うぶな同族さん
「……はい?」
私の間抜けな声が、黒紫色の通路に落ちた。
張り詰めていた空気が妙な形に固まる。
黄昏のメンバーは警戒を解いてはいない。
武器を構えたまま、いつでも動ける距離を保っている。
けれど、その顔には明らかに困惑が浮かんでいた。
飛鳥さんだけが、肩を揺らして笑っている。
「っ、ふふ……あははっ! 第一声それなんだ!」
「姉さん。笑わない」
「だって、緊張感持っていかれたじゃん」
怜奈さんは表情を崩さない。けれど、隣にいる私には分かった。たぶん、少し呆れている。
目の前のサキュバスは、そんな空気など気にした様子もなく私の周りをゆっくり歩く。
ジロジロと見られて居心地が悪い……。
「え、えっと……」
「動かないで」
甘い声で言われ、思わず身体が固まる。
サキュバスは私の顔を覗き込み、次に肩、腕、腰のあたりを確かめるように見ていく。
それから、私の後ろで落ち着きなく揺れている尻尾に視線を向けた。
「尻尾、力入りすぎ」
「そ、そう言われましても。今日の朝、いきなり生えたもので……」
私が返事を返すと、サキュバスはぱちぱちと瞬きをした。
「今日の朝?」
「はい」
「生えたの?」
「はい……」
「……ふふ。変なの」
笑われた。初対面の本物のサキュバスに、変なのと言われた。
地味に傷ついてしまう。
サキュバスはさらに私の手を取った。細い指が、私の手のひらに触れる。
その瞬間、胸の奥がぴくりと反応した。
魔力。
怜奈さんの魔力とは違う。飛鳥さんの魔力とも違う。甘くて、冷たくて、どこか夜を連想させる魔力。
同じ匂いがする。そう思った瞬間、私の尻尾が勝手に揺れた。
「ほら、反応してる」
「勝手に動くんですよ……」
「知ってる。初心者だから」
「初心者?」
サキュバスは私の手を離し、楽しそうに目を細めた。
「やっぱり経験なさそうね。経験のないサキュバスなんて、私、初めて見たわ。めずらしい〜」
「け、経験……?」
変な声が出た。その単語に黄昏のメンバーの何人かが微妙な顔をする。
怜奈さんの目が少し細くなった。男性陣の顔を見て、その意味を理解した瞬間、顔が一気に熱くなる。
「ち、違……いや、違わないけど! なんで分かるんですか!?」
「匂い」
「匂いで分かるんですか!?」
「分かるわよ。同族だもの」
さらっと言われた。
その瞬間、近くに浮いていた配信用ドローンの光が、ちかちかと点滅する。
そういえば、飛鳥さんたちは配信しているんだった。
空中に小さく表示されたコメント欄をチラリと見ると、ものすごい速度で流れていた。
『経験!?』
『銀髪ちゃん真っ赤で草』
『うぶサキュバスとか属性盛りすぎ』
『黄昏メンバー笑うなw』
『Dクラスダンジョンで何見せられてるんだ俺ら』
高速で流れているコメントを見ながら呟く。
「終わったなぁ……」
「まだ始まったばかりよ」
「慰めになってませんて……」
私がその意味の分からないフォローに肩を落としていると、怜奈さんが一歩前に出てサキュバスの方を向いた。
「あなたに確認したいことがあるわ」
怜奈さんの声が、少しだけ冷たくなる。
さっきまで変な方向に吹き飛んでいた空気が、ゆっくりと戻ってくる。
黄昏のメンバーも笑いを引っ込めて武器を構え直した。
「このダンジョンで探索者から魔力を吸ったのは、あなた?」
サキュバスは小さく首を傾げる。
「そうよ」
あまりにもあっさりした返事だった。
「理由は?」
「お腹が空いていたから」
「……それで済むと思ってるの?」
怜奈さんの声がさらに冷たくなる。私の背筋が少しだけ震えた。
隣にいる怜奈さんの魔力が、静かに鋭くなるのが分かる。
でも、サキュバスは怯えなかった。
「殺してないわ」
「魔力を奪われた探索者は倒れている」
「死なない程度にしたもの」
「それを人間側は危険行為と呼ぶの」
サキュバスは少しだけ黙った。
そして、不思議そうに私を見る。
「でも、あなたは分かるでしょう?」
「……え?」
「足りない時の感じ」
その言葉に、胸の奥がきゅっと縮んだ。魔力が足りない時の感覚。
身体が冷えて、頭がぼやけて誰かの魔力が甘く見えてしまう感覚。
分かる。分かってしまう。
「……分かります」
小さく答えると、怜奈さんが私を見る。
責める目ではなかった。
ただ、心配している目だった。
私の答えにサキュバスは満足そうに笑う。
「ほら。やっぱり同族」
「でも……」
私は手を握りしめる。
「分かるけど、勝手に吸ったら駄目だと思います。私が言うのも変かもしれませんけど……」
サキュバスのピンク色の瞳が、少しだけ丸くなった。
「駄目?」
「駄目です。私も……怜奈さんたちに止めてもらえなかったら、危なかった。お腹が空いていたからって、誰かを傷つけていい理由にはならないと思います」
サキュバスは黙ったまま、私を見ていた。
長い沈黙——やがて、彼女はふっと笑った。
「変なサキュバスね、あなた」
「また変って言われた……」
「……でも、嫌いじゃないわ」
サキュバスはそう言うと、私の手を取った。
「え? ちょ、ちょっと……」
「少しだけよ! 同族なら平気でしょう?」
細い指が絡む。その瞬間、胸の奥から、すっと何かが抜けた。
魔力だ。ほんの少しのはずなのに、私の身体にはそれだけで十分重い。
「平気じゃないです! 容量ないです。私」
慌てて手を引こうとする。けれど、サキュバスは楽しそうに私の手を握ったままだった。
瞬間、怜奈さんが無言で一歩前に出た。
「離して」
声が冷たかった。でも、サキュバスは怜奈さんを見て楽しそうに笑った。
「あら。あなた、この子の保護者?」
「そうよ」
「即答!?」
思わず私は叫ぶ。怜奈さんの表情は硬い。
けれど、繋がれていない方の手で、私の袖を軽く掴んでいた。
「彩音は不安定なの。勝手に触らないで」
「ふふ。大事にされてるのね」
サキュバスが私を見る。
「よかったわね、うぶな同族さん」
「その呼び方やめてください……!」
飛鳥さんは後ろで楽しそうに笑っていた。
黄昏のメンバーの何人かは肩を震わせている。緊張感は、さっきより少し薄れていた。
でも、怜奈さんの視線だけは、ずっとサキュバスを警戒している。
「傷つけるつもりはないわ」
サキュバスは私の手を離さないまま言った。
「ただ、珍しいの。同族なのに人間に守られている子なんて」
「……珍しいんですか?」
「ええ。普通は逆よ。サキュバスは、人間から奪うもの。人間に守られるものじゃない」
その言葉に、胸の奥が少しだけ冷える。
サキュバスは私の顔を覗き込んだ。
「でも、あなたは違う。人間の魔力の匂いが濃い。特に、その子の」
その子。
そう言って、サキュバスは怜奈さんを見た。
「……っ」
鏡を見なくても分かる。顔が真っ赤だ。怜奈さんの魔力の匂いが濃い。
それはつまり、この一週間、私がどれだけ怜奈さんに助けられてきたか分かるということだ。
「だから興味があるの」
サキュバスは甘く笑う。
「あなたがどういうサキュバスになるのか」
「私は……」
言いかけて、言葉に詰まった。
私はサキュバスになりたかったわけじゃない。女の子になりたかっただけだ。
でも、今の私は半サキュバスで、この身体で生きていくしかない。
「……分かりません」
サキュバスは少しだけ目を細め、口を開いた
「なら、教えてあげる」
「え?」
「尻尾の使い方。魅了の抑え方。飢えた時の耐え方とかいろいろ、ね」
その言葉に私は息を呑んだ。
知りたい。この身体のことを。
誰かを傷つけずに、私のままでいる方法を。
「彩音」
怜奈さんが低く名前を呼ぶ。
私は怜奈さんを見る。
「危ないと思ったら、止めてください」
「……分かった」
サキュバスは満足そうに笑った。
「じゃあ、まずは尻尾からね」
サキュバスがニカッと笑うと、その尻尾が、ゆっくりと私の尻尾へ近づいてきた。
その瞬間、私の尻尾が勝手にぴんと跳ねた。
嫌な予感がした。
ものすごく、嫌な予感がした……。




