第15話 マチアプ男編-脚がもたらすモノ
「だが、まだ上半身だ」
ガイ児は腕を組んだまま、竜一を見下ろした。
「次は脚だ、GUYS」
「やっぱり来ますよね……」
「来るに決まっている。
男の土台は脚だ」
竜一は軽く肩を回した。
ラットプルダウンとチェストプレスだけでも、背中と胸にじんわり熱が入っている。
普段あまり意識しない場所が起きてくる感じがあって、それは新鮮だった。
でも、脚と聞くと少し気が重くなる。
上半身のトレーニングは、なんとなくまだかっこいい感じがある。
背中で語る。
胸で受け止める。
そう言われれば、たしかに男っぽい。
だが脚は違う。
地味だ。
きつい。
そして逃げ場がない。
ガイ児は脚のマシンの方へ向かった。
竜一もあとをついていく。
「今日はレッグプレスだ」
「レッグプレス」
「そうだ。
お前の脚が、どこまで前へ出られるかを見る」
マシンは思っていたより大きかった。
斜めに押すタイプで、座面に深く座り、足でプレートを押し返す形らしい。
「座れ」
竜一は言われるままシートに座った。
背中を預ける。
足をプレートに置く。
幅は肩幅くらい。
「膝は内に入れるな。
足裏全体で押せ。
つま先だけでも、かかとだけでもない。
脚全体で前へ出せ」
「これ、なんかすごい前へ出る感じありますね」
「ある。
だから良い」
ガイ児はプレートの重さを確認し、ピンを差し替えた。
「最初は軽すぎず、重すぎずだ。
お前に必要なのは潰れることではない。
押し切る感覚を覚えることだ」
竜一は深呼吸した。
足で押す。
ただそれだけのはずなのに、少し身構える。
「いいか、GUYS」
ガイ児の声がいつもより少しだけ低くなった。
「脚は、踏み込む力だ。
逃げない力だ。
必要な場面で前へ出る力だ」
「……はい」
「恋愛も同じだ。
最後に引く男は、だいたい脚が弱い」
「またすごい理論来ましたね」
「本質だ」
もう慣れてきた。
本質らしい。
「お前はこれまで、相手に優しくしようとしてきた。
それは悪くない。
だが、最後に決める場面で前へ出る脚がなかった。
だから今日は脚だ」
竜一はプレートに足を置いたまま、昨日の夜を思い出した。
公園。
夜風。
彼女の少し困った笑顔。
あのとき、自分はたしかに引いた。
相手を気遣ったのかもしれない。
でも本音を言えば、傷つくのが怖かった。
「押せ」
竜一は、ゆっくりプレートを押した。
重い。
でも持ち上がる。
膝を伸ばしきる手前で止める。
そこからゆっくり戻す。
「もう一回」
二回目。
今度は少しだけ感覚がわかる。
太もも。
尻。
足裏。
全部が一緒に働く。
単純なのに、かなり逃げ場がない。
「脚で押すというより、地面を遠ざける感じだ」
「地面を……遠ざける」
「そうだ。
その子の前へ、一歩出るための脚だと思え」
三回目。
四回目。
じわじわ来る。
胸や背中とは違う重さだ。
きついのに、変に誤魔化しが効かない。
五回目。
「いいか、竜一」
初めて、ガイ児が名前で呼んだ。
「はい」
「お姫様抱っこをイメージしろ」
「は?」
竜一は一瞬、動きを止めかけた。
「お姫様抱っこだ」
「急に何の話ですか」
「脚の話だ」
ガイ児は真顔だった。
真顔でやばいことを言う人だというのは、もうなんとなくわかっている。
「抱きかかえられない男に、何が守れる」
「いや、でもさすがにそれは飛躍してません?」
「飛躍していない。
必要な時に支えられる脚。
ぐらつかない土台。
それがある男は、動きに迷いが出にくい」
六回目。
七回目。
「ピーチ姫をどうやって助けるんだ」
「なんで例えがマリオなんですか」
「わかりやすいからだ」
たしかにわかりやすい。
わかりやすいのが悔しい。
八回目。
九回目。
だんだん、脚が熱くなってくる。
太ももの前だけじゃない。
尻の奥も、脚の裏側も、全部まとめて働いている感じがする。
「最後だ」
十回目。
竜一は歯を食いしばって押し切った。
プレートをゆっくり戻す。
そこで一気に息を吐いた。
「っ……はぁ」
「よろしい」
ガイ児の声が少しだけ満足そうだった。
竜一は座面に深くもたれた。
脚が熱い。
かなりきつい。
でも、不思議と悪くない。
「……脚って、すごいですね」
「今さらかね」
「いや、こんなに前へ出る感じあると思ってなかったです」
ガイ児はうなずいた。
「脚は土台だ。
上半身だけ整えても、最後は下で決まる。
恋でも、仕事でも、人生でもな」
竜一はゆっくり立ち上がった。
少しだけ膝が笑いそうになる。
でも立てる。
むしろ、立った時の方が身体がまとまっている感じがした。
背中。
胸。
脚。
さっきまでただの単語だったものが、今は少しだけ身体の中に入っている。
「……なんか、ちょっと満足してる自分がいるんですけど」
「良いことだ」
「まだ彼女もできてないのに」
「だから良いのだ」
ガイ児は胸を張った。
「結果の前に、まず自分の身体で変化を感じろ。
それがない人間は、外の結果ばかり追って空回りする」
その言葉には、反論しづらい重みがあった。
竜一は今日ここへ来るまで、ずっと「彼女ができるかどうか」ばかり考えていた。
でも今はそれだけじゃない。
少なくとも、自分の背中と胸と脚に少しだけ手応えがある。
それが、思っていたより悪くなかった。
「……あの」
竜一は少しだけ視線を上げた。
「なんだね」
「また来ても、いいですか」
ガイ児は一拍置いた。
そして、胸板を揺らして言った。
「もちろんだ!!!!!!」
声がジムの中で跳ねた。
やっぱりうるさい。
でもそのうるささが、今は少し心地よかった。
「よし。
では次は、もっとお前の身体に言葉を入れていく」
「身体に言葉って、なんか怖いですね」
「怖くない。
お前はこれまで、頭の中にだけ言葉を溜めすぎた。
これからは身体でも理解していくのだ」
竜一は小さく笑った。
「わかるような、わからないような……」
「それでいい。
最初はだいたいそうだ」
ジムを出ると、双葉駅前の夕方の空気が少しだけひんやりしていた。
脚は重い。
背中も胸も、じんわり熱が残っている。
でも、その全部が妙に心地いい。
来る前より、少しだけ身体の輪郭がはっきりしている。
たった一日で人生が変わるわけじゃない。
そんなことはたぶんない。
でも、昨日の自分よりは少しだけ、前に出られそうな気がした。
竜一は駅とは逆方向へ、少しだけ遠回りして歩くことにした。
風に当たりたかったからだ。
住宅街の細い道を歩いていく。
夕暮れの明かりが建物の壁をやわらかく染めていた。
どこかの家の夕飯の匂いがする。
子どもの声が遠くで響く。
そのとき、少し前方で、小さな声がした。
「あっ……」
若い女性が一人、道端で立ち止まっている。
視線の先には、破れた紙袋。
どうやら買い物帰りに底が抜けたらしい。
中身が道に散らばっていた。
卵のパック。
ペットボトル。
惣菜のパック。
細々したものが転がっている。
女性は困った顔でしゃがみ込もうとして、でも荷物が多くてうまく動けずにいた。
竜一は一瞬、足を止めた。
いつもの自分なら、まず考える。
声をかけて変に思われないか。
大丈夫ですと言われたら気まずくないか。
迷惑だったらどうする。
でも今日は、その前に脚が一歩出ていた。
「大丈夫ですか」
気づいた時には、もう声が出ていた。
女性がこちらを見る。
少し驚いた顔。
でも、嫌そうではない。
「あ、すみません……袋が破れちゃって」
「持ちますよ」
竜一は自然にしゃがみ、転がった卵のパックを拾った。
胸が閉じていない。
脚も安定している。
不思議と、変に気後れしなかった。
「ありがとうございます」
「いえ」
竜一は散らばったものを集めながら、ふと自分でも少しだけ驚いた。
別に大したことをしたわけじゃない。
でも、昨日までの自分なら、一拍遅れていた気がする。
そのとき、道端に落ちた小さな紙切れが風で舞って、竜一の足元に引っかかった。
拾い上げる。
それは、どこかのカフェの割引券だった。
女性が「あっ、それ私のです」と笑った。
たったそれだけのことなのに、竜一の胸の奥で何かが少しだけ動いた。
夕方の風が、また一つ吹いた。




