第1話 新装開店!マックスガイジジム!
pipipipipi...
朝のアラームが耳元で鳴り響く。
「……朝かぁ」
今日も、憂鬱な気分で目を覚ました。
いや、本当に目が覚めているのかはわからない。
意識だけが先に浮いて、身体はまだ布団に沈んでいる。
ベッドから出ようとする。
(……だめだ)
起きなきゃいけない。
そう思っているのに、身体がまるで動いてくれない。
このままだと遅刻する。
それはわかっている。
でも、そのことすらどうでもいいと思えてしまう朝が、最近は増えた。
そもそも、ここ数年、気持ちよく目覚めた日なんてあっただろうか。
子どものころは、もっとぱっと起きられていた気がする。
どうして大人になると、こんなに朝が重くなるんだろう。
そんなことを考えているうちに、また眠りに落ちそうになる。
pipipipipipi...
スヌーズが鳴った。
「……しょうがない、起きるか……」
重い頭と腰を、ネガティブな感情で無理やり持ち上げる。
ベッドを出ると、カーテンの隙間から差し込む朝日が、昨日の夜の残骸を照らしていた。
脱ぎっぱなしの服。
飲みかけの缶。
読みかけのまま伏せられた雑誌。
「……帰ったら片付けるか」
どうせ片付けないくせに、私はそう呟いて、急いでメイクと支度を始めた。
昔は、メイクにも服にも、もっと時間をかけていた。
鏡の前で立ち止まって、姿見で全身を確認して、その日の気分でアクセサリーを選んでいた。
でも今は違う。
流れ作業だ。
コンビニのベテラン店員がレジを打つみたいな速度で、支度が終わっていく。
誰に急かされているんだろう。
この1Kには、私しかいないはずなのに。
憂鬱な気分で朝の支度をして、疲労困憊で帰宅する。
その繰り返しの中で、気づけばお酒なしでは寝られなくなっていた。
世間は言う。
三十歳なんて、まだ若いと。
でも、どうだろう。
身体の話じゃない。
気持ちの話だ。
気持ちだけなら、私はもうずいぶん前に老け込んでいる気がする。
子どものころはよかった。
お母さんに起こしてもらって、あったかいご飯を食べて、友達と昨日見たテレビの話をしながら学校へ行く。
世界はあんなに狭かったのに、ちゃんとあたたかかった。
「みゆきちゃん、シール交換しよ!」
「みゆきちゃん、昨日のテレビ見た?」
「みゆきちゃん、あの新しいお店もう行った?」
今はどうだろう。
無機質なアラームで目だけが覚めて、冷たい牛乳でシリアルを流し込んで、
満員なのに一人ぼっちの電車に揺られながら、誰とも分かり合えない会社へ行く。
外に出れば人はたくさんいる。
なのに、ずっと一人ぼっちみたいな気分だ。
会社でも、必要最低限の言葉しか飛んでこない。
「石黒さん、これお願いします」
「石黒さん、この修正できてないです」
「石黒さん、この前頼んだ案件、進捗どうですか」
「……痛っ」
考え事をしながらフロスをしていたら、歯茎をやりすぎたらしい。
口の中に少しだけ鉄っぽい味が広がる。
「もうこんな時間だ。そろそろ出なきゃ」
口をゆすいで、私は急いで家を出た。
大学を卒業して、この会社に入ってもう八年になる。
部屋から駅までの道にも、もう目新しいものはない。
ないはずなのに、最近はそれ以上の感覚がある。
見える景色の意味まで、なんとなく分かってしまった気がするのだ。
私だけなのか、ほかの人も同じなのかはわからない。
でも、この「通学路」を歩いているのは、今のところ私ひとりだった。
「このお花きれいだね!」
昔は、道ばたのそんなものにも、ちゃんと心が動いていた気がする。
でも、きれいになりすぎた都会の道ばたには、花なんて咲いていない。
「……?」
視界の端に、何かが落ちていた。
紙だ。よく見ると、派手なビラだった。
普段の私なら、まず拾わない。
でもさっき少しだけ昔のことを思い出したせいか、そのときはなぜか手が伸びた。
そこには、やたら勢いのある文字でこう書かれていた。
ガイジマキシングをしよう!!!
双葉駅前に新装開店!!!
その名も【ガイジマックスジム】!!!
人生を変えたい弟子、大募集中!!!
「……は?」
あまりにもピカピカした文面に、頭の上にクエスチョンマークが浮かぶのが自分でもわかった。
ガイジマキシングってなんだ。
初めて聞く言葉だった。怪しさしかない。
なのに、その振り切れ方が妙に気になった。
「やばっ、もう電車来るじゃん!」
私はビラを半ば無意識にバッグへ突っ込み、そのまま駅のホームまで駆け込んだ。
*
「石黒さん、今日ちょっと残業お願いできるかな。明日の会議で使うこの資料、少し修正してほしくて」
課長は、私が断れないのを知っている。
知っているから、それを作ったお局には言わずに、私に持ってくるのだ。
「いつもごめんね、助かるよ。今度ご飯でもおごるからさ」
なんでおじさんとのご飯が償いになると思っているんだろう。
いや、断り方を考えなきゃいけないのはそっちじゃない。
残業と課長飯のお誘いで、憂鬱がダブルで来る。
「はぁー……ようやく終わった」
時計は、もう八時を回っていた。
今日も帰れば、YouTubeを見ながらコンビニ弁当とストゼロを食らう夜が待っている。
とても花のOLとは思えない生活だ。
何度も変わりたいと思った。
もっと明るい生活がしたいと思った。
でも現実は、何も変わらない。
安い給料。
狭い部屋。
味の濃いだけのごはん。
たくさんの他人たち。
転職活動だってしてみた。
でも、どこも似たような条件か、それ以下だった。
「事務職は難しいんですよ~」
転職エージェントの、少しも気持ちのこもっていない声が忘れられない。
たしかに私は、特別なスキルもない。
資格だってない。
でも、門前払いみたいな顔をしなくたっていいじゃないか。
もっと自分に自信がほしい。
でも、自信を持てるだけの何かもない。
そのどうしようもない往復を、私はずっと続けている。
ストゼロでごまかしてきたけど、そろそろ限界なんじゃないか。
もし限界が来たら、どうなるんだろう。
そんな不安ばかりが頭をよぎる。
《つぎは双葉駅~》
駅前のコンビニは、私にとってほとんどオアシスだった。
何年通っても私の顔を覚える気がない店員。
いや、今はもうそれすら関係ない。
タッチパネルで会計できるし、レンジまでセルフだ。
入店して、目的のものをかごに入れて、ピッと会計する。
誰とも話さなくていい。
それが楽で、少しだけ寂しい。
最後に人と長く話したのって、いつだろう。
会議?
打ち合わせ?
いや、それは会話に入るのか?
そもそもみんな、私のことを――
「ヘイGUYS!!!!!!」
「ふぁぃ!?!?」
いきなり太い大声を浴びせられて、変な声が出た。
恐る恐る振り返る。
そこには、黒光りしたガタイのいいおじさんが立っていた。
いや、立っていたというより、そこだけ圧があった。
「GUYS!!!!!! 姿勢が悪いよ!!!!!!
もっと胸を張る!!!!!!」
な、なんなんだこのおじさんは。
新手のナンパだろうか。
いや、ナンパにしては配慮がなさすぎる。
というか、顔より先に姿勢を注意してくる男って何なんだ。
「……す、すいません」
なんで私は知らないおじさんに謝っているんだろう。
「GUYS、若いのにそんなものばかり食べていてはだめだぞ!!!!!!」
「……ぇ?」
「返事は『はい』だ!!!!!!」
「は、はい……」
「元気がない!!!!!!
やり直し!!!!!!」
「は、はい」
「もう一回!!!!!!」
「は、はい!」
「うむ!!!!!! まだ足りんが、今日はこんなものだろう!!!!!!
ではまた会おう!!!!!! さらばだGUYS!!!!!!」
そう言うと、その黒光りのおじさんは、闇夜から現れて、闇夜へ帰るみたいに去っていった。
いったい何だったのだろう。
私はしばらくその場に立ち尽くして、それから小さくつぶやいた。
「……疲れすぎてるのかな」
家に着いてカギを探す。
カバンの中で紙の感触がした。
朝拾ったビラだ。
何気なく開く。
人生を変えたい弟子、大募集中!!!
その文字を見た瞬間、さっきの黒光りのおじさんの声が頭の中で響いた。
「返事は『はい』だ!!!!!!」
「……うそでしょ」




