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スキル『臭い息』のせいで婚約破棄されたけど、魔物も貴族も王子も全部黙らせられるようです

作者: 桜めんと
掲載日:2026/05/15


 リリア・ローゼリアは、王都で最も美しい令嬢だと言われていた。


 淡い金の髪は朝の光をほどいたように柔らかく、白い肌は薔薇の花びらよりもなめらかで、長い睫毛を伏せるだけで周囲の声が一段低くなる。


 舞踏会では、彼女が入ってきただけで若い貴族たちの会話が止まる。

 庭園を歩けば、後ろを通った令嬢たちが思わず同じ香水を尋ねる。

 実際には香水など控えめで、リリア本人が花に似た空気をまとっているだけだった。


 王都の貴族たちは、彼女をこう呼んだ。


 白薔薇の令嬢――と。


 美しく、清らかで、王太子の隣に立つために生まれてきた少女。


 だから誰もが信じていた。


 15歳の授与式で、リリアが得るスキルは、きっと《祝福》や《聖女》や《白薔薇の加護》のような、いかにも彼女にふさわしい美しい名を持つのだろうと。


 リリア自身も、少しだけそう思っていた。


 一生に一つだけ授かるスキル。

 一度授かれば、どれほど望んでも変えられない。

 貴族にとって、それは才能であり、看板であり、時に婚約の価値そのものだった。


 王都中央神殿の大広間は、その日、白と金で飾られていた。


 高い天井。

 清められた石床。

 祈りの香が薄く漂う空気。


 貴族の子女たちが順番に鑑定板へ手を置き、神官が授かったスキルを読み上げていく。


「《剣技補助》」

「《豊穣の手》」

「《水癒》」


 名前が呼ばれるたびに、拍手やため息が起こる。


 来賓席には、アルヴィン王太子が座っていた。

 金髪を整え、涼しげな青い目をした王家の若者。

 リリアとの婚約はすでに内定に近く、今日の授与式でリリアが王家にふさわしいスキルを得れば、近いうちに正式発表される予定だった。


 その隣では、侯爵令嬢ディアナが扇の陰からリリアを見ている。


「リリア様なら、きっと素晴らしいスキルですわね」

「ええ。《白薔薇の祝福》あたりかしら」

「まあ、ぴったりですわ。白薔薇の令嬢ですもの」


 取り巻きの令嬢たちが笑う。


 リリアは聞こえないふりをした。

 背筋を伸ばし、静かに順番を待つ。


「次、リリア・ローゼリア嬢」


 神官に呼ばれた瞬間、大広間の視線が一斉に集まった。


 リリアはゆっくり前へ出た。

 白いドレスの裾が石床をすべり、髪飾りの小さな真珠が光る。


 誰かが息を呑む。


 こんな少女に醜い名のスキルが与えられるはずがない。

 その場の誰もが、そう思っていた。


 リリアは鑑定板へ手を置いた。


 冷たい石の感触が掌に広がる。

 神官が祈りを捧げる。

 鑑定板に白い光が灯った。


 文字が浮かぶ。


 神官が覗き込んだ。


 そして、止まった。


 不自然な沈黙だった。


 神官は目を細め、もう一度鑑定板を見る。

 それから、少しだけ鑑定板から顔を遠ざけた。


 リリアの胸が嫌な音を立てる。


「あの……神官様?」


 神官は答えない。

 なぜか一度、天井を見た。

 祈るような顔だった。


 大広間のざわめきが消えていく。


「リリア・ローゼリア嬢に授けられしスキルは……」


 神官の声が震えた。


 リリアは思わず息を止める。



「⋯⋯《臭い息》です」



 大広間から音が消えた。


 長い、長い沈黙。


 リリアは鑑定板を見た。


 白い文字が浮かんでいる。


 ――スキル《臭い息》。


 見間違いようがなかった。

 優雅な飾り文字ですらなかった。

 神具は残酷なほどはっきりと、ただ《臭い息》と表示していた。


「……も、もう一度、お願いできますか?」


 リリアは震える声で言った。

 神官は気の毒そうに首を横に振る。


「何度確認しても、《臭い息》です」


「ちょ、ちょっと声量を下げていただけますか」


「申し訳ありません。授与式では読み上げの規定がありまして」


「その規定、今日だけ燃やせませんか」


「神殿の規定ですので」


 リリアは人生で初めて、神殿の規定を憎んだ。


 その瞬間、どこかで誰かが吹き出した。


 ひとつ笑いが漏れると、沈黙は一気に崩れた。

 扇の陰から声がこぼれる。

 貴族の少年たちが肩を震わせる。

 令嬢たちが目を丸くし、それから口元を隠した。


「リリア様が……」

「《臭い息》……?」

「白薔薇なのに?」

「近くに寄っても大丈夫なのかしら?」

「何か、ここ臭くない?」

「念のため、風上に移ります?」


 リリアの頬から血の気が引いた。


 私は臭くない。

 今朝も髪を洗った。

 歯も磨いた。

 香油も控えめだがつけた。

 息だって薔薇の水でうがいをして整えた。


 そんなことを真剣に考えている自分が、さらに情けなかった。


 来賓席で椅子が勢いよく倒れる音がした。

 アルヴィン王太子が立ち上がっていた。


「⋯⋯神官。鑑定に誤りはないのか」


「鑑定板は『神具』です。誤りはありません」


「本当にスキルが《臭い息》なのか」


「はい。《臭い息》です」


「もう少し別の言い方にはならんのか?」


「神具の表記そのままですので」


 リリアは心の中で叫んだ。


 殿下、そこは私のために言い方を変えてくださる場面ではなく、私を庇っていただく場面です。


 だが、アルヴィンの顔には、はっきりと嫌悪が浮かんでいた。


 リリアは、その表情を見てしまった。


 婚約者になるはずだった人。

 何度も舞踏会で手を取った人。

 優雅だ、美しい、王家にふさわしいと笑ってくれた人。


 その方の顔が、今は引きつっていた。

 しかも、鼻元に手を添えている。


「リリア・ローゼリア」


 アルヴィンの声が神殿に響いた。


「王家に迎える者が《臭い息》などという下品なスキルを持っているわけにはいかない。君との婚約は白紙に戻す」


 リリアは唇を開いた。

 だが、声が出なかった。


 スキルは自分では選べない。

 リリアが望んだわけではない。


 それでも王太子は、リリア本人ではなく、鑑定板(神具)に浮かんだ名前だけを見てすべてを切り捨てた。


「殿下、それはあまりにも……」


 リリアの父、ドラン・ローゼリアが立ち上がりかけた。

 アルヴィンは冷たく言い切る。


「王家の名誉に関わる。ローゼリア伯爵も理解していただきたい」


 ディアナが扇で口元を隠す。


「お気の毒ですわ、リリア様。あの、こちらへは来ないでくださいませね。ちょっと臭そうなので」


 リリアの胸の奥が冷えていく。


 泣いてはいけない。

 ここで涙を落とせば、本当にすべてを奪われる。

 白薔薇の令嬢と呼ばれたのなら、最後まで背筋だけは伸ばさなくてはいけない。


 リリアは震える指を重ね、深く頭を下げた。


「承知いたしました。王太子殿下のご判断に従います」


 アルヴィンは安堵したように息を吐いた。

 その吐息には、嫌な安心があった。


 ――そのときだった。


 神殿の外で悲鳴が上がった。


 大扉が乱暴に開き、若い神官見習いが転がるように入ってくる。


「魔物です! 地下封印庫から小型の魔物が逃げました!」


 廊下の奥から魔獣の咆哮が響いた。


 参列者たちが一斉に騒ぐ。

 騎士が剣を抜く。

 だが、貴族の子女たちが出口へ殺到し、廊下は混乱した。


 灰色の毛を逆立てた魔物が飛び出してくる。

 大きさは猟犬ほどだが、口は異様に裂け、牙の間から黒い涎を垂らしていた。


 その前に、小さな男の子が転んでいる。


 神官見習いの子だ。

 恐怖で立てないらしい。


 騎士は間に合わない。

 アルヴィンは護衛に囲まれ、動かない。

 周囲は悲鳴ばかりで、誰も前へ出ない。


 リリアは考える前に走っていた。


「危ない!」


 男の子の前に飛び出す。

 魔物の赤い目がリリアを捉えた。

 裂けた口が開き、生臭い息がかかった。


 リリアは一瞬だけ思った。


 ――この魔物の方がよほど臭いではありませんか。


 だが、誰もそれを言ってくれない。

 理不尽である。


 魔物が吠えた。


 その瞬間、リリアの胸の奥で知らない力が熱を持った。


 喉に何かが集まる。

 息が勝手に深く吸い込まれる。

 リリアは思わず叫んだ。


「来ないで!」


 息が――薄い霧のように吐き出された。


 次の瞬間、魔物の咆哮が途中で潰れた。


「グォォオ――ムグギッ!?」


 魔物の口が不自然に閉じる。

 喉を詰まらせたように目を見開き、その場で足をもつれさせた。


 牙を剥こうとしても、声が出ない。

 口を開こうとしても、何かに縫い止められたように動かない。


 そして、廊下にいた貴族たちが一斉に鼻を押さえた。


「うっ」

「な、何ですの、この臭み」

「い、祈りの香が負けましたわ」

「神殿が汚された?」


 リリアの心が折れた。


 魔物は動けない。

 男の子は助かった。

 騎士が駆けつけ、魔物を押さえ込む。


 だが、周囲の視線は感謝よりも困惑と衝撃に満ちていた。


 リリアは両手で口元を押さえる。


 私は臭くない。

 私は臭くないはず。

 スキルが臭いだけ。


 そう思いたいのに、広間中の反応がひどすぎた。


 男の子だけが、震えながらリリアのドレスを握った。


「あ、ありがとう、お姉ちゃん」


 その一言で、リリアは何とか立っていられた。


 アルヴィンの声が冷たく落ちる。


「……やはり、婚約破棄は正しかったようだな」


 王太子は鼻元に布を当てていた。


 リリアはゆっくり振り返る。


 恥ずかしい。

 逃げたい。

 消えてしまいたい。


 それでも、助けた子どもは自分の後ろで生きている。

 ならば、この力そのものまで恥じてはいけないのかもしれない。


 リリアは震える足で立ち、乱れたドレスの裾を整えた。


「殿下」


 声は細かった。

 だが、まっすぐだった。


「私は臭くありません」


 神殿中がまた黙る。


 リリアは口元を押さえたまま続けた。


「スキルが臭いだけです」


 誰かが吹き出した。

 リリアは、その笑いを背に受けながら神殿を出た。


 その日、白薔薇の令嬢は王都で一番気の毒な令嬢になった。



□■□■□



 噂が広がるのは早かった。


 昼には、超美貌の令嬢――リリア・ローゼリアのスキルが《臭い息》だったと王都中に知られていた。


 夕方には、神殿の魔物を息だけで倒した話が出回っていた。


 夜には、リリアが息を吐いただけで神殿の結界に覆われていた聖華が枯れたことになっていた。


「枯れていません!」


 翌朝、リリアは自室で新聞を握りしめていた。


 鏡の中の自分は、昨日までと変わらない。

 髪は整っている。

 肌も荒れていない。

 口元にも異常はない。

 むしろ母が用意してくれた薔薇水のおかげで、いつもより良い香りがする。


 なのに、スキル名ひとつですべてが変わった。


「お嬢様、お茶をお持ちしました」


 侍女が銀盆を運んでくる。

 その上には紅茶と、いつもより明らかに多いミント菓子があった。


 リリアは沈黙した。


「……これは?」


「お嬢様がお好きかと思いまして」


「いつもより3倍も量があります」


「念のためです」


「何の念ですか」


 侍女は目を逸らした。


 リリアはミント菓子を一つつまみ、静かに口へ入れた。


「おいしいです」


「⋯⋯よかったです」


「ですが、私は臭くありません」


「もちろんでございます」


「その顔は信じていませんね」


「信じております。お嬢様はいつもお美しく、良い香りで、ただスキル名が少々⋯⋯攻撃的なだけです」


「慰めが器用なのか下手なのか分かりません」


 侍女は真剣な顔で言った。


「お嬢様。私は昨日から考えておりました」


「何を?」


「《臭い息》ではなく、《白薔薇の吐息》と呼べば少し印象が良くなるのではないかと」


「それはただの詐称です」


「では《沈黙の薔薇吐息》」


「余計に怪しいです」


「《貴族黙らせブレス》」


「ふ、ふふっ、笑ってしまいましたわ」


 言ってから、リリアは自分で驚いた。

 声が出た。

 スキルを授与されて以来、初めて笑っていた。


 笑えるのだ。

 昨日すべて終わったと思ったのに、まだ笑える。


 そのとき、侍女が扉の外へ目を向けた。


「リリアお嬢様、お客様です」


「今の⋯⋯私に?」


「王宮騎士団の方です。カイ・レイヴェルと名乗っておられます」


 通されたのは、黒髪の若い騎士だった。


 年齢は20歳前後。

 王宮騎士の制服を着ているが、飾り気は少ない。


 左頬に薄い傷があり、目つきは鋭い。

 整った顔立ちだが、貴族の舞踏会にいる青年たちとは違い、柔らかな言葉で自分を飾ろうとしない人に見えた。


 彼はリリアの前で丁寧に頭を下げた。


「カイ・レイヴェルと申します。昨日、神殿で魔物を取り押さえた騎士の一人です」


 リリアは少し身構えた。


「昨日のことで、何か問題がありましたか」


「逆です。礼を言いに来ました」


「礼?」


「あの場であなたが動かなければ、神官見習いの子どもは死んでいました」


 リリアは目を伏せる。


「ですが、皆様にはずいぶん迷惑をかけました。空気が、その……不快だったようなので」


「はい。あれは不快でした」


 カイは真顔で言った。

 少し回復していたリリアの心がまた折れた。


「正直ですね。……そこは濁していただけませんか」


「すみません。嘘は苦手です」


「私も今は真実が苦手です」


 カイは申し訳なさそうに頭を下げた。


「失礼しました。ただ、私は匂いが不快だったわけではありません」


 リリアは涙目のまま顔を上げた。


「どういう意味ですか」


「私は嗅覚がありません。3年前、魔狼討伐で呪いを受けました。だから昨日の匂いは分かりませんでした」


「では、なぜ不快だと」


「喉が重くなりました。息を吸う前に、空気そのものを押さえられるような感覚があった。目も少ししみました」


「……それはそれで、だいぶ心に突き刺さる感想です」


「はい。それだけ不快でした」


「もう一度はっきりと言わないでください」


 カイはわずかに目を伏せた。


「ですが、そのおかげで分かりました。あなたのスキルは単なる悪臭ではありません」


 カイの声は静かだった。


「あなたの息を受けた魔物は、その臭いで怯んだのではありません。咆哮と呼吸を封じられていました。噛みつくための動きまで止まっていた」


「つまり……」


「――戦えるスキルです」


 リリアはその言葉を胸の中で繰り返した。


 臭い。

 下品。

 王家にふさわしくない。


 そんな言葉ばかり浴びた後で、初めて自分の力をまともに見てもらえた気がした。


「ですが、私は貴族令嬢です。戦う訓練など受けていません」


「なら、冒険者ギルドで実用確認を受けるといいでしょう。非戦闘職でもスキルの効果は確認できます」


「冒険者ギルド……」


 貴族令嬢が荒くれ者が多いと言われている、冒険者ギルドへ行く。

 それだけでも噂になる。


 まして《臭い息》の令嬢が実技確認を受けたとなれば、王都中の笑い話だ。


 だが、どうだろう。

 冷静になった今、考えてみれば、今さら笑われることを恐れて何になるのだろう。


 リリアはすでに十分笑われている。

 婚約も破棄された。


 失うものなど、もう何もなかった。


「カイ様」


「カイで構いません」


「では、カイ。もし私がギルドへ行くなら、付き添っていただけますか?」


 カイは少しだけ驚いたように見えた。


「もちろんです」


「ありがとうございます」


 リリアは深く息を吸う。


「ただし、受付でスキル名を大声で読み上げられたら、私は帰ります」


 カイは一瞬沈黙した。


「それは難しいかもしれません」


「なぜですか」


「冒険者ギルドは、だいたい声が大きいので」


 リリアは両手で顔を覆った。


「はぁ、私の人生、どこへ行っても試練ばかりですね」



□■□■□



 翌日、リリアは王都冒険者ギルドの前に立っていた。


 白い外套に、顔を半分隠す薄いヴェール。

 貴族令嬢としてはかなり控えめな装いだが、それでもリリアは目立った。


 美しすぎるからだ。


 姿を隠そうとしても、隠しきれない。

 通りすがりの人々が振り返り、それから噂に気づいてひそひそと囁く。


 リリアは拳を握る。


「帰りたいです」


「帰りますか」


 カイが隣で聞く。


「いいえ。ここで帰ったら、たぶん一生逃げます」


 リリアは扉を開けた。


 中は男たちの汗の匂いが満ちていた。

 ここの方がよっぽど臭い。


 壁には依頼票が並び、冒険者たちが大声で笑っている。

 社交界とはまったく違う空気に、リリアは一瞬足を止めた。


 ギルド中の視線が集まる。


「あれ、白薔薇の令嬢じゃないか」

「いや、今はクサバラだろ」

「おい、聞こえるぞ」

「聞こえる距離にいる方が悪い」


 笑い声が起きる。


 カイが一歩前に出た。


「笑いたいなら、実技を見てから笑え」


 低い声だった。


 それだけで、数人の冒険者が口を閉じる。


 受付嬢はリリアの名前を聞き、少し目を見開いた。

 噂は届いているらしい。


「リリア・ローゼリア様ですね。スキル実用確認をご希望とのことで……ええと、スキル名は――」


 受付嬢が書類を見る。

 そして固まる。


 リリアは目を伏せた。


「小声でお願いします」


「はい。スキル名は……《臭い息》」


 受付嬢は本当に小声で言ってくれた。


 だが、近くの冒険者が耳ざとかった。


「今、《臭い息》って言ったか?」


 ギルド中が静かになる。


 リリアは天井を見上げた。


 人は追い詰められると天井を見る。

 昨日から学んだことである。


 受付嬢は慌てて奥の実技場へ案内した。


 実技場には、捕獲された小型ゴブリンが3体用意されていた。

 新人の戦闘能力を見るための試験用魔物だ。

 鉄格子の内側で、短い牙を見せて唸っている。


 リリアは柵の前に立つ。


「本当に、やるのですね」


 受付嬢が心配そうに言った。


「はい」


 リリアは深呼吸した。


 できるだけ上品に。

 できるだけ短く。

 できれば臭くなく。


 無理な願いばかりが浮かぶ。


 鉄格子が上がった。


 ゴブリンが飛び出す。

 棍棒を振り上げ、甲高い声を上げようとした。


 リリアは口を開く。


「止まりなさい!」


 リリアの息が薄く広がる。


 ゴブリンの声が消えた。


 3体とも同時に口を押さえ、目を白黒させる。


 棍棒を振る前に膝が崩れた。


 喉から鳴らそうとした声がまったく出ない。


 息を吸おうとしても、うまく吸えないらしい。

 そのまま床に転がった。


 実技場が静まり返っていた。


 受付嬢が記録板を落とした。


「……ご、合格です」


 リリアは口元を押さえる。


「臭いましたか?」


 受付嬢は目を逸らした。


「少しだけ」


「少しだけなら、成長です」


 自分で言っていて悲しくなった。


 奥にいた冒険者が小声で言う。


「ゴブリンが鼻押さえて倒れてるぞ」

「魔物にも分かるんだな」

「逆にすげえ」


 リリアは静かに振り返った。


「全部聞こえています」


 冒険者たちは一斉に口を閉じた。


 そのとき、実技場の隅から小柄な少女が飛び出してきた。


 緑色の髪を二つに結び、丸眼鏡をかけ、薬瓶の詰まった鞄を抱えている。


「素晴らしいです!」


 少女はリリアの両手を握った。


「私はミルカ、薬師の見習いです! 今の息、採取させてください!」


「は? 嫌ですわ!」


 リリアは即答した。


「なぜですか! 魔力構造がとんでもなく珍しいんです! 臭気に見せかけた沈黙属性、いえ、空気干渉型の臭い息かもしれません!」


「言葉を選んでください。臭気に見せかけた、の時点で私は深く傷ついています」


「では、芳しくない空気干渉型の――」


「⋯⋯さらに傷つきました」


「でも、臭いかもしれませんが、そのスキルはとても上等ですよ!」


「臭いに上等も何もありません⋯⋯」


「あります! 今のは、香水をこぼした馬車が3日ほど密閉されたあとのような、気品ある不快感です!」


「気品があればいいわけではありません」


 カイが横で静かに言う。


「能力の説明は聞いた方がいい」


 リリアは涙目でカイを見た。


「あなたまで」


「あなたを笑っているわけではありません。戦える理由が分かるからです」


 その言い方がまっすぐだったので、リリアは黙った。


 ミルカは勢いよく頷く。


「リリア様のスキルは、ただの悪臭ではありません。息に混ざった魔力が、相手の喉、肺、声帯、詠唱の流れを乱しています。だから咆哮も詠唱も止められる。人間には不快な空気として感じられますが、本質は沈黙です」


「沈黙……」


「はい。魔物も、魔術師も、嫌味な貴族も、たぶん王子様も黙らせられます!」


 リリアは一瞬だけ想像した。


 アルヴィンが偉そうに何か言う。

 自分が軽く息を吐く。

 王太子が黙る。


 少しだけ、胸がすっとした。


「いけませんね。今、とても失礼な想像をしました」


「たぶんそれは正当防衛です」


 ミルカが真顔で言った。

 カイは口元をわずかに緩めた。


 リリアはその小さな変化に気づき、少し驚いた。

 彼が笑うと、鋭い目元がほんの少しやわらかくなる。


 なぜだろう。


 笑われているはずなのに、不快ではなかった。



□■□■□



 それから数日、リリアはギルドの訓練場で自分のスキルを試した。


 結果は散々で、そして予想以上だった。


 小型魔物はほぼ確実に黙る。

 虫系魔物は特に弱く、息を向けるだけでひっくり返った。

 獣系魔物は鼻と喉を同時にやられるらしく、戦意を失いやすい。

 アンデッドにはなぜか効き目が強く、骸骨兵がリリアの息を受けると、とても安らかな顔で崩れていった。


「臭い息で成仏するなんて、私はどう受け止めればいいのでしょう」


「浄化効果があるということです」


 カイは真面目に言う。


「浄化という響きだけは素敵ですね」


「臭い浄化ですね!」


 ミルカが叫び、リリアは無言で見つめた。


「ごめんなさい」


 ミルカはすぐ謝った。


 少しずつ、リリアは自分のスキルを理解していった。


 普段の息は普通だ。

 むしろ、リリア自身は相変わらず花のように香る。


 だが、スキルを発動すると、息に白い魔力が混ざる。

 それが相手の声や呼吸を封じる。


 問題は、人間が近くにいると不快な空気として感じることだった。


 ミルカは薬草を染み込ませた消毒布を用意した。


「これを鼻元に当てれば、周囲の方も少し耐えられます」


「私の戦いには、味方を守る消毒布が必要なのですね」


「はい!」


「元気よく肯定しないでください」


「大丈夫です。鼻さえあ守れれば、味方は生き残れます」


「守れなければ?」


「気合いです」


「作戦として弱いです」


 だが、その布のおかげで訓練はかなり楽になった。


 カイは嗅覚がないので平気だ。

 ミルカは研究欲が勝っているので平気だ。


 他の冒険者たちも、最初は笑っていたが、リリアが巨大な毒蛾を一息で落としたあたりから態度を変えた。


「あの令嬢、やばいぞ」

「口を開いたら終わりだ」

「喧嘩売るな。息で黙らされるぞ」

「美人が息を吐いただけで魔物が落ちるの、絵面はすごいな」

「臭いけどな」

「そこは命を惜しめ」


 噂の方向は少しずつ変わった。


 白薔薇の令嬢。

 臭い息の令嬢。

 そして、敵を黙らせる令嬢。


 だが、社交界はそう簡単には変わらなかった。


 ある日、王宮から招待状が届いた。


 王太子主催の舞踏会。

 そこには、はっきりとリリアの名前が書かれていた。


 父は苦い顔をした。


「断っていい。今さら呼びつけるなど、ろくな意図ではない」


 リリアも同じことを思った。


 婚約破棄した相手をわざわざ舞踏会に呼ぶ。

 しかも、噂が最も広がっているこの時期に。


 目的は見世物だろう。


 王太子が新しい婚約者候補を隣に置き、リリアとの差を見せつける。

 貴族たちは安全な距離から笑う。

 リリアが来なければ「逃げた」と笑われる。


 どちらにしても笑われる。


 リリアは招待状を見つめた。


 逃げても笑われる。

 なら、逃げずに笑われた方がいい。


「私、出席しますわ」


 父が眉を寄せる。


「リリア」


「大丈夫です、お父様。私は臭くありません」


 父は一瞬だけ返答に困った。


「……も、もちろんだ」


「ただ、念のために、消毒布は多めに持っていきます」


 母が泣きそうな顔で笑った。



□■□■□



 舞踏会の日、リリアは白いドレスを選んだ。


 淡い金糸が裾に刺繍され、動くたびに光る。

 髪には白薔薇の飾りを一つだけ。

 香水は控えめに、清らかな花の香りをまとった。


 鏡の中の自分は、まだ白薔薇の令嬢に見えた。


 王宮の大広間に入った瞬間、ざわめきが広がる。


「来ましたわ」

「よく顔を出せましたわね」

「近くに寄らない方がよろしいのでは」

「私は風上を取りますわ」


 声は小さい。

 だが、聞こえるように言っている。


 シャンデリアの光が磨かれた床に落ち、楽団が優雅な曲を奏でている。

 貴族たちは笑顔を張りつけ、扇とグラスの陰で噂を交換していた。


 ――その中央に、アルヴィン王太子がいた。


 隣には、濃い赤のドレスを着たディアナ・クラウベル侯爵令嬢。

 リリアの婚約破棄後、次の婚約者候補として名が上がっている人物だ。


 ディアナはリリアを見ると、扇を広げた。


「まあ、リリア様。今夜はずいぶん勇気を出されましたのね」


「ご招待をいただきましたので」


「香りも素敵ですわ。念入りに、お気を遣われたのね」


 周囲で小さな笑いが起きる。

 リリアは微笑んだ。


「はい。普段通りです」


 ディアナの笑顔が少し固まる。


 アルヴィンが近づいてきた。

 以前はリリアの手を取ってくれた人だ。

 今は少し離れている。


「リリア。今夜は騒ぎを起こさぬようにな」


「承知しております」


「王宮で、例のスキルを使うなど許されない」


 リリアは一礼した。


「私も、できれば使いたくありません」


 それは本心だった。


 誰が好き好んで舞踏会でスキル――《臭い息》を使うのか。


 想像しただけで帰りたい。


 そのとき、会場の端で給仕が倒れた。


 銀盆が床に落ち、澄んだ音が響く。

 続いて、近くにいた貴族が喉を押さえて膝をついた。


 楽団の音が止まる。


「何だ?」

「気分が……」

「息が、苦しい」


 大広間の床を、薄い紫の霧が這っていた。


 香水とも煙とも違う、甘く重い匂い。

 人々の足元からゆっくり広がり、吸い込んだ者の力を奪っていく。


 ――霧?


 護衛騎士たちが動く。

 だが霧を吸った瞬間、腕に力が入らなくなる。


 カーテンの陰から黒衣の男が現れた。

 手には小さな魔道具。

 口元だけが笑っている。


「王太子殿下には、ここで眠っていただく」


 暗殺者だった。


 アルヴィンの顔色が変わる。

 ディアナは悲鳴を上げようとして、毒霧に咳き込んだ。


 魔術師が詠唱を始める。


「風よ、毒を――」


 暗殺者が魔道具をかざす。

 紫の霧が濃くなり、詠唱が途中で途切れた。


 普通の風魔法では押し返せない。

 毒霧自体に、詠唱を鈍らせる仕掛けがあるらしい。


 リリアは息を止めたまま周囲を見る。


 倒れている人。

 立てない騎士。

 顔を青くする王太子。

 泣きそうな令嬢たち。


 自分を笑った人たちばかりだ。

 だが、死んでいい理由にはならない。


 会場の扉が開き、カイが駆け込んできた。

 護衛として外に控えていたらしい。

 彼は毒霧に顔をしかめながらも、リリアを見つけた。


「リリア嬢!」


「カイ、これは」


「毒霧です。あの魔道具が核でしょう。詠唱を潰す効果がある」


「私なら、止められますか」


 カイは短く答えた。


「あなたなら黙らせられる」


 その言葉には、ためらいがなかった。


 リリアは震える指で消毒布を取り出した。

 近くにいた子どもや倒れかけた令嬢に渡す。


「口と鼻を押さえてください!」


 ディアナが涙目でリリアを見る。


「あなた、まさか」


「そのまさかです」


「ここは王宮の舞踏会ですのよ」


 リリアは大広間の中央へ進んだ。


 ドレスの裾が毒霧に触れる。

 甘い匂いで頭が重くなる。

 だが喉の奥に、あの白い魔力が集まり始めた。


 アルヴィンが咳き込みながら叫ぶ。


「やめろ、リリア! 王宮でそんな下品なスキルを――」


 リリアは振り返った。


「殿下」


 美しい笑顔だった。


「今は黙っていてください」


 そして息を吐いた。


 吐いた息が紫の霧へぶつかる。


 大広間の空気がねじれる。

 紫の毒霧が一瞬で止まる。

 そこからどんどん押し戻されていく。


 ついでに、貴族たちも一斉に鼻を押さえた。


「うっ」

「毒霧より分かりやすい刺激が来ましたわ」

「命は助かりそうですけれど、鼻が先に負けますわ」


 リリアは息を吐きながら泣きそうになった。


 助けているのに。

 私は今、確実に皆様を助けているのに。


 暗殺者が目を見開いた。


「何だおまえ、そのスキルは」


 詠唱を始めようとする。


 だが、リリアの息が届いた。


「――っ」


 暗殺者の口が動かなくなる。

 喉を掻きむしり、声を出そうとしても出ない。


 魔道具を構え直す前に、カイが踏み込み、剣の柄で男の手首を打った。


 魔道具が床を転がる。

 騎士たちが暗殺者を取り押さえた。


 毒霧は薄れていく。

 倒れていた貴族たちが咳き込みながら顔を上げた。


 王太子は助かった。

 ディアナも助かった。

 大広間にいたほとんどの者が、リリアの息で命を拾った。


 そして全員が、何とも言えない顔でリリアを見ていた。


 リリアは口元を押さえる。


「……助けたのに、なぜ私が一番傷つく空気なのですか」


 ミルカの声が会場の入口から響いた。


「リリア様! 今の息、すごくよかったです!」


「ミルカ、褒め方を後で練習しましょう」


 王宮の広間は、気まずい沈黙に包まれた。


 その中で、アルヴィンだけが苦々しい顔をしていた。


「たまたまだ」


 王太子の声は小さいが、はっきり聞こえた。


「暗殺者の毒霧に相性がよかっただけだ。そんな下品なスキルが⋯⋯王家に必要なはずがない」


 リリアは何も言わなかった。

 言い返すより早く、王宮の外から轟音が響いた。


 窓が震える。

 シャンデリアの光が揺れる。

 遠くで鐘が鳴った。


 警鐘だ。


 会場の扉が開き、血相を変えた騎士が飛び込んでくる。


「王都東門に魔物が出現! 瘴気をまとった大型個体です! 咆哮を聞いた者がどんどん倒れています!」


 カイが窓の外を見る。

 夜空の下、王都東側に黒い煙のようなものが立ち上っていた。


 ミルカが息を呑む。


黒縛獣ブラックスロート……昔の記録で見たことがあります。声で人を縛る魔物です。咆哮を聞いた人の喉と肺を支配して、動けなくするって」


「止める方法は?」


 カイが問う。


「普通は耳を塞いで近づくしかありません。でも瘴気も強いなら、騎士団だけでは厳しいでしょう」


 会場にいた者たちの視線が、自然とリリアへ向いた。


 さっきまで笑っていた人たち。

 距離を取っていた人たち。

 王家にふさわしくないと言った人たち。


 その全員が、今はリリアに助けを求める目をしている。


 リリアはその視線を受け止めた。


 怖い。

 また使えば笑われる。

 また臭いと言われる。

 今度は王宮ではなく、王都中に知られる。


 それでも、東門には人がいる。

 逃げ遅れた市民がいる。

 あの神殿の男の子のように、誰かが魔物の前で立てずにいるかもしれない。


 リリアは深く息を吸った。


「行きます」


 カイが頷く。


「私も行きます」


 ミルカが鞄を抱え直す。


「もちろん私も! 大量に持ってきましたよ、消毒布!」


 両腕いっぱいの布を見て、リリアは少しだけ笑ってしまった。


「それは心強いですわ」


 アルヴィンが慌てて声を上げる。


「待て、リリア。王宮騎士団が対応する。君のような令嬢が行く場所ではない」


 リリアは振り返る。


「殿下」


「何だ」


「先ほど、私のスキルは王家に必要ないとおっしゃいました」


 アルヴィンが口を閉じる。


「では私は、王家のためではなく、王都の人たちのために行きます」


 リリアはドレスの裾を持ち上げ、走り出した。


 王都東門は、地獄のようになっていた。


 門前広場には瘴気が満ち、騎士たちが倒れている。

 耳を押さえている者。

 喉を押さえて苦しんでいる者。

 声を出そうとしても出せず、顔を歪めている者。


 その中心に、黒い巨大な獣がいた。


 ドラゴンのような体に、鳥のように長い首。

 喉だけが異様に膨らみ、黒い袋のように脈打っている。

 口を開くたび、目に見えない圧が広場を叩いた。


 黒縛獣ブラックスロート


 魔物が咆哮する。


 音は低い。

 だが耳ではなく胸を直接掴まれるようだった。

 近くにいた騎士が膝をつき、剣を落とす。

 逃げ遅れた人々が声も出せずに倒れていく。


 カイは剣を抜いた。


「私は前へ出る。リリア嬢は距離を取って」


「分かりました」


 ミルカが鼻を押さえる用の布を配りながら叫ぶ。


「皆さん、これを! リリア様の息は味方です! たぶん!」


「たぶんを付けないでください!」


「正確さは大事です!」


 黒縛獣ブラックスロートがリリアへ顔を向けた。


 赤い目が細まる。

 何かを感じ取ったように、喉の袋が大きく膨らんだ。


 咆哮が来る。


 リリアは口元を押さえた手を下ろした。


 怖い。

 でも、もう逃げる理由にはならない。


 この力は、たしかに最悪の名前をしている。

 聞いただけで笑われる。


 貴族令嬢としては致命的だ。

 舞踏会で使えば、一生語り継がれる。


 だが、声を奪う魔物の前では、誰よりも前に立てる。


 リリアは大きく息を吸った。


 黒縛獣ブラックスロートが咆哮する。

 同時に、リリアが息を吐いた。


 白い息と黒い咆哮が広場の中央でぶつかる。


 空気が裂けた。


 黒い瘴気が押し返される。

 だが黒縛獣ブラックスロートの力も強い。

 リリアの胸が苦しくなる。

 喉が焼けるように痛い。

 息が途切れそうになる。


 しかも広場の後方で、誰かが鼻を布で押さえながら叫んだ。


「臭いけど助かってる!」

「文句を言うな、鼻より命だ!」

「でも鼻も命の一部だ!」


 リリアは息を吐きながら、少しだけ怒った。


 命がかかっている時くらい、鼻の話をやめてください。


 黒縛獣ブラックスロートはさらに喉を膨らませた。


 リリアの足が後ろへ滑る。


「リリア嬢!」


 カイが横から斬り込む。

 黒縛獣ブラックスロートの首筋に剣が入った。

 だが刃は浅い。

 瘴気がまとわりつき、傷をすぐ塞いでいく。


 魔物の尾がカイを払った。

 カイは剣で受けたが、広場の石畳を滑る。


「カイ!」


「大丈夫です。続けて!」


 ミルカが薬瓶を投げる。

 瓶が割れ、薄緑の煙が広がった。


「喉を守る薬です! 少しだけ持ちます!」


 その煙を吸った瞬間、リリアの喉の痛みが少し和らいだ。


 黒縛獣ブラックスロートの咆哮が再び来る。


 リリアは踏みとどまる。

 白いドレスの裾は汚れ、髪飾りも少し傾いていた。

 それでも、彼女は美しかった。


 広場の人々は見ていた。


 笑われた令嬢が、王都の前に立っている。

 誰もが鼻を押さえたくなるスキルを、誰かを救うために使っている。


 リリアの胸の奥で、何かが強く鳴った。


 頭の中に文字が浮かぶ。


 ――《臭い息》の深度が上昇しました。


 リリアは目を見開く。


 ――一部名称を解放します。


 喉に集まる魔力が変わる。

 ただの白い息ではない。

 花の香りとも悪臭とも違う、もっと古く、もっと大きな何かが胸の奥から目覚める。


 ――《竜の息吹》。


 リリアは叫んだ。


「黙りなさい!」


 吐き出した息が、白銀の奔流になった。


 それはもう、ただの臭い息ではなかった。

 黒い瘴気を裂き、黒縛獣ブラックスロートの咆哮を真正面から呑み込み、喉の袋を内側から震わせる。


 黒縛獣ブラックスロートの声が消えた。


 完全な沈黙。


 広場から音が消えたように感じるほど、魔物の咆哮だけが抜き取られた。


 黒縛獣ブラックスロートは口を開けたまま固まる。

 喉の袋がしぼみ、赤い目が恐怖に変わった。


 カイが踏み込む。


「今です!」


 騎士たちも動けるようになっていた。

 咆哮に縛られていた者たちが立ち上がり、一斉に黒縛獣ブラックスロートへ向かう。


 カイの剣が首筋を深く裂いた。

 騎士団の槍が黒い体を貫く。

 ミルカの投げた薬瓶が傷口で弾け、瘴気を薄める。


 最後に、リリアがもう一度短く息を吐いた。


 黒縛獣ブラックスロートの喉が完全に沈黙する。


 魔物は声を失ったまま倒れた。


 広場に静けさが戻る。


 誰も喋らない。

 誰も笑わない。


 リリアは肩で息をしながら立っていた。

 髪は乱れ、ドレスは汚れ、顔は少し青い。

 それでも、その姿は舞踏会のどんな瞬間よりも眩しかった。


 最初に声を上げたのは、倒れていた小さな女の子だった。


「白薔薇のお姉ちゃん……ありがとう」


 その声をきっかけに、広場に拍手が起きた。


 一人。

 二人。

 やがて騎士たちも、市民たちも、泣きながら手を叩いた。


 リリアは呆然とした。


 拍手されている。

 《臭い息》を使ったのに。

 逃げられるどころか、感謝されている。


 ミルカが駆け寄ってきて、リリアの手を握った。


「すごいです! 今のはもう完全にブレスです! 臭い息なんて名前、絶対におかしいです!」


 リリアは少し笑った。


「そこに気づいていただけて嬉しいです」


 カイも近づいてくる。

 肩に傷を負っていたが、表情は穏やかだった。


「お見事でした」


「ありがとうございます。ですが、カイも無事でよかったです」


「リリア嬢のおかげです」


 リリアは目を伏せた。


 そのとき、王宮側から騎士たちに守られたアルヴィンが現れた。


 少し遅れて来た王太子は、倒れた黒縛獣ブラックスロートと拍手を送る市民を見て、表情を変えた。


 リリアの前まで歩いてくる。


「リリア」


 その声には、先ほどまでなかった柔らかさが混ざっていた。


「よくやった。君の力は、王家にとって必要なものだ」


 広場の拍手が少しずつ止まる。


 リリアは黙ってアルヴィンを見た。


「婚約破棄の件は、一時の判断だった。君も混乱していただろう。私も、あの場では王家の名誉を考えねばならなかった」


 アルヴィンは当然のように手を差し出した。


「もう一度、私の婚約者として戻るといい」


 リリアはその手を見た。


 昨日までなら、その手を取ろうとしたかもしれない。

 王太子の婚約者。

 白薔薇の令嬢。

 誰もがうらやむ未来。


 だが、その手はリリアが笑われていた時には差し出されなかった。

 神殿で婚約破棄を告げた時、彼はリリアの顔を見なかった。

 スキル名だけを見て、リリアという人間を捨てた。


 そして今、力が必要になったから戻れと言っている。


 リリアは微笑んだ。


 王都で最も美しい令嬢と呼ばれた頃と同じ、完璧な微笑みだった。


「殿下」


「何だ」


「私は、殿下の婚約者には戻りません」


 アルヴィンの顔が固まる。


「なぜだ。君の名誉も戻るのだぞ」


「私の名誉は、殿下に戻していただくものではありません」


 リリアは一歩も引かなかった。


「殿下は、私のスキル名を理由に私を捨てました。今は、そのスキルの力だけが欲しいのですね」


「違う。私は王国のために――」


「私ではなく、私の臭い息が必要なのですね」


 アルヴィンの眉が動いた。


「言い方が悪い」


 リリアは小さ溜め息を吐いた。

 ほんの少し、臭い息を混ぜて。


 舞踏会の時よりずっとずっと弱い息。

 だが、王太子の喉を止めるには十分だった。


「――っ」


 アルヴィンの口が動かなくなる。


 周囲がどよめく。

 カイが少しだけ目を見開く。

 ミルカは両手を握って感動している。


 リリアはにっこり笑った。


「失礼な方を黙らせる程度には、上手に使えるようになりましたわ」


 アルヴィンは口をぱくぱくさせる。

 声は出ない。


 リリアは深く一礼した。


 広場のどこかで、誰かが小さく笑った。

 それはリリアを馬鹿にする笑いではなかった。


 リリアは続ける。


「婚約破棄は正式にお受けいたします。殿下、どうぞお元気で」


 アルヴィンは何か言いたそうだった。

 だが、臭い息の前では、何も言えなかった。


 次の瞬間、広場に再び拍手が起きた。


□■□■□


 黒縛獣ブラックスロートの襲撃から3日後、リリアの噂はまた王都中を駆け巡った。


 臭い息の令嬢。

 魔物を黙らせた白薔薇。

 王太子を一息で黙らせた令嬢。

 王家の求婚を断った令嬢。


 ひどい噂も混ざっていたが、以前とは違った。

 笑い話だけではない。

 実際に助けられた市民たちが、リリアを庇うようになった。


「臭いなんて言うな。あの息でうちの子は助かったんだ」

「魔物の声が消えた時、神様かと思った」

「まあ、ちょっと鼻にはきたけどな」

「そこは言うな」

「でも命は助かった」

「鼻もそのうち戻る」


 社交界でも手のひら返しが始まった。


 舞踏会でリリアを笑った貴族たちは、今度は招待状を送ってくる。

 ディアナからは「誤解があった」と書かれた手紙が届いた。

 アルヴィンからは、王家名義の正式な面会依頼が3度来た。


 リリアはすべて丁寧に断った。


 そして、冒険者ギルドへ向かった。


 受付嬢は、今度はスキル名を読み上げなかった。

 代わりに、にっこり笑って登録証を差し出した。


「リリア・ローゼリア様。冒険者登録、正式に承認されました」


 登録証には、名前とランク、そしてスキル欄がある。


 そこにはこう書かれていた。


 スキル《臭い息》――。


 リリアはしばらく黙ってそれを見つめた。


「……やはり、ここは変わらないのですね」


 受付嬢は申し訳なさそうに言う。


「神殿記録に基づく表記なので」


「分かっています。大丈夫です」


 リリアは登録証を受け取った。


「いつか、この名前も笑って見られるようになります」


 横からミルカが覗き込む。


「でも一部名称が《竜の息吹》まで解放されたんですよね? 調べれば絶対に正式名称が別にありますよ!」


「別名が分かるまでは、どう登録されるのですか」


「臭い息です!」


「元気よく言わないでください」


 カイが短く笑った。


 リリアはその笑い声を聞いて、少し驚いた。


「カイ、笑うのですね」


「失礼しました」


「いいえ。笑われるのは嫌ですが、今の笑い方は嫌ではありません」


 カイは少しだけ視線を外した。


 ミルカが二人を交互に見て、にやにやし始める。


「これは今後の観察対象が増えましたね」


「ミルカ。何を観察するつもりですか」


「リリア様のブレスと、カイさんの反応です」


「片方だけにしてください」



 その日、リリアは正式に冒険者となった。


 貴族令嬢としての道は、たしかに一度途切れた。

 王太子妃になる未来も消えた。


 だが、代わりに別の道が開いた。


 笑われても、恥ずかしくても、人を救える力がある。

 自分を捨てた場所へ戻らなくても、前へ進める。


 リリアはギルドの扉を開け、外へ出た。


 王都の空は晴れている。

 風が髪を揺らした。


 その時、カイが隣に並んだ。


「リリア嬢」


「はい」


「私は、あなたのスキルが怖くありません」


 リリアは少しだけ笑う。


「嗅覚がないからですか」


「それもあります」


「そこは否定していただきたかったです」


「嘘は苦手です」


 カイはまっすぐリリアを見た。


「ですが、それだけではありません。あなたは笑われても、人の前に立ちました。私は、その息を怖いとは思いません」


 リリアの胸が、小さく跳ねた。


 褒められているのだろうか。

 きっと褒められている。

 ただ、褒め言葉の中心に息があるので、どう受け取ればいいか分からない。


「それは、令嬢に言う褒め言葉として正しいのでしょうか」


「分かりません。女性に褒め言葉を言うのは得意ではないので」


「たしかに、少し変です」


「すみません」


「でも」


 リリアは登録証を胸に抱いた。


「嬉しいです」


 カイは少しだけ目を細めた。


 その表情は、神殿でリリアを笑った人たちの顔とはまったく違っていた。


 横からミルカが覗き込んでくる。


「つまり、リリア様の息に耐えられる騎士様ということですね!」


「ミルカ」


「はい!」


「最後にまとめ方を間違えました」


 ミルカは口を押さえた。

 カイは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。


 リリアは目を丸くする。


「カイ、今、笑いましたね」


「すみません」


「謝らなくていいです。笑われるのは嫌ですが、今の笑い方は嫌ではありません」


 カイは少しだけ視線を外した。


「では、次から気をつけて笑います」


「そこまで丁寧に笑われると、逆に気になります」


 ミルカがにやにやしている。


「これは観察しがいがありますね」


「ミルカ。何を観察するつもりですか」


「リリア様のブレスと、カイさんの反応です」


「片方だけにしてください」


 ギルドの前で、誰かが小さく囁いた。


「見ろ、臭い息の令嬢だ」


 リリアは振り返った。


 以前なら顔を伏せて、逃げるように歩いていた。


 だが今は違う。


 リリアは白薔薇の令嬢らしく、優雅に微笑んだ。


「はい。失礼な方を黙らせるのは得意です」


 囁いた冒険者は、慌てて自分の口を押さえた。


 周囲から笑いが起きる。

 それはもう、リリアを馬鹿にする笑いではなかった。


 リリアは登録証を握り直し、前を向く。


 スキル名は《臭い息》。


 たしかに、少しばかり気の毒な名前だ。


 だが魔物も、貴族も、王子も黙らせた。


 なら、悪くない。


 リリア・ローゼリアは晴れた王都の道を歩き出す。


 もう誰かに黙らされる令嬢ではない。


 必要なら、自分の息で黙らせる令嬢だった。


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