一塁手 新井美帆Ⅶ
太陽が昇り始めるかという薄暗い中、美帆は海沿いの遊歩道を走っていた。
転校初日に起きたあの出来事、それが原因でダイエットのため朝から走るようになった。
辺りはまだ薄暗く、人の姿も殆どない。
たまに新聞配達だろうか、バイクのエンジン音が聞こえてくるも、それ以外は波の音と自分の息遣いしか聞こえない。
静けさの中、波の音をBGMに美帆は走っていた。
公園に着き足を緩める。
この公園で一休みして帰路に向かう。所謂折り返し地点だ。
こんな時間に走っているのは、もちろん人と出会わないというのもあるが、この公園で、朝日を受けキラキラと輝く海を見るのが好きだった。
海の前に設置されている柵の前に行き、朝日を受ける海を眺めながら、先程自販機で買ったスポーツドリンクの口を開ける。
口をつけ一口飲むと、失われた水分が体に吸収されていくのが分かる。
美帆はそのままスポーツドリンクをゴクゴク体に流し込む。
「おはようございます」
突然かけられた声に驚き、飲んでいたスポーツドリンクを吹き出しそうになるも、なんとか堪えることに成功した。
よかった流石に吹き出したりゴホゴホ噎せるのは恥ずかしい。最悪鼻から吹き出そうものなら、恥ずかしさで死ねるかもしれないと美帆は思った。
しかしながら挨拶をされて返さないわけにもいかず、振り向きながら小さく挨拶を返す。
!!!
美帆は、その人物を見て先程以上に驚いた。
もし正面から声をかけられていたら、驚きのあまり相手の顔に吹き出していたかもしれないとまで思った。
「矢野くん」
その人物は美帆のハンカチを拾い、階段から転落した美帆を身を挺して受け止めてくれた『矢野克也』その人であった。
「どうして俺の名前を?」
名乗ってもいないのに自分の名を呼ばれ、少し怪訝な表情を見せる。
「あ、あの、校内放送で理事長が……」
「君も桜華なんだ。俺ある意味悪目立ちしてたから」
恥ずかしげに頭を掻き、納得する克也。
そんな克也を見て、美帆は克也に会ったら言おう思っていた言葉を口にする。
「この前は本当にありがとうございました」
そう、美帆は克也にちゃんとお礼を言いたかった。言いたかったのは事実だが、普通にお礼が言えたことに美帆自信驚いていた。
「この前?」
そんな美帆の驚きなど知る由もないばかりか、なぜお礼を言われているのかすら分からないといった様子の克也に美帆は、
「学校の階段で」
その一言で克也は思い出す。
「ああ、あの時の。怪我がなくて本当に良かった」
「その前もハンカチを拾ってもらったのにお礼も言わずごめんなさい」
少し緊張はするものの、やはり克也相手だと、他の男子の時のように声が出なくなることはなく、話すことができた。
「あれ君だったんだ。なんか縁があるのかな」
「縁」その言葉を聞き、美帆の中に嬉しいような恥ずかしいような感覚が広がった。
「でも、あの時は変な噂流れてたから、避けられても仕方ないよ」
そう、克也は、美帆がお礼も言わず走り去った理由を勘違いしてた。
「違います。私、男子が苦手で……。噂のことは間違いだって思って、お姉ちゃんに……」
「お姉ちゃん?」
「はい。私は新井美帆といいます、貴方に自転車でぶつかった新井菜那の妹です」
「!!!」
名前を聞いた瞬間、克也は目を見開き、美帆との距離を詰めると、興奮気味に話しかけた。
「新井さん!野球部に入ってくれませんか」
突然の誘いと距離感にあたふたする美帆。
そんな美帆を見て、我に返った克也はやってしまったと思った。
美帆は男子が苦手と言ってた、怖がらせたかもしれない。
それに、突然、野球部に入ってくれと言われても訳分からないだろう。
目の前の彼女が、虎子のリストにあった新井美帆だと判明し、嬉しさのあまり反射的に体が動いたのだ。
「ごめん、新井さん。実は……」
克也は自分が野球部であること、野球部は男女混合であり甲子園を目指すらしいこと、だが、その野球部は部員が二名しかおらず、このままでは部として活動できないことや、それを打開するために理事長から渡されたリストに美帆の名前があり、偶然にも探していた美帆と出会って嬉しさのあまり我を忘れてしまったことなど説明した。
克也の説明を受け大凡の事情は理解した美帆だったが、一つだけ不可解なことがあった。
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