投手 小林亜美
「はぁ」
野球部の部室に溜め息が木霊する。
溜息の主は一人の女子生徒。
彼女の名は小林亜美。
溜息の原因は早とちりして男子生徒の頬を叩いてしまった今朝の出来事だ。
菜那の言葉を聞いてついカッとなってしまった。亜美はカッとなると周りが見えず冷静な判断が出来なくなる。
そんな亜美は真相を知って自責の念に駆られていた。
謝ろうにも名前はおろかクラスさえ分からない。
共学になったのは今年からなので一年ということは間違いないが、それ以外のことは何も分からないのである。
休み時間にでも他のクラスを覗いて探してみようなどと考えながら練習用のユニホームに着替えていた。
クラスを確認して教室へ。
すでに教室にはいくつかのグループができ、各々談笑しており、少し騒がしく感じる。
おそらく地元出身の者たちであろう、桜華女子は外部からの生徒はそう多くはない。もともとは桜舞島の住民のために設立されたものであるため生徒募集を大々的にやっていないことが要因だろう。
ではなぜ昨年まで女子校だったのだろう?と疑問もあるが、その答は創立者である桜小路恒雄のみぞ知るといったところだろう。
亜美はそんなクラスの光景を自分の席でぼうっと眺めていた。
入学式が終わり教室に戻ると、お約束の自己紹介が行われた。
順番は出席番号順。
(早く練習したいな)
自己紹介そっちのけで野球のことを考えていた亜美の耳に聞き覚えのある名前が飛び込んできた。
「新井美帆です。よろしくお願いします」
亜美は思わず声の主を注視する。
(美帆だ。本当に美帆だ)
菜那と違い背も伸びて、大人っぽくなりショートだった髪も長くなっていたが、すぐに幼なじみの美帆だと分かった。
今朝、菜那から美帆も桜華女子だと聞いていたが、まさか同じクラスになるとは思ってもみなかった亜美。
知り合いが誰もいないことに全く不安がなかった訳ではない亜美は嬉しくなり、簡単に済ませようと思っていた自己紹介も、つい力が入る。
「小林亜美です。虎子さ、いや、理事長に今年野球部が出来ると聞いて、野球をやりたくて桜華女子にきました。野球は楽しいです。皆さんも野球部に入りませんか、一緒に全国目指しましょう」
亜美の自己紹介に教室がザワつく。
桜華女子は部活動が盛んではない。ゆるい部ばかりで部員も然りである。当然優勝を目指すなんて部は殆どない。生徒もそれが分かって入学している。
そんな桜華女子で「全国を目指す」との亜美の言葉は、あり得ないものだった。
放課後、亜美は声をかけようと美帆の方を見ると、真剣な表情でスマホを見ていた美帆は、突然席を立ち、そそくさと教室から出て行った。
「美帆……」
美帆の様子が心配で追いかける亜美。
美帆は校舎から中庭に出ると、誰か探しているのかキョロキョロと辺りを見回す。程なくして、探し人を見つけたのか、一直線に駆け出していく。
「お姉ちゃん」
美帆の視線の先には菜那が立っていた。
美帆は菜那に声をかけると、まくし立てるように何やら話している。
「美帆、那奈先輩」
亜美はそんな二人に近寄り、思い切って声をかけた。
「「亜美ちゃん・あーみん」」
亜美に気付いた二人は同時に声を上げた。
何の話をしていたのか亜美が訊ねると、学校中に流れている噂のことだと美帆は教えてくれた。
クラスに話をする相手がおらず、他人の話に聞き耳を立てる趣味はない亜美は噂なんて知らず、どんな噂なのか美帆に訊いてみると、それは自分が見たことのあるような、いや、まさに亜美が今朝遭遇した出来事だった。
それが学校中で噂になっていると。
今朝教室に入ってからずっと感じていた騒がしさの原因はこれかと亜美は納得した。
「それでお姉ちゃん、噂は本当なの?本当にその男の人に押し倒されたの?」
美帆の表情は真剣そのものだ。
「そうにゃ、菜那が風を切り、桜を見ながら気持ちよく登校してたら、校門の前で男の子にぶつかって倒されたにゃ」
「それお姉ちゃんがよそ見をしていて、ぶつかったってことじゃない?」
「そうとも言うにゃ」
「そうとしか言いません」
美帆は静かに怒っているようだった。
「うふふ」
自分に実直な菜那としっかり者の美帆、以前と変わらぬ二人の、こんなやりとりに懐かしさを覚え、思わず笑い出す亜美であった。
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