたいで嘘くさい。「まぁ、率直に言いましょう。これは夢ではありません。理屈っぽいあなたを丸め込む必要などなく、わたしはあなたを従わせる側にある。まずは自分の姿を確認してください。いや、姿がないのを確認してください」

 姿?

 下を見る。視界は動くが体の感覚がない。目線を移しても、本来手足が見えるところには何もなかった。

 コレは一体。

 声も出なかった。声帯もないのだから当然か。

「まあ、呆けてしまうのも分かりますが、いまは気付けにひっぱたく頬もないから面倒ですね」

 天使モドキは指をパチリと鳴らした。すると私に体が、生じた。

 全身を確認する。か細い指先、透き通った肌。しかし、服装はみすぼらしく、初期アバターが着せられるぬののふくみたいだ。

 髪の毛をつまんで見やると、透き通るような金髪だ。

 これは私ではない。

「ナニコレ」思わずこぼれた声も、自分のものとは思えない。

「そう、それは今までのあなたではない。ブランニューマイセルフですよお嬢様」

「お嬢様?」

「そうだよお嬢様。お願いがあるんだ」モドキは小芝居じみた間を取った「悪役令嬢になって、異世界を盛り上げてよ」

「はぁ?」ちょいと何言ってるかわかりませんね。

「君を必要としている世界があるんだ。そこはね。ちょっと事情が込みいてるんだけど、”テコ入れ”が必要なんだ」大げさな実演販売のような身振りで、希求をアピールしている。「あのねぇ、なんていうか、世界が魅力的でないと、滅びてしまうんだよ。まあ、端的に言えば、低視聴率で番組が打ち切りみたいな。興味を持たれないと世界が崩壊って感じで」

「えっと」思考を追いつかせようにも、観念的すぎる。そして今せわしなくしている脳細胞が私のものなのか、とか雑念も多くわいてしまう。世界の崩壊?

「まあ理解するのに時間がかかるよねぇ。だっていくらなんでも情報過積載でしょ。今までの人生捨てて、別の世界へ、しかも自分じゃなくって、別の人間でだなんて、さらには厄介な任務がついてくる。新入社員に、人事整理と年末調整と棚卸しを任せるようなもんだよ」

「それは」何一つ理解できないが、厄介さだけは伝わった。「願い下げたいところ」

「でもね。迷わなくてもいんだよ。ほら、選択肢の多さはかえってストレスになるっていうし。だから一択にしてしてあげる」力強く両肩をつかまれた。「行くしかないってこと。断れない申し出というやつだよ。ストレートに言っちゃうと、文句は言わさん」

「なんで私がそんなことを、私にだって生活というものが」そこまで言って、元の生活に戻れるのか疑問が湧いた。

「ほら」モドキは手の平をこちらに向けた。そこから淡い光が球体をなし、大きくなっていく、バレーボール大になると、凹凸が見て取れる。地球だ。本物が手の上に浮かんでいるかのようだ。

「コレについてはね、いい場所だとか悪い場所だとか。いろいろな見解を持つ人がいる。でも君にとっては」手を返し、甲で地球をはじくと、ふわりと上昇していく。「みすみす去ってしまうには名残惜しいけど、すがるほどには何も残していていない場所だろう?」

 地球はそのまま上がっていく。私は、それがぼんやりと見えなくなるのを見送っていた。とくに言い返そうという言葉は浮かんでこなかった。

「それに戻ることもできないしね。まあ転職するくらい気楽にいこうよ。気持ちを新たにするには引っ越しが一番って言うし。手触りの違う生き方が見つかるかもよ」

「行くよ」一慮もなく応えていた。話題が次にいくのならなんだっていい。「どうせ断れないんでしょ」

「ありがとう。出向は既定路線だけれども、感謝は本当だと思ってほしい」お面のような笑顔が少しだけ崩れたように見えた。

「わかったよ」

「それでは、新たな世界に、一名様ご案内」そういって、私の背中側に回った。「ごめんね」ぽつりと小さな声。

「え?」振り返ろうとしたとき、背中を軽く押された。

 その刹那、景色が一変し、焼け野原になっていた。




もう少し前振り展開が続くかと思います。


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