捌の壱/翡翠堂れんじょう奇譚
粋。
お前が突然いなくなって、俺はもう、どうして良いのか分からなくなった。
身も。心も。空っぽになっちまった気がした。
何も考えられず。ただただ呆然としていた。
それでいて、酷く後悔した。
俺がおいていかれるなど、思いもしていなかった自分の酷さが身にしみた。
俺は粋にこんな思いをさせようとしていたのかと。そう思ったら申し訳なかった。やるせなかった。
先に逝くお前にも、心残りはあったであろう。
共に連れていけない。
残して逝かなければならない。
後悔がないわけがない。
だが残された俺の痛みも酷かった。どうやって、これからの日々を過ごせば良いのか分からなかった。
そんな時だ。
お前の手紙を受け取った。
短い手紙だったけど、俺はそれで救われた。
こうして今、平らな心でつつがなく過ごせているのは、お前の言葉のおかげだ。
※ ※ ※
宮地 圭介さま
貴方の妻で幸せでした。
粋と呼ばれて、幸せな人生でした。
だから貴方にも、幸せだったと言って欲しい。
わたしと共に歩んだ人生で、後悔などなかったと言って欲しい。
次に巡り会える時までも、ずっと幸せだったよと。
いい人生だったよと。また会えたら、きっとそう言って頂戴ね。
わたしの宿る桜を、八田家に託しました。
今頃は大きく育っているはずです。
花が咲いたら、会いに来てね。若葉が出たら、思いだしてね。
冬の桜を見上げたら、次の季節を想像してね。
圭介さん。ずっとずっと、わたしは貴方を見守っています。
だから前を見つめて。貴方らしく生きて頂戴ね。
宮地 粋
※ ※ ※
粋の短い手紙には、別にもう一枚手紙がはいっていた。
粋の書いたもんじゃねえ。
俺が粋に送ったもんだ。
紙面に一文字。
若かった俺の字で、「粋」とあいつの名が書かれている。何度も開いて読んでいたのだろう。折れ目から、すぐにも破れてしまいそうになっている。次に会う時には、二枚まとめて粋に渡してやらなきゃならねえ。
なあ。粋。また会えるんだよな。
もう幾つになったのか。俺は覚えちゃあいない。年を数えるのなんざ、飽きちまったんだ。
こちらで過ごす年よりも、お前に会える迄の年月を数える癖ができちまった。
付き合いの長い友人たちも、今ではとおく離れている。
キヨは嫁さんを連れて引っ越している。それでも時々思いだしたように帰ってくる。
あいつら子どもまでこさえたんだぜ。先に会った時は四人も連れていやがった。河童の世で育てようか。人の世で育てようか。悩むと言いながら、終始嬉しそうだった。
あのイケメンが、すっかりお父ちゃんの顔になっていた。
浩平はいねえ。安心しろ。死んじゃあいねえ。ぴんぴんしてらあ。
けど流石に若いまんま一つ場所で暮らしていると、色々不味いって、八田の本宅にいってるだけだ。あっちはあっちで、舅やら姑やらに気を使って大変らしい。まあ。あいつは阿呆だから大丈夫だろう。
俺は浩平の息子のイチが引き継いだ寺に出入りしている。なにせここにはお前の桜があるからな。
粋。
俺を。
俺の造る器を。
俺の人生を、丸まるもらってくれて、ありがとう。けどまだ終わりにするのは早すぎらあ。
粋。また会えるんだろ? 俺はお前の書いてくれた言葉を糧に待ってんだ。そろそろ顔を見せてくれ。
「粋」
声にだし。
もう一度呼んでやったら、あいつはどんな顔をして笑ってくれるだろう。
「粋」
ああ、早く会いてえ。
会ってまた、お前に惚れて、共にいきたい。
今日は朝から、こまけえ雨が降っている。
せっかく咲いた桜の花のうえにも降っている。
辺りはへんに静かで、雨なのに明るい。桜の花は、まるでほのかな光りに包まれているみてえだ。
俺は桜の幹を背に座り込んでいる。寺んなかは珍しく空っぽ。俺一人だ。
雨は俺の躯を濡らしていくのに、ちっとも冷たさを感じねえ。
それどころか、あったかくて気分が良いくらいだ。
雨に混じって桜の香りも漂ってくる。
桜に匂いなんてねえって言う奴は多いけど、そりゃあ違う。俺にはちゃーーんと分かってる。
お前が側にいると、いつだって匂ってくるんだ。
なあ、本当はすぐ近くにいるんだろう。
ほら、こんなにも。
桜の匂いでいっぱいだ。
ああ、風がでてきた。せいせいとした良い風だ。
桜の枝に吊るした風鈴が風に鳴る。
こいしい。恋しいと鳴っている。
団扇もねえのに鳴っている。
ほらな粋。お前。そこにいるんだろう?
お前がいねえのに、俺の風鈴が恋しいと鳴るわけねえ。焦らさず姿を見せてくれ。
俺に、「おかえりなさい」と。そう言って、笑ってくれよ。
粋。
ああ、なんだかちっと眠くなってきた。
そっと瞼を閉じた俺の顔に。肩に。躯に。桜の花びらが、こまかな雨と共に降ってくる。
粋。
粋。
桜が薫る。ここち良い。
とろとろとした眠りがおちてくる。
まなうらに、お前の笑っている姿が浮かんでくる。
「粋」
口癖のようにお前の名を呼ぶ。
雨が地面をしめやかに叩く。
濡れた下草を踏む、ひっそりとした気配を、ねむりと現実の狭間に感じた。
「ただいま。圭介さん」
やわらけえ声がする。
なあ、誰か。
そこで俺を呼んでいるのか?
俺は閉じた眼を、ゆっくりと開けた。
雨がしとどに桜を濡らしている。
完
原稿用紙換算枚数約255枚。
書き始めた時は「こいし恋しと夜になく」のサイドストーリーとして本編の「壱の壱/ゆうれい奇譚」1本で終わる予定でした。書くと思いのほか楽しく、安易に連載へと舵取りを変えました。その時点でプロットゼロ。書きづらい宮地の一人称に、ウンウン苦しみながらの連載でした。
わたしの連れ合いは、当然の事のように自分が先に逝く。後はよろしく、とわたしへ言います。
確かに女性の方が平均寿命は長いですが、こればかりは蓋を開けてみなければ分かりません。
どちらが先に逝くのか。不慮の事故で共に逝くのか。どちらにしても、愛する家族。もしくは伴侶と別れる時は必ずきます。
自分の方が先に逝くと思っていた宮地が独りになり。
愛する男を置いていく未来を薄々知っている妖の粋がどうするのか。それを書きたかった物語りです。
尚、角川「野性時代フロンティア文学賞」へ応募する為に、前作を一旦削除しまして大幅に加筆をしました。書き足し部分については、なろう友人の暁 乱々さんからの感想を元に組み立てました。暁さん。貴重なご意見ありがとうございました。
もしお時間がありましたらご感想。ご意見等いただけましたら嬉しいです。今後の参考にさせていただきたいと思います。
宮地と粋の物語りにお付き合いいただき誠にありがとうございました。