05. 往昔・世界の歪み
獣が駆けた距離を徒歩で戻れば、更に時間が掛かるのは自明の理だ。天幕の近くまで来てから天馬を帰還させるべきだった、とアイシアは後悔する。とは言え、何とか仲間の精気を感じ得る位置まで戻った。彼女は短く安堵の息を吐いた。
ただ、問題はこの先どうするか、だ。アイシアは上官の命令を無視した。カルクリフの脅し通り、叱責だけでは済まされまい。
アイシアは足を止める。
(一旦隠れて様子を見よう。気配の隠し方は習った。伯母様に通じるかは分からないけど……。でも、やらないよりはましよね)
そう考えつつ、アイシアが引き攣った笑みを浮かべた時だ。
「ふふ」
女の声であった。反射的にアイシアは周囲を見回したが、何者も視界に入らない。当然だ。付近に民家はなく、ここへ派遣された部隊に女性はカルクリフとアイシアしか在籍していない。そして、アイシアは笑顔ではあっても声を出してはおらず、カルクリフは遥か先にいる。
存在しない筈の声――。アイシアの身体から血の気が引く。次の瞬間、突如瘴気を伴った黒煙が側方より噴出し、彼女を覆った。
「何!? ……むぐっ!」
逃げる間もなかった。アイシアは目を塞がれ、星明かりすら見えなくなる。けれども、押し寄せる足音は耳に届いた。その足音の主が魔物であると直感し、アイシアは死の訪れを悟る。そこで何故かアイシアの脳内に愛する父の声が響いた。
――アイシア、私の大切な宝物よ。生まれて来てくれて有難う。お前より美しい者は世界中の何処にも存在しまい。おお、おお、愛しい我が娘。私は斯くあるお前が誇れる父に必ずや成ってみせようぞ。だから、どうか何時までも側に居ておくれ。
アイシアが未だ幼かった頃、ロジェスより掛けられた言葉だ。その記憶を彼女は決して忘却しない。何より大事な思い出故に。
(お父様……。助けて、お父様!)
闇の中にロジェスの幻が浮かぶ。アイシアは無我夢中で彼に向かって手を伸ばした。だが、彼女の手は何処にも届かず――。
――ぐしゃり。
水気を帯びた耳障りな音が立った。ややあって、声がする。
「あ、あら?」
上擦った呟きを零したのは、先程笑声を発したのと同じ存在だった。
◇◇◇
突如、噎せ返る程の瘴気が黒雲の山から噴き出し、それに応じて雲花の大地が震えた。不寝番の兵士は天幕に向かって叫ぶ。
「隊長!」
呼ばれたカルクリフは身形を整えつつ天幕を出る。
「分かっている。皆、準備せよ!」
別の天幕で眠っていた精鋭達も異変を察知して既に覚醒しており、隊長の号令を受けて慌ただしく動き始めた。
そうした中、彼女は現れる。黒い泥を頭から被った様な姿を目の当たりにした一同は、思わず足を止めた。
「アイシア……」
渋面に変わった後、カルクリフは光神より下賜された剣を抜く。そして、切先を変わり果てた姿となった姪へ向ける。
「冥界へ渡る前に語るが良い。如何なる理由でお前は今の姿となった? 誰がお前を斯様な状態にした?」
しかし、アイシアは言葉らしい言葉を発しない。か細い呻き声を漏らすのみだ。頭の中まで魔物に浸食され、自我も知能も失ってしまったのだろう。カルクリフは苛立ちを露にした。
「答えよ、アイシア!」
「あ、あああ……!」
斯くなる状態であっても一応他者の話は通じているのか、或いはただ音に反応しただけなのか、アイシアは一際大きな声を上げて応じる。その様が相手を揶揄っている風にも見えて、カルクリフは一層不快感を募らせた。
そこで彼女の頭を冷やす意図も込めて、兵士の一人が質問する。
「隊長はあの現象が人為的なものとお考えで?」
「前例がないからな。理屈も分からん。無論、それだけで自然現象の可能性を否定することは出来ないが……」
兵士の試みは成功し、カルクリフに僅かながら冷静さが戻る。すると、別の兵士が口を挟んだ。
「まず真っ先に何かしらの〈術〉が使われたと考える、ですか。隊長の弟君の仕業でしょうか?」
「だとしたら、帰還後、即刻叩き斬る」
そうカルクリフが宣言した直後だった。アイシアが被った泥が動きを見せる。表面が泡立ち、泡の幾つかが不自然に大きくなり、やがて弾けて魔物の雛を産み落としたのだ。地面に転がった雛達は、体勢を整えつつ急速に成長していく。
カルクリフの一番近くにいた兵士が、普段より低く掠れた声で「隊長」と呼び掛ける。片やカルクリフは歯軋りせんばかりに一層顔を顰めた。
「《顕現》世界はアイシアが《理》に背いたと判定したのだな」
吐き捨ててから、ふと考える。暫くして、彼女は思い至ったことを口に出した。
「アイシアの件、ロジェスの仕業ではないのかもしれない」
「どうしてです?」
「あの山の形をした魔物の群れだ。一箇所にあれ程大量の魔物が発生し、しかも同じ場所に留まり続けているのが、奇妙に思えてならなかったのだ。しかし、原因が今のアイシアと同じなのだとしたら? あの山の中に核となる誰かが倒れているのだとしたら? 小賢しい足の引っ張り合いでは収まらない。この技術は世界を揺るがす大罪だ。ロジェスの肝はそれを成せる程に据わってはいない。万一、過失でそうなったのだとしても、現地に愛娘を送り込みはしないだろうよ」
質問者は「成程」と相槌を打って続ける。
「一度退却して、此度得た情報を確実に天神様の許へ持ち帰った方が良さそうですね」
「ああ」
「アイシア様はどうされます?」
「不憫だが、斬らねば撤退すらままならぬ」
光神の下賜剣が輝きを増し、アイシアを囲う魔物達が慄く。質問者である兵士は躊躇の色を出すも、直ぐに「畏まりました」と答えて武器を構えた。
他の兵士も軒並み戦闘態勢に入る。ところが一人、集団の端にいた者だけが別の行動を取った。彼は〈術〉を使い、周囲を照らす。魔物を刺激しない様に、とカルクリフが禁じていた行為だ。にも拘らず、敢えて命令に逆らった末に彼はこう告げる。
「隊長、御覧下さい! 山が動いています」
同僚の言葉に釣られ、兵士達は一斉に黒山へと顔を向ける。カルクリフも横目で同じ方向を見て、舌打ちをした。
「忌々しい不具合共め」
「如何されますか?」
「止む無し、だな。私が奴等を引き付ける。お前達は天宮へ行き、上の指示を仰げ」
「お一人で残られるのですか? 幾ら隊長でも流石に――」
自殺行為だ。カルクリフは確かに白天人族切っての戦士だが、対応可能な物量にはやはり限度がある。山と誤認する程の群れと魔物の源泉と化したアイシア、その両方を押し留める力は彼女にはない。しかしながら、カルクリフは命令を覆さなかった。
「優先順位を間違えるな。我々人族は何の為にある?」
短い間、一同は沈黙する。だが、ややあってこの部隊でカルクリフに次ぐ地位にある兵士が口を開いた。
「至急、応援を呼んで参ります。戻るまで、どうか御無事で」
その言葉にカルクリフは首肯で返した。
斯くして両者は別れ、辺りに人の形をした者はカルクリフとアイシアのみとなる。
(無事帰還出来れば良いが……)
視線を前方のアイシアに向けながら、カルクリフは遠ざかっていく部下達の精気を背中で探った。魔物達は彼等を追わない。黒山はカルクリフへと向かっているし、周囲にいる魔物も目のある個体は全てカルクリフを凝視していた。
(一先ず私に狙いを定めたか)
魔物達は部隊の中で最も強いカルクリフか、彼女が握る神の剣を警戒しているのだろう。お陰でカルクリフの死期は早まったが、部下を無事に帰還させられる確率が上がり、彼女は安堵した。
「お、あ」
唐突にアイシアが明瞭な声を発する。カルクリフは意識を前方へ集中させた。程なく――。
「お、と……おと、さ、お、と……おと……」
アイシアが続け様に音を吐いた。聞き取り辛く理解し難い。けれども、カルクリフには相手の言わんとすることが直ぐに分かってしまった。
――お父様。
アイシアが真面であった頃の声が、カルクリフの脳裏に形作られた。
カルクリフは気付く。魔物はアイシアの意志に応じて動いている。愛する父の敵を排除したいという思いに。カルクリフや光神の下賜剣を危んだ訳ではなかったのだ。
愛情、憐憫、嫌悪、憤懣――様々な思いが込み上げ、カルクリフは涙ぐんだ。
「ああ、何て馬鹿な子!」
それが彼女の最期の言葉となった。
◇◇◇
一連の出来事を夜空に潜みつつ眺めていた黒幕は、呆気に取られた。
「あら? あらららら? まさか、壊れちゃった? たったこれだけのことで?」
口元に拳を当てて彼女は考え込む。初めて出会った人族は、彼女の想定を遥かに超えて弱かった。精霊でも彼等に及ばない者は存在するので、最弱とまでは言い難い。けれども、事前情報と噛み合わない。「人族は神族を手助けする為に作られた」と彼女は教わっている。尚且つ今迄の遣り取りから、足下にいるのは戦闘に特化した者であると考えられる。にも拘らず、この体たらく。果たして人族は己が役割を正しく熟せているのだろうか。貴重な資源を無駄に食い潰しているだけではなかろうか。
そこまで思い至って、彼女は「あっ」と声を上げた。
「ひょっとして、反逆防止の為に敢えて弱く作ったとか? ええ……それで魔物にすら負けるんじゃ、元も子もないではないの」
艶のある唇から小さな溜息が漏れる。
「ちょっと悪いことしちゃったかなあ。死なせるつもりはなかったのだけれど……。ご免なさいね。あら――」
暫し魔物の群れを見詰めた後、彼女は腕を組み微笑む。
「意外。あの子、まだ生きてるのね」
嬉しそうに呟くと、彼女は空に溶け入る様に姿を消した。
◇◇◇
鈍く黒光りする泥に包まれながら、アイシアはぼんやりとその柔らかな表面を眺めていた。魔物達が蠢くのに応じて、ただ揺さぶられているだけの状態だ。
魔物達はアイシアを襲わない。同胞と思い込んでいるのか、或いは存在を認識出来ないのか。ともあれ、アイシアは元より朦朧としていた意識を更に遠のかせ、次第に魔物の群れへと同化していった。
だが突如閃光が走り、アイシアは泥に取り込まれていない方の目を開く。
「あ?」
そう彼女が声を発した直後、雷音が数回響き渡る。やがて視界を塞いでいた泥が流れ落ち、赤い空が姿を現した。その空には小さな影がぽつんと浮かんでいる。
(ああ……)
朧気な像しか宿さなかったアイシアの目が、ゆっくりと正常な状態に戻る。空に浮かぶ影は遠く暗く、正確な形を確認することは出来ない。しかし、正体は薄々分かった。
(ひかり……とてもとても、きれいな、ひかり……)
彼は天神ポルトリテシモ――天人族の創造者にして主神である。
天馬に跨り、弓を携え、天神はアイシアを静かに見下ろす。無骨な手に握られているのは、雷を放つ〈神術〉の弓だ。天神はこれを用いて魔物達を追い払い、アイシアを解放したのだ。
アイシアの身体から力が抜ける。程なく、彼女は意識を失った。




