第七十五話
その日の深夜、予測していた通り魔族軍からの奇襲を受けた。
密集陣形に楔を打ち込むようにミノタウロス、サイクロプス、オーガを主力とする部隊が強襲を仕掛けて来たのだ。
予想していた事なので、すくさま対応が取られる。重量級の敵には厳しいと思われる足場へ誘導しての包囲戦だ。急斜面の上方から谷底へ追い落とすという戦法で優位に立つ。
しかし、ガーゴイルは空から直接掘削作業場へ降り立ってきた。しかも魔物を大量輸送して来たのだ。
魔物達によって中心部は、カオス状態の乱戦になってしまった。しかも学生兵が多い中心部では、魔人に対抗できる者が少なかった。
作戦指令部のテントも襲われ、3Dマップと水晶球を使った監視カメラが破壊されてしまった。
皆は、ロベリア王女を守る事に必死だった。
竜也は、逃げ惑う事しか出来なかった。
イップスの症状とか、そんなものは関係が無かった。たとえそんな症状に掛かっていなくても、魔人の様相を見ただけで逃げ出していた事は間違いが無かった。それ程までに魔人とは禍々しい存在だったのだ。
「タツヤ、大丈夫?」
竜也は恐怖に引き攣った顔で、なんとか頷いた。エレーナに守られ、背後で震えながら戦闘の様子から眼が離せないでいた。まさに地獄絵図だった。
いつの間にかロベリアとも離れ離れになってしまって、気が付けばエレーナとミルドレッドとプリシラだけになっていた。
側面は崖になっていて、落ちれば確実に死に至るような細道を逃げ惑う。
尾根を見上げれば、やっと騎士団の兵士達が駆け付けてくれていて、魔人と応戦を開始していた。
「尾根に行けば、助けてくれるんじゃない?」
「上に行く道が塞がれているわ。今この崖を登る事の方が危険よ。それよりも指揮系統を回復させる事が優先よ」
竜也の提案を、エレーナは即却下する。
「自分の命を守る方が優先では?」
プリシラが、ポツリと呟く。
エレーナは、プリシラをチラリと見やる。無統制での戦闘の方が、より多くの命を失う事になるのは明白なのだ。ここは命にかえてもロベリア王女に合流して、指揮系統を回復させるために尽力しなくてはならないのだが、士官としての訓練を受けていない平民のプリシラには分からないのかも知れないと、睨み付けるに止める。
「たぶんロベリア王女は、魔界の入口へ向かっていると思われます。そこへ向かいましょう」
ミルドレッドの言葉に、エレーナは頷く。同意見だった。掘削現場の穴の中に入れば、後方を気にせず陣を張れる。現在一番安全と思われる場所であり、掘削作業員も守れる一石二鳥の場所だからだ。
細道を進んでいた一行は、魔界の入口へ向かう途中でサイクロプスに遭遇してしまう。エレーナは、予備で持って来ている武器の中から細剣を腰に下げていた。それを抜き放つと躊躇なく突きかかった。
サイクロプスは、棍棒を大上段から振り下ろす。真横は絶壁に阻まれ、反対側は崖になっているので逃げ道は無い。そして細剣では、何十倍もの質量を持つ棍棒を受ける事は出来ない。
勝ったと確信して残虐な笑みを漏らす。しかし、地響きを立てて地面に叩き付けられた棍棒の下には誰も居なかった。
サイクロプスは、訝しそうに眉根を寄せる。
とつぜん背後から、猛烈な突きの連打を浴びて悲痛な咆哮を上げながら向き直る。
エレーナは棍棒が振り下ろされるより早く、股を掻い潜ってサイクロプスの背後に回り込んでいたのだ。そして怒濤の連撃で敵を圧倒する。
竜也の背後にも敵が迫って来ていた。オーガだった。プリシラが竜也を庇うように前に出る。
プリシラはオーガの振るうスパイクドクラブを、スウェーイングの紙一重の見切りで躱してみせる。そして一気に間合いを詰めると、ボディーへ三本の鉤爪が付いた格闘武器で殴り掛かった。ワン、ツー、ローキックのコンボを決めて、素早く飛び退る。
その瞬間に、ミルドレッドが魔法を放つ。雷撃系最上級魔法の【降雷】だった。凄まじい轟音と共に雷が天空より降り注ぎ敵を撃つ。
オーガは、半身を炭化させて崖下に転落していく。
エレーナも、一方的展開でサイクロプスを屠っていた。
「急ぎましょう!」
エレーナの指示に、皆は魔界の入口の掘削現場へ向かって急ぎ足で歩を進める。
それからは幸いにも、敵に会わずに掘削現場に到着する事が出来た。しかし魔界の入口は、魔物に取り囲まれていて激しい攻防が繰り広げられていた。
入口に陣取っている学生兵に、魔人が容赦なく魔法で攻撃を加えていて、それを辛うじて防御魔法で相殺しているという状況だった。
その周りに集まって来た者達が、散発的に攻撃を仕掛けているのだが、いまいち決定打に欠けていた。
「ミルドレッドさん。もう一撃ほど【降雷】の魔法を撃てますか?」
エレーナは、後方を顧みてミルドレッドに問い掛ける。
ミルドレッドは顔面蒼白で、今にも倒れてしまいそうなほど衰弱していた。【降雷】の魔法は膨大な精神力を消費する。侯爵位の魔力をもってしても、連続で唱える事は厳しそうだった。
「あと一回なら何とかして見せるわ」
ミルドレッドは荒い息を吐きながら、それでも決死の覚悟で言い放った。
くやしいが、三年間もの間、学年首席を務めた実力は紛れもなく本物だ。このような非常時においても、まったくぶれる事なく的確な判断が出来るエレーナを、ミルドレッドは認めていた。
「ミルドレッドさんの魔法発動後、魔物の集団に突っ込むわよ」
エレーナの言葉に、プリシラは頷いて見せる。不本意ながらも決死の覚悟を決めたという顔だった。
ミルドレッドは、一匹の魔人に狙いを定めて魔法を唱え出した。この魔法で魔人を一匹でも倒す事が出来れば、あとはエレーナが何とかしてくれると踏んでいた。
凄まじい轟音と共に、天空より降り注ぐ雷が一匹の魔人に直撃した。魔人は半身を炭化させながらも倒れなかった。二・三歩よろけただけで踏み止まる。
そこへエレーナが、疾風の如く突っ込んでいった。魔人が体勢を整えるより早く、細剣で怒濤の連撃を放つ。一匹の魔人を倒すと、その横で【降雷】の魔法の余波に怯んでいる魔人へ突撃する。
さすがに致命傷になるような攻撃は避けられたが、イニシアティブはまだ此方にある。エレーナは、間隔を開けずに攻め続ける。
魔人の武器は普通の大剣なのだが、エレーナの連撃をことごとく弾いて見せた。そして背後に回り込んだプリシラの鉤爪攻撃をも躱してみせる。そして振り向き様に、プリシラに向かって大剣を水平に薙ぎ払った。
プリシラは、鉤爪でその斬撃を防ぐと、吹っ飛ばされながらもその大剣を軸にクルリとトンボを切った。
鉤爪がソードブレイカーの役割を果たし、手首を捻られた魔人は大剣を絡め取られてしまう。
すかさずエレーナが、細剣の連撃を繰り出して魔人を屠る。
散発的に攻撃を繰り返していた周りの兵士達が、ここぞとばかりに一気に攻撃に転じていて、形勢は一気に逆転していた。皆は、次々に魔物を屠って行く。
魔界の入口にたどり着くと、魔法結界を張っていたドリーヌに出会う。
「ロベリア王女は?」
「洞窟の中にいるわ。タツヤ様は早く奥へ!」
おっかなびっくり背後に隠れながらついて来た竜也が、洞窟の奥へ向かうのを見届けると、エレーナは再び前線へ躍り出た。
見渡す限りに魔人の姿は見えない。既にすべて倒されている様だった。一気に片を付けるべく近くにいるミノタウロスに突っ込む。戦斧の一撃を躱して懐に入ると、細剣を突き立てる。
—— エレーナ! 洞窟の奥に来て! 攻撃を受けてる!
突如、竜也から思念が届く。エレーナは戦闘の途中であるにもかかわらず、ミノタウロスに背を向けて魔界の入口へ向かって走り出した。
「ドリーヌ! 『ミノさん』をお願い! 敵が洞窟の奥に居るみたいだから行って来るわ」
エレーナは、ミノタウロスをドリーヌに任せると洞窟の奥へ向かう。
洞窟内は燭台が等間隔に設置してあり、星灯りや松明の灯りから比べると、若干劣るものの光源に不安は無い。
しばらく進んで行くと、奥から乱戦の気配が感じ取れた。慌ただしく此方に向かって駆け寄って来たのは竜也だった。横にはロベリア王女も居る。
「潜伏で待ち伏せされてたみたいなんだけど、どうも標的は僕みたいなんだよ」
竜也は血相を変えながら、エレーナの背後に逃げ込む。見た目は、どこも怪我をしているようには見えない。その事には安堵するが、その代わりにロベリア王女が負傷している様だった。
ミスリルやオリハルコンより硬いアダマンタイト製の板金鎧を着込んでいる彼女が負傷しているとなると、敵の実力は相当な物だと予想できる。気を引き締めて相手の様子を窺う。
洞窟の奥よりユラリと姿を表したのは、魔王クラスの実力があると予測されていた例の三日月刀を二刀流に構えた魔人だった。
相手の実力は、対峙した瞬間に見て取れた。剣呑などという生易しい物では無かった。一瞬にして魂が凍り付くような視線を受けて、エレーナは立ち竦んでしまった。全身の毛穴が総毛立ち、背中に冷たい汗が流れ落ちる。アクィラ騎士団の精鋭から成る小隊十人を、たった一分で全滅させたという話も頷ける程の重圧を放っていた。
「タツヤを早く逃がしなさい」
ロベリアは、エレーナの前に進み出る。淡く緑色に輝く大剣を構えて、魔人と対峙する。
エレーナは、そこでやっと我に返った。もしロベリアがエレーナの前に出なかったら、成す術もなく倒されていた事は間違いなかった。
竜也に袖を引かれたエレーナは、それが合図であったかのように二人して一目散に洞窟の出口に向かって駆け出した。
この国の王女様を置いて逃げる事に抵抗を感じない訳では無かったが、竜也を逃がす事は最優先事項だった。
洞窟を抜けた所で辺りを見回す。幸いな事に魔人は見当たらない。オークやミノタウロスが暴れ回っているが、すべて騎士達に囲まれていて此方に攻撃の手は回って来そうになかった。
とはいっても、切り立った崖が其処彼処に広がっていて逃げ場は無い。尾根まで登って北西か南東へ逃げるべく、竜也の手を引いて急な勾配の崖を登り始める。
「エレーナ! 追っかけて来たよ!」
竜也の言葉に背後を振り返る。ちょうど洞窟から出てきた魔人は、瞬時に竜也を見つけると後を追って来た。
ロベリア王女の安否が気掛かりだったが、今はそれどころでは無かった。逃げきれないと踏んだエレーナは、魔人と対峙すべく有利な地形を探す。
ちょうど間近に足場のしっかりした場所を見つけて、そこへ移動する。おあつらえ向きに相手の位置の足場は脆そうで横は断崖になっていた。
そこで細剣を構えて相手と対峙する。左手には受け流し用の短剣も用意していた。熱せられた鉄のような輝黄赤色に光り輝いている魔剣だ。
竜也を背後に庇いながら魔人と対峙する。
三日月刀の剣筋は、直剣とはかなり異なる。手首の返しだけで反り返った刃が防御を掻い潜ってくるのだ。ギリギリで受けられると思った攻撃を食らってしまう事もあるという受けにくい剣筋の剣だった。その剣の二刀流とはかなり厄介な分類に入る。
とはいえ板金鎧のように身体の大半が鎧われている状態なら、斬撃特化型のこの剣は脅威ではない筈なのだが、ロベリアの様子を見る限りそれも怪しく思えてくる。板金鎧より防御力の劣る板金の胸鎧なら尚のこと不安が募る。
一方、レイピアと短剣の二刀流は、実は基本通りの形なのだ。ただ、今までは雑魚を相手にしていたので受け流しの必要が無く使っていなかっただけだった。
「助太刀するわよ」
近くに居たジェレミーとセシルが、加勢に来てくれた。
セシルは、いきなり問答無用で【火炎球】を打ち噛ます。着弾と同時に広範囲に渡って炎の嵐を巻き起こす火系の上級魔法だ。
足元に着弾させて、その爆風で側面の崖下に吹き飛ばそうとした様であったが、魔人はテニスボール程の大きさの炎の玉を、素早く剣を地面に突き刺して片手で掬い取るように受け止めた。
そしてそのまま握り潰す。まるで少々熱い物にでも触ってしまったという感じで、手の平をヒラヒラと振る。しかし全く火傷等はして無さそうだった。
エレーナは、呆気に取られてその様子を見やる。そんな事で魔法の具現体である炎の玉を握り潰す事は不可能なのだ。
ジェレミーが、片手剣と盾を構えて魔人へ突っ込んでいく。エレーナも側面へ回り込みながら間合いを詰めていった。
本来、バックラー以外の盾での防御方法は、構えた肩口から無闇に動かさないのが基本である。防御技術に長けている者ほど盾は肩口に固定されている。動かすにしても、せいぜい十センチ程なのだが、三日月刀のような湾曲した刃を持つ剣の場合は異なってくる。
しかし、すべての武器への精通を基本としているこの国の教育プログラムで徹底的に鍛えられた皆が、こうもあっさりと殺られていくというのは腑に落ちない。
エレーナは、魔人の剣筋を見極めようと、ジェレミーと魔人の太刀筋に眼を見張る。
ジェレミーは、左右からの攻撃を右側は剣で、左側は盾で弾き返す。薄い刃の三日月刀を相手にする場合、受け流さずに強引に弾き返して懐に飛び込んで行く方が戦術的には有利になる筈なのだが、さすがに懐には入らせては貰えない。
エレーナが側面から連撃を浴びせるが、ことごとく防がれてしまう。どうしても体勢を崩せないでいた。
しかし圧倒的な強さという訳では無かった。取り囲んで交代を繰り返していけば倒せるのでは? と思いかけた時にロベリアが洞窟より顔を出した。
「油断するな! 奴の剣は魔剣だぞ!」
ロベリアが叫ぶ。丁度その時、三日月刀を受けたジェレミーの盾を掻い潜って刃があらぬ曲がり方をして首を襲った。
ジェレミーは首筋を切られて側面に転がった。血が結構な勢いで噴き出す。瞬時に自ら傷口に手の平を宛がい、治癒魔法を唱えだす。命に別条はないようだが戦線離脱は確定的だった。
エレーナは、側面からジェレミーを庇うように回り込む。有利な足場を取られる訳にはいかなかった。傾斜と大きな石がゴロゴロと転がる不利な地形に足止めし、そして二人がかりでも倒せない相手なのだ。良質な足場を与える事は死を意味する。
ロベリアが此方に向かって来ようとしているみたいだったが、ふらつく身体で思うように足が動いていなかった。
そんなロベリアを、スティーブンは必死で宥めようとしていた。護衛についている者達も、王女の様相に狼狽えるばかりだ。
ロベリアは治癒魔法の副作用で、ろくに動く事が出来ないのだと察する。動かない身体で必死に前へ進もうとしながら、竜也を助けに行けと護衛の者に怒鳴っていた。
そんな様子を横目で見やりながら、エレーナは用心深く魔人と対峙する。どこまで刃が曲がり込んで来るのかが不明の為、受ける事は危険だった。
セシルが素早く側面へ回り込む。【氷の矢】を散発的に放って牽制をする。
その援護を受けて、エレーナは魔人に突っ込んだ。受け流す事は出来ない。避ける事はもっと難しい。引いて有利な足場を取られる訳にはいかないとなれば、突っ込むしか無かった。自慢のスピードを生かして先制に出る。
魔人は、エレーナの攻撃をことごとく避けてみせる。足場の悪さを感じさせない華麗な足さばきだ。そして完全に攻撃を防ぎ切ると、三日月刀を袈裟懸けに斬り下ろした。
エレーナは、バックステップでその斬撃を躱そうとする。しかし魔人の素早さも相当なものだった。
完全には避け切れないと悟ったエレーナは、止む無く短剣で受け止める。刃が、あらぬ曲がり方をして襲って来るのではないかと恐怖したが、普通に受け止める事が出来た。
そういえばジェレミーとの戦いの時も、毎度あらぬ曲がり方をしていなかった事を思い出す。一定時間たたないと使えないのか、または魔力等をある程度補充しないと使えない技だと推測する。
それなら、その技が使えない今の内に短期決戦を挑むべく果敢に突っ込む。スピードでは魔人を上回っているので、イニシアティブは取れると踏んでいた。
しかし魔人は細剣での突きに対して、カウンターで右上段から三日月刀を振り下ろしてきた。肉を切らせて骨を断つ戦法だった。
エレーナは、不用意に深く踏み込み過ぎていた。完全に戦略ミスだった。魔剣に気を取られていて、魔法戦士の戦い方の基本中の基本である中間距離での剣裁きを失念してしまっていた。
左手に持っている短剣で受ける事は出来ない。このまま特攻しても、魔人に傷を負わせる事は出来ても自分の命は無くなる。細剣で受けたとしても、左手側から振るわれるであろう三日月刀の威力を短剣で受け止められる自信が無かった。
それでも生き延びる手段として、細剣で右上段から振るわれる三日月刀を受け止めた。予測通りというか、セオリー通りの左側面から腹部を薙ぐ一閃が迫り来る。手首を返さないと受けられないという一番受けにくい箇所だった。
短剣で受け止めて踏ん張るが、手首が返っているので力が出せない。そして魔人の力はある意味予想通りだった。
短剣は簡単に押し切られ、腹部に易々と三日月刀の刃が食い込んだ。エレーナは、その場に頽れる。
大上段に振り上げられた三日月刀を、成す術もなく見上げる。
側面からセシルが大剣を構えて突っ込んで来る。しかしセシルの剣の腕は、そんなに上手くはない。学院の地下迷宮程度の敵ならば問題は無いが、魔人には通用しない。簡単に弾き飛ばされる。
そこへ、とんでもない伏兵が現れた。竜也だった。なんと彼は雄叫びを上げながら武器も持たずに素手で殴り掛かったのだ。
一瞬、魔人の眼が驚愕に見開かれる。なにか罠があるのでは? と訝しむ。それ程までに竜也の行為は奇行であり蛮行だった。
—— エレーナは死なせない!
竜也の思いは、それだけだった。なにも策は無かった。ドリーヌに習っていた自然体の構えや、拳の突き方などあった物では無かった。子供の喧嘩の如き猫パンチで魔人に殴り掛かる。
魔人は半歩下がってその拳を避けると、余裕を見せて肩を竦めてみせた。そして無慈悲に袈裟型に三日月刀を振り下ろした。
しかし竜也は、それでも止まらなかった。エレーナが敵わない相手に勝てる見込みは無い。それなら道連れにしてやろうとしたのだ。
竜也は、肩口に食い込む刃の激痛に耐えながら魔人を捕まえた。突撃の勢いのまま、断崖になっている方の斜面へ押しやる。
魔人は、竜也の予想外の行動に不意を突かれて後方へ後退る。足場が悪い事も起因して、踵を少々大きな石ころに引っ掛けてしまった。倒れ込む二人は、そのまま断崖へ身を躍らせた。
断崖よりダイブした竜也を、エレーナは必死で捕まえようとする。指がかすかに触れ合ったが、竜也を捕まえるまでには至らなかった。
空しくエレーナの手をすり抜けてしまった竜也の身体は、魔人と共に暗い奈落の底へ吸い込まれていく。
「タツヤーーー!」
エレーナが絶叫する。帰還指示を出さずに竜也を危険な目に合わせてしまった前回と、同じような過ちを繰り返す訳にはいかなかった。ただちに帰還命令を出して竜也を呼び寄せる。
竜也は帰還命令を受けて、谷底へ激突する寸前にエレーナの元へ召喚された。
「なんて無茶をするのよ!」
エレーナは竜也を抱き留める。頽れる勢いを殺しながら、そっと地面へ横たえた。肩口に手の平を宛がい治癒魔法を唱えだす。
竜也は、うっすらと眼を開けた。エレーナの叫び声は聞こえていた。帰還命令を受けた事も感じ取っていた。エレーナの元へ帰れた事はうれしかったが、どうやら治癒魔法が間に合わない事を感じ取っていた。
竜也は、肩口に宛がわれているエレーナの手をそっと掴んだ。
「エレーナ……」
「いやよ!」
どうやらエレーナも、竜也の状態を把握している様だった。
「絶対にあきらめない! 絶対に命を繋ぎ止めてみせるわ!」
エレーナは、涙を必死にこらえて治癒魔法に集中していた。意志の強さが魔法の強さに直結する。奇跡は起きるのではない、起こすのだ。絶対に助けてみせるという強い信念をもって諦めてはいなかった。
「エレーナが無事なら、それで良いよ。僕はもう助からない。だから自分の傷を治して……」
エレーナの腹部の傷は、致命傷となる程では無かったが、放って置いたら命に係わる程には重傷だった。
「いやよ! タツヤが死んだら私も死ぬわ! だから絶対生きてやるって気概を持って!」
竜也は苦笑いを漏らす。漏らしたつもりだったが、顔の表情も上手く操れなくなっていた。かすむ眼は、急速に光を失っていく。エレーナの涙に暮れた顔も、徐々に見えなくなっていった。
エレーナを守る事は出来た。そして魔王と思われる魔人も倒す事が出来た。自分の役目は終わったのだ。
竜也は、ゆっくりと眼を瞑る。急激に強烈な睡魔にでも襲われたかのように意識が遠のいていく。
—— エレーナ……。ごめん……。
エレーナの手を掴んでいた竜也の手が、力なくその場に横たわった。
「タツヤーーーーっ!」
エレーナは、竜也の手を取ると縋り付く。竜也が死んでしまった事が信じられなかった。意識を向けると、いつも傍らに感じられた思念が感じ取れない。
必死で竜也の思念の残滓を感じ取ろうと中空に視線を彷徨わせる。竜也の魂を引っ掴んで、無理やりにでも肉体に戻してやると本気で考えていた。
その時だった。突然、竜也の身体が光り輝きだした。
いったい何が起こっているのか、エレーナにも分からなかった。茫然と、その様子を見守る。
皆が呆気に取られている最中、光と化した竜也の身体は、爆散するように弾け飛んだ。シャランシャランとクリスタルを打ち合わせるような音を響かせて地面に散らばった光の破片は、うっすらと半透明になってやがて消えていった。
皆は唖然とその様子を眺めていた。エレーナも例外では無かった。手の平に残った光の破片が、最後の抵抗を試みるように一瞬だけ淡く輝いた。竜也の心だった。万感の思いが伝えられる。その欠片もやがては輝きを失い、ゆっくりと見えなくなっていった。
エレーナは、涙で滲む視界の中、いつまでもいつまでも竜也の心が最後まで残っていた手の平を眺め続けていた。




