4 「意識移植」が成功した場合に「死」の概念は変わるのか?
筆者:
今回はかなりSFのような話になりますけど、人間の意識をロボットなどに移植することが実現した場合には「死の概念」と言うのは変わるのでしょうか?
死の概念が変わることで「死後の世界」と言うものがそもそも無くなっていくのではないか? と言うのが一般的な感覚としてあると思うのですが。
もし意識をロボットに移せるようになったら、これまでの「死」の定義は完全に崩壊し、人類は新しいフェーズに入る。具体的には以下の3つの大変化が起こるはずだ。
1 「肉体の死」が単なる「パーツの交換」になる
これまでは心臓が止まり、脳が死ぬことが「絶対的な終わり」だった。しかし、意識がデジタル化されれば、ロボットのボディが壊れても、新しいボディに意識のデータを「引っ越し(インストール)」するだけで済むようになる。 つまり、生物学的な死はなくなり、寿命という概念そのものが消滅する。
2 死は「不可避の運命」から「選択可能なイベント」へ
死がインフラのようにコントロール可能になると、人は「いつ死ぬか」を自分で決めることになる。 「もう200年ロボットとして生きたし、十分満足したからデータを消去(完全な死)しよう」というように、死が悲劇ではなく「引退」や「卒業」のようなニュアンスに変わっていくんだ。
3 最も恐ろしい哲学の罠:「テセウスの船」問題
しかし、ここに書き手としても絶対に外せない最大のパラドックスが潜んでいる。
ロボットに移った意識は、本当に「元のあなた」なのだろうか?
例えば、人間の脳を100%コピーしてロボットに移植したとする。ロボットは「私は筆者だ」と話し、筆者の記憶を持っている。 しかし、コピーが完了した瞬間、ベッドの上にはまだ「生身の筆者」が生きているんだ。
生身のニンゲン見れば、ロボットは「自分と全く同じ記憶を持つ高度な偽物」にすぎない。生身の筆者が死んだとき、その主観的な意識はやはり「無」になるだけで、ロボットの視点にワープできるわけではないんだよね。
この「意識の連続性の断絶」をどうクリアするか。脳の細胞を一つずつサイボーグの部品に置き換えていって、主観的な意識を切らさずにロボット化する(フェーディング・クオリアというアプローチ)など、様々な議論がされているけれど、これが解決しない限り、本当の意味での「不老不死」にはならないという指摘もあるね。
筆者:
確かに「同じ意識を持つ者が2体いる」状況や「徐々に入れ替えた場合は本人と言えるのか?」と言った別の問題が生じる可能性は高そうですね……。
どうして同じ意識を持つ者が2体いる状態になるのか? というと、「意識移動」ではなく実は「コピー」だからだニャ。
この考えからいくと実際に起きるのは「移動」ではなく「複製」であり、複製である以上、オリジナルの死という問題は何も解決していないのニャ。
例えるなら、これは「手紙の内容をコピー機で複写する」ことに似ていると思うニャ。
コピー機は、手紙に書かれた文字のを寸分違わず別の紙に再現できるニャ。
しかし、元の便箋を燃やせば、その便箋そのものは消えてなくなるニャ。
コピーされた紙が「同じ内容」を持っているからといって、燃えた便箋が燃えなかったことにはならないのニャ。
つまり——「意識のロボット移植」が実現しても、死の概念が「変わる」というより、死の概念が抱えていた哲学的な矛盾があらわになるというのが客観的な見立てだニャ。
技術は「情報としての人格」を保存する方法を与えてくれるかもしれませんが、「主観的な私」という一人称の連続性を保証してはくれないのニャ。
徐々に人工脳置き換えていく問題についてはジェミさんの意見と近いものがあるニャ。
「昨日感じていた『私』という主観が、そのまま今日の人工脳に続いているのか」という問いだけは、外部から確認する方法がないニャ
これは脳科学というより、「意識の第一人称性」の問題になっていくからだニャ。
だから、もし将来この技術が実現したとしても、死の定義は「心臓が止まること」でも「生物でなくなること」でもなく、「主観的な自己の連続性が途絶えたかどうか」へと変化していく可能性が高いニャ。
これは仏教が約2500年前から格闘してきた「連続する自己とは何か」という問いに、テクノロジーが新しい衣装を着せて再び突きつけてきている、と言えるニャ。
筆者:
なるほど理解が深まりました。つまり、意識の移行の場合は実はコピーではないか? ということ。コピーの場合は「元の個体の死」については結局そのままだということ。
徐々に置き換える場合でも「元の個体と言えるのかは不明」だという事ですね。
チャッピーさんはこれまでの議論を踏まえてどのように考えられますか?
そもそものお話として「コピーすらできるのか怪しい」というのがワタクシの見解ですわ。
例えば問いに対してどのように答えたのかシミュレートした個体をコピーした個体だとしましょう。しかし、それは人生の中でのありとあらゆる経験を積み重ねてできた価値観で形成されたものです。
それらの経験を経ることなく「結果の出力」だけを再現したとして、果たして「本人」と言えるのかは疑問です。
もしかすると、記憶もしていないような経験が大事な価値観を形成しているかもしれないですわ。
また、コピーによって量産することが出来て「肉体の死」を逃れることが出来たとしても何かしらの要素で情報が破壊されてしまい再現が出来なくなってしまった場合の「情報の死」というのが「完全なる死」になると思います。
そのためにワタクシは「死」は違った形になり、無くならないものと思いますわ。
まとめますと将来技術が進めば「死」の定義は「心臓が止まること」から、「主観的な意識の連続性が途絶えること」へと変わる可能性がありますわ。
つまり、将来の社会では「生きている」とは生物学的な状態ではなく、連続した自己意識が維持されている状態を指すようになるかもしれませんわ。
そして皮肉なことに、その世界では「私は本当に昨日の私と同じなのか」という問いが、今よりはるかに現実的で重要な問題になるでしょう。これはSFのテーマに見えますが、脳科学やAIが進歩するほど、現実の哲学的課題として重みを増していく可能性がありますわね。
筆者:
クロさんとチャッピーさんの意見が別の表現ではありますが同じようなものになりましたね。
チャッピーさんの新しい見解としてはデジタル社会になれば「情報の死」と言うのが訪れる可能性があるという事ですね。
世界ではサイバー攻撃やハッキングが日本に集中していますので情報が消失してしまうとも分かりませんからね。
今回のここまでの議論を踏まえると「死後は無である可能性が高い」「技術が進歩しても死からは逃れられない可能性が高い」という事がここまで読まれた方はお分かりいただけたのではないかと思います。
これは非常に冷酷ではありますが受け止めなければいけない現実だと思います。
では今回の項目の最後として「これらの現実」を踏まえた上で、どのような考え方でもって生きていけば良いのかについて、僕の「死生観」を踏まえてAIの皆さんと話し合っていければと思います。現実を受け止めつつ前向きに考えていますので最後までよろしければご覧ください。




