第1話:日常と絶望と邂逅
「魔法が存在する世界。その世界では、王国を救うための人間を、異世界から召喚するという儀式が存在していました」
柔らかな声が、静かな庭園に響く。
とある世界の〈ムスフィシパ〉という王国にある王宮の一角。幻想的で色とりどりの花が咲き誇る庭園。丁寧に整えられた道、水音が心地よく響く噴水、穏やかな日差しが差し込むガゼボが佇んでいる。そのガゼボで、椅子に寄り添うように腰掛けている人物が2人。本(物語)を心地よい声でゆったりと読んでいる女性と、期待に胸を膨らませながら目を輝かせ物語に聞き入っている子ども。2人の様子は、いつも通りの日常の如く風景に溶け込んでいる。
「その儀式は、異世界の人間をこちらの世界に縛り付けてしまうとしてあまり推奨されていませんでした。ですが、ひとつの王国がその儀式を行おうとしていたのです」
本(物語)が読み進められていくたびに、子どもには物語の世界が目の前で息づいているように情景が浮かんでくる。
◇ ◇ ◇
澄み渡る青空が広がる、穏やかな午前も終わりに差し掛かる頃。日本のとある場所にある、静かな住宅街。買い物袋を提げた親子が、仲良く歩いている。楽しそうに話す子どもと、それに笑顔で相槌を打つ親。その何気ないやり取りには、飾らない幸せがあった。
道の反対側では、ショルダーバックをかけた1人の女性が親子とすれ違うように歩いていく。互いに視線を交わすこともなく、そのまますれ違う。親子にとっても、女性にとっても、ごくありふれた一瞬でその日も昨日と変わらない1日だった。
ありふれた幸せに満ちた、どこにでもある平穏な日々の1ページ。
明日もまた同じように朝を迎え、同じように1日が過ぎていく。
そんな当たり前の日常が続いていくと信じて疑わなかった。
一体、誰が予想できただろうか。
この愛しい日常が瞬く間に消え去ってしまうことを……
「きゃっ!」
突然短い悲鳴が、親子の背後から聞こえた。その悲鳴につられるように何気なく反射的に振り返る。その先で目に映った光景に、親は思わず眉をひそめた。数メートル先で、1人の人間がまるで地面に下半身が埋まっているかのように見えたのだ。親は状況を理解できず、訝しげに目を細める。隣では子どもが口をぽかんと開けたまま、その異様な光景を見つめていた。どちらも反応は違えど、状況が掴めていないことは同じだった。
しかし
「だれか助けてください!!」
悲痛な叫びが住宅街に響き渡る。その声を聞いた瞬間、親の体は考えるよりも先に動いていた。混乱しながらも無意識に子どもの手を強く握り、助けに行くため走り出す。近づくにつれ、地面に埋まっているかのように思えていたのは、実際には吸い込まれていることが見て取れた。底なし沼のように、その人の体は徐々に沈み続けている。女性が親に向かって可能な限り、力を振り絞るように手を伸ばす。親も迷わずその手を掴み、全身に力を込めて引き上げようとしたその瞬間、視界を覆いつくほどの眩い光が3人を包んだ。そして光が辺りを覆い尽くしたかと思えば、瞬く間に閃光は光の粒となって消え去っていった。
ほんの数秒前まで3人がいた場所には、誰の姿もなかった。
買い物袋も、バックも、まるで最初から存在していなかったかのように、跡形もない。
穏やかな住宅街だけが、何事もなかったように時を刻み続けていた。
眩しさに目を瞑ること数秒か、はたまた数分か。親は一瞬の眩しさに耐えきれず固く閉じていた目を、恐る恐る開くとそこは見渡す限りの草原だった。
「……は?」
思わず間の抜けた声が漏れる。先ほどまで自分が歩いていた道も、周囲にあった住宅街もどこにもない。代わりにひざ下までの高さの草が風に揺れる、草原がどこまでも広がっていた。少し離れた場所には深そうな森もあるのが伺えた。目を瞑ってたった数秒で景色が様変わりしているのだ。景色で同じことといえば、空が青く澄み渡り太陽が自分の真上、遥か頭上に鎮座していることぐらいである。状況がまるで飲み込めない。だが、それ以上に1番気がかりなのは周りに誰もいないことだった。慌てて腕の中を見るが、そこには何もない。目を瞑る瞬間、反射的に抱き寄せ片腕の中に抱えたはずの我が子の姿が、消えていた。助けようとしていたあの人の姿もない。
――そういえばあの人女性だった
そんなことを考えている場合ではないと分かっているのに、現実離れした状況に脳の処理が追い付かない。
此処はどこなのか。
なぜ自分はここにいるのか。
答えは1つも見つからない。
ただ1つだけ、嫌というほどはっきりしている現実がある。
腕の中にいたはずの我が子が、いない。
「……あの子は?」
震える声が、誰もいない草原へ吸い込まれていく。当然返事はない。親はその場にしゃがみ込み、震える両手で必死に草をかき分ける。そこにいるはずもないのに、必死に探し続ける。視界は涙で滲み、呼吸は乱れ、心臓は今にも破裂しそうなほど脈打っていた。平常心ならばこの場所に人が身を隠せる所などないことは分かったはずだ。だが、そんなものはとうに失われていた。
我が子が消えた。
その現実を受け入れられるほど、親の心は強くなかったのである。
理屈は関係ない、ただ本能のまま体を動かす。探す手を止めてしまえば、子どもを失った、消えてしまった、その現実を認めることになってしまう気がしたからだ。
何度我が子の名前を呼んでも、風に乗って虚しく消えていく。返事がない現実に、周囲の音が遠のいていく。頭に心臓の音が響く。苦し気に胸を押さえながら、のそりと立ち上がる。足取りも覚束ない状態で歩きながら、我が子の名前を叫ぶように呼ぶ。遠くに少しでも遠くに届くように。響き渡るように、声が枯れるまで呼び続けた…
どれほど歩き、どれほど時間が過ぎたのか、時間の感覚はとうに失われていた。それでもいくら待っても返事が返ってくることがない現実だけ理解できた。姿を現すこともなければ、人の気配すら感じられない。
どうして、と掠れた声が漏れる。
その場に呆然と立ち尽くし、頬を伝う涙を拭うことさえせず、ただただ流れるままに任せる。
気づけば、親の頭上高くにあったはずの青空に浮かぶ太陽は、すでに西へ傾き始めていた。そんな青空を見た親の脳裏に、ここに来る前の日常がよみがえる。止まりかけていた涙が、再びこみ上げてくる。
「っどうして……」
掠れた声が震える。
「なんで」
誰に向けるでもなく、震える拳を強く握りしめる。
「神様、自分が何かしてしまったのですか。何をしたって言うんですか! 教えてください!!」
「……あの子との日常に戻りたい」
「あの子は、愛する我が子は何処だ!」
「かえしてください」
「かえせ」
「……っあの子をかえせぇ!!」
親の慟哭は周辺に響き渡った。当たり前の日々がどれほど尊いものだったのか、失って改めて思い知らされる。
「あんまりだ……」
この一言に、怒り・悲しみ・絶望、すべてが含まれていた。
やがて叫ぶ力さえ尽き、涙を流しながら地面を見つめる。涙は絶えることなく、ぽたりぽたりと草の上へ落ちていく。
力なく俯き、濡れた地面を見つめる瞳には、もはや底の見えない絶望しか残っていない。
◇ ◇ ◇
「おい、そこで何をしている。そなたは何者だ」
不意に、頭上から冷徹そうな低い声が降ってきた。親は涙で濡れたまま俯いていた顔を、ゆっくりと持ち上げた。視線の先には、馬によく似た生き物に跨る人物がいた。四肢は馬そのものだが、どこか不思議で神々しい気配を纏い、陽の光を受けた毛並み美しく輝いている。所謂、幻獣と呼ばれる生き物である。その背に跨る声の主は、見下ろすような高さから親を見つめていた。
随分高い位置にあるその顔を、親はぼんやりと見上げる。頬にはいまだ涙が流れており、瞳は泣き腫らしたと一目で分かるほど赤く染まっていた。焦点の定まらないその目は、深い闇だけ閉じ込めたような瞳だった。
その様子を目にした声の主は、予想もしていなかった親の状態に僅かに目を見開く。しかし、その驚きは一瞬で元の冷静な表情に戻る。
親は先程の質問には答えない。ただ闇を纏った目で声の主を見上げるだけ。
その沈黙と視線だけで何かを悟った声の主は、無視されたことを咎める様子はない。目の前の人物が、まともに受け答えできる精神状態ではないことは理解できたのだ。声の主は、幻獣の背から流れるような動作で地面へと降り立つ。草を踏みしめながら、騎士らしい端正な姿勢で告げる。
「私は〈ムスフィシパ王国〉の騎士団副団長、〈ルイ・オルガルド〉である。王命により、ここに来た。そなたはなぜここにいるのか、何者なのか聞いてもよいだろうか」
先程の冷徹そうな声には、少し戸惑いと気遣いが滲んでいた。ルイは名乗ると同時に、後方へ控えていた部下たちへ軽く手で指示をだす。その合図だけで部下たちは、幻獣の背から次々と降りる。着地と同時に、腰へ携えた剣が鞘を鳴らす。
それでも親は、動揺した素振りも見せない。武装した集団を前にすれば、普通なら身構えるか、怯えるかするはずだ。だが、ぴくりとも反応を示さなかった。ただルイを見つめるだけ。焦点の定まらない瞳はルイのほうを向いているものの、その視線は彼を捉えていない。
ルイはその目を静かに見つめ返す。返答がないことも特に気にせず、何かを探るように見つめながら相手の言葉を待った。
草原を吹き抜ける風だけが、両者の間を静かに通り過ぎていった。




