第六十話
あれから竜也は魔法語の発音の練習を、四時限目が終わるまで延々とやらされる羽目に陥ってしまった。ネイティブな発音というものは、竜也にとって非常に難しい物だった。英語をすべて片仮名に変換して、日本語として覚えてしまっているからだ。
ロベリアは、竜也のどうしようもない発音に、どうしたものかと頭を抱えていた。見立てでは正確な発音が出来たとしても、魔法が発動する可能性は限りなくゼロに近いと思われる。しかし一パーセントでも望みがあれば、それは遂行しなければならなかった。
暗雲が漂う前途多難な行き先に、内心ため息を吐いていると竜也が目前までやって来た。
「【全快】の魔法の練習を、させてくれるんでしょう?」
竜也は、期待を込めた熱い視線をロベリアのおっぱいに注いでいた。
「ええ、構いません。ただし胸に触りたいという意識よりも、傷を治そうという意識が必ず勝るように心掛けて下さい。そうしないと発動する筈の魔法も発動いたしません」
竜也は、ロベリアのおっぱいを見つめながら上の空で頷く。この時点で魔法は発動しそうになかった。
ロベリアは、内心ため息を吐く。魔法の発動は望み薄だが、竜也を虜にする事は可能だろうと予測する。
「私の発音を真似て【全快】の魔法を唱えて下さい。胸の辺りが淡い光に包まれれば、魔法が発動している証拠です」
ロベリアは、自分の胸に手を当てて魔法を唱える。胸の辺りが淡い光に包まれる。
竜也は、その様子を細大漏らさず観察していた。ロベリアが胸元から手を下ろすと、入れ違いになるように竜也は手を上げた。自分の欲望を高めるかのように、必要以上に時間を掛けて、ゆっくりとロベリアの胸に手を伸ばす。
ロベリアは、徐に自慢の爆乳を突き出した。竜也が生唾を飲み込む音が、シーンと静まり返っている魔法実験室内に響き渡る。
竜也は震える手で、ロベリアのおっぱいに触れた。想像に違わぬ感触が手の平に返ってくる。思わず指先に力が入る。柔らかさも極上だった。
魔法の事など忘れて、思わずむしゃぶり付きそうになったその時だった。魔法実験室の扉が荒々しくノックされた。下界の音は遮断されていてもノックだけはちゃんと聞こえるような仕組みになっているのだ。そして誰が来たのかは、考えるまでもなく分かりきっていた。
竜也とロベリアは大袈裟な程、仰天して飛び上がった。
返事も待たずに荒々しく扉を開けて魔法実験室に入って来たのは、エレーナだった。彼女は、メデューサの邪眼も斯くやという視線で二人を睨み付ける。
竜也は、恐ろしすぎて視線を合わせる事が出来なかった。一気に流れ込んできた怒りの思念は、グツグツと煮え滾った怨念にも似た凄まじい物だった。こんな物を浴びせられた日には火傷どころでは済まない。
竜也は流れるような動作で、その場に土下座をした。
「すみませんでしたっ! つい魔が差してしまいましたっ!」
床に額をこすり付け、謝罪の言葉をエレーナが何か口を開く前に言い放つ。
エレーナはその様子を、すべての物を石に変えてしまいそうな勢いの眼で見やる。次にロベリアに視線を向けた。
ロベリアは悪びれた様子もなく、堂々たる態度でエレーナと対峙していた。
「タツヤは私のものです。誘惑などは一切やめて下さいと、昨日お願い致しましたよね? これはどういう事ですか?」
凄い剣幕でロベリアに詰め寄る。しかしロベリアは涼しい顔で、その剣幕を受け流していた。
「第一に、私はその返答を返していません。私もタツヤ殿が欲しいのです。この国を救う救世主となり、そして他国との戦争にも打ち勝ってレストーラ大陸を総べてもらい、ゆくゆくは私と結婚してもらおうと思っています。子供は、三人は欲しいですね。跡取りの男子は絶対条件ですが、最初は……」
「ちょっと待って下さい。話が明後日の方向へ流れています」
エレーナは、臆面もなく暴走した未来設計を披露しだすロベリアを止めに入る。図らずも、気勢を殺がれてしまった。
「第二に、私はタツヤ殿を誘惑していません。思念で私達の会話を聞いていたのですよね? でしたら私が誘惑など一切おこなっていない事が、分かっていると思いますが……?」
エレーナは、言葉に詰まる。確かにロベリアは、誘惑の言葉を口にしてはいない。竜也の方が、一方的にその気になっていたのだ。
エレーナは、炎を吹き出しそうな瞳を竜也に向ける。
竜也は、いまだに床に額をこすり付けて、土下座をしていた。絶対に眼を合わせない気でいるようだ。ただひたすらに、この場をやり過ごす事だけを考えている。内心、涙が出てくる。
再びロベリアへ視線を向ける。
「しかし【全快】の魔法の練習を許可しましたよね? 初級の【回復】の魔法さえままならない状態では、最上位である【全快】の魔法は無理だと思わなかったのですか?
それにロベリアさん自身の胸を貸さなくても、タツヤ自身の胸で魔法の練習は出来た筈です。私には、胸を触らせて虜にしようという魂胆にしか思えませんでした」
「魔法発動の第一の条件は、強い意志です。少々発音がおかしくても、抑揚が怪しくても、絶対に魔法を発動させてやるという強い意思があれば、魔法は発動します。その点で、タツヤ殿が【全快】の魔法の練習がしたいとおっしゃるので、【回復】よりも魔法発動の可能性があると判断したまでです。エレーナさんの言いようは、胸の無い者の僻みにしか聞こえませんよ」
どこまでも人を小馬鹿にしたような言い種を口走っているロベリアに、エレーナはブチ切れた。
フルスイングの平手打ちが、ロベリアを襲う。
竜也は土下座状態から、その気配を察知すると慌てて飛び起きた。目にも止まらぬ速さでロベリアを襲うエレーナの右手首を引っ掴む。あまつさえ、その場に押し止めた。
これにはエレーナもロベリアも驚きの色を隠せないでいた。ロベリア自身、わざと避ける気は無かったのだが、避けようと思っても避けきれない程のスピードだったのだ。エレーナの心を読んでの対応だとしても至難の業だった。
「エレーナ、落ち着いて!」
竜也は、暴走するエレーナを抱き留めると、ロベリアとの距離を取った。
「悪いのは僕なんだ。責めるべきは僕だよ」
—— それにロベリアさんに手を上げるのは不味いよ。不敬罪で何らかの処罰が下る事は間違いないよ。
竜也は、途中から思念での会話に切り替える。
エレーナは、竜也の言いたい事を察して一旦肩の力を抜く。不敬罪などという罪はこの国にはなかったが、学院からの処罰は免れない事は確かだった。
「タツヤ。ちょっと此方に来なさい!」
エレーナは、竜也の服の袖を引っ張って魔法実験室を出て行く。
ロベリアは、その様子を憮然たる面持ちで見つめていた。あと一歩のところで、竜也を手中に収める事が出来た筈だった。元々そう大層な計画を立てていた訳では無いのだが、思い掛けずそのような経緯になり、これまた偶然とも思えるような出来事が起きて竜也を逃がしてしまった。
ロベリアは、しばし茫然と誰も居なくなった魔法実験室の中央で立ち竦んでいたが、やがて肩を竦めて大きく息を吐いた。
そして先程の竜也の行動を思い返して見る。学院一のスピードを誇るエレーナの平手打ちを止めたあの動きは、確実にエレーナの上をいっていた。戦闘時のヘッポコ振りが嘘のようである。
やはり謎だらけの異世界人だ。この異世界人が本当はどのような存在なのかを、エレーナに言ってやりたいという衝動が湧き起こる。しかし、それは邪道というものだ。そのような事をしても竜也が此方になびく訳では無い。
まったくもって思い通りにならない現状に、今更ながら憤然たる思いが湧き起こる。
ロベリアは、むしゃくしゃする心のままに使い魔の妖精竜を呼び出した。
ソウイチロウは、何の命令も無くても心得たように、竜也の後を付けるために魔法実験室を出て行った。
ロベリアの最近のストレス解消法は、竜也の私生活を覗き見する事だった。剣の修業や標準語の勉強をしているかと思えば、意味不明な奇行に走る様子が面白いのだ。
もはや完全なストーカーと言っても過言では無かった。




