彼らの日常
「班長、お先に失礼します」
そう言って一礼し、倉庫から出ていくひとりの青年。
古株の社員やバイトたちは、彼の背中に冷たい視線を送っている。
「あの北野豊って、なんか薄気味悪いんですよね」
作業服姿のバイトらしき若者が言うと、スーツ姿の中年男が笑いながら応じた。
「いや、あいつは本当に変なんだよ。こないだ、帰り際に後ろから近づいて行ったんだよ。そしたら、バッと振り返ってさ。イッちゃってる目で、俺を睨みつけてきたんだよ。あいつ、薬かなんかヤッてんのかもしれねえな」
「マジッすか? 本当にヤバいっすね」
「いや、薬くらいならいいけど、マジで人殺したりとかしてねえよな。女の子を何人も殺してたりとか」
別のスーツの男が言い、皆はゲラゲラ笑った。もっとも班長は、申し訳程度に否定する。
「いやいや、さすがにそれはないでしょ」
◆◆◆
北野は、暗い目で倉庫を出ていった。
自分がどんな風な目で見られているか、おおよその想像はついていた。二年前なら、こんなバイトはさっさと辞めていただろう。
だが、かつて異世界の戦場を生き延びた北野にとって、この倉庫のアルバイトなど何でもなかった。
そう、どんな職場でも……地獄よりはマジなのだ。
まず北野が向かったのは自宅ではなかった。彼が今いるのは二階建ての一軒家だ。ドアホンを押すと、疲れたような表情の中年女が出た。
「あ、どうも。由紀夫くんいます?」
北野は、できる限り愛想のいい顔を作り尋ねた。だが、中年女の態度は素っ気ないものだった。
「また来たの。いるから勝手に入って」
歓迎されていないのは明らかだった。それでも、北野は作り笑いの表情を崩さず入っていく。二階に上がり、ドアをノックした。
「おい山下、入るぞ」
「あ、ああ、入ってよ」
言葉の直後、ガチャリと鍵の開く音がした。北野は、部屋の中に入っていく。
殺風景な部屋だった。最低限の家具しかなく、まるで刑務所の独房のようである。
ベッドの上でスマホをいじっているのが、北野の戦友である山下由紀夫だった。青白い顔で痩せており、顔には覇気がない。無気力、という言葉を無理やり擬人化したような感じの男だ。
「お前、外出してんのか?」
北野が尋ねると、山下は表情を歪めて頷いた。
「ああ。こないだ、近くのコンビニに行ったよ。二年ぶりだ」
「おお、やったじゃないか。で、なんか買えたのか?」
「いや、何も買えなかった」
「えっ、なんでだよ?」
「コンビニ入ったらさ、金髪でつけまつげしたバイトの女の子がニコニコしながら、いらっしゃいませ! なんて元気よく言ってきたんだよ。俺、それ見たら怖くなって逃げた……」
そこで、山下の顔が歪む。
「あいつらって、シャイガン族に似てるんだよ。顔の形も髪の色も違うのに、すげぇ似てるんだ」
「何となくわかるよ」
北野は苦笑した。
ギャルと呼ばれる人種と、彼らが遭遇したシャイガン族……確かに、似た雰囲気がある。どちらも、笑いながらグイグイ接近してくるところがある。
ただ、問題はその先だ。シャイガン族は、狂喜乱舞しつつナイフを取り出し、喉をかき切ろうとしてきた。
「シャイガン族に襲われた時、お前が至近距離で魔法をぶっ放してくれた。そのおかげで助かったけど、女の顔面が破裂したんだよな。血や脳みそが、俺の顔面に降り注いだ。なのに他のシャイガン族の女は、笑いながら襲ってくる……あれを思い出したんだよ」
山下は、今にも泣きそうな顔で語った。対する北野は、彼の肩に触れる。
「そんなこと思い出すな。まったく、RPGみたいに殺せば消えてくれる世界なら楽だったよな」
冗談めいた口調で言ってはいるが、北野の表情も暗い。
そう、彼らがいたのは……返り血がこちらの顔面に降り注ぐ世界だった。山下も北野も、ここにいない坂本哲也も、戦場で何度吐いたかわからない。
あの時のメンバーで吐かなかったのは、鬼塚隆史だけだった──
「昨日、夜中に異世界もののアニメ放送してたんだよ。俺、それ観てたら泣いちゃったよ」
「なんで泣くんだ?」
微笑みながら聞いた北野だったが、返ってきた言葉に凍りついた。
「あんな平和な世界だったら、どんなにか良かったろう……ってさ」
そう言った山下の目には、涙が光っていた。
帰り道、北野は虚ろな目をして歩いていた。
山下は現在、無職無就学のニートだ。毎日、部屋に閉じこもりスマホをいじっている。世間的には、どうしようもないクズのひとりなのだろう。
しかし、北野は山下のことを責める気にはなれなかった。北野自身も、ニートになれるものならなりたかった。しかし、両親のいない北野は、仕事をする以外に生きる道がなかったのだ。
それだけ、か?
そう、なぜ自分がこちらの世界に順応できているのか、その理由がわからない。単に、環境のせいなのだろうか。
そんなことを思いながら歩いていた時、前から数人の若者たちがたむろしているのが見えた。北野は、さっと道の端に寄って避けようとした。
ところが、ひとりの若者がさっと動いた。北野にぶつかり、大袈裟によろめいて見せる。
「いってえ。俺、こいつにぶつかられちまったよ」
言いながら、若者はこちらに近づいてくる。
「すみませんでした」
そう言って頭を下げ、北野は足早に通り過ぎようとする。こんな連中と関わり合いたくない。
ところが、別の若者が動いた。バスケの選手のような動きで、北野の前に立ち大袈裟に両手を動かす。
「はーい、逃さないよ。俺のディフェンスから抜けられるかい?」
からかうような口調だ。次いで、横から手を伸ばし襟首をつかんだ者がいる。
「ざけんなよ。謝って済めば警察はいらねえんだ」
北野は、冷めた目で皆を見回した。魔法を使えば、数秒で全員が死体となる。魔法を使わない単純な殴り合いでも、一分あれば充分だ。
しかし、そんなことはしたくなかった。北野は、もう一度頭を下げる。
「すみません。許してください……」
言った瞬間、北野の表情は凍りついた。
自分の襟首をつかんでいる者、その手首にはタトゥーが彫られていたのだ。逆さ十字という、よくあるタイプのデザインである。
だが、北野にとって逆さ十字は違う意味を持っていた。
かつて、異世界で戦った記憶が鮮烈に蘇る。
モローク族は、魔法により極限まで強化された肉体と、己の死をも恐れぬ凶気を兼ね備えた恐ろしい戦士たちだった。数万の軍勢が相手でも怯まず、仲間が殺されても無視して突進し、敵の大将の首を獲る……そんな男たちと、北野は死闘を繰り広げてきたのだ。
モローク族もまた、逆さ十字のようなタトゥーを彫っていた──
その瞬間、北野の体は意思とは無関係に動いていた。逆さ十字の彫られた手首をつかみ、一瞬で砕く。次いで、魔法を発動させるべく精神を集中させる。
だが、零コンマ何秒かで思い出した。ここは異世界ではなく、元いた平和な世界なのだ。
直後、聞こえてきた声──
「う、うわあぁ! なんだこれ! 俺の手がぁ!」
若者の手首は砕け、かろうじて皮で繋がっている状態になっていた。その顔は痛みと恐怖で歪んでいる。
周りの若者はというと、口を開けたまま固まっていた。何が起きたのか、わかっていないのだ。
その隙に、北野は走り出した。前を塞ぐ若者たちを突き飛ばし、恐ろしいスピードで走る。あっという間に、若者たちの視界から消えていた。
数分後、北野は家にいた。築四十年のアパートで、家賃も安い。
狭い部屋の中で、北野は荒い息を吐きながら呟く。
「良かった……皆殺しにせずに済んだ」
言った後、仰向けになり目をつぶる。もし、あの日、あの時、あの場所にいなければ、自分は召喚されずに済んだのだろうか。
あるいは、どこにいようが召喚されていたのだろうか。




