第二十三話 時の外の草原
《時の門》へ、誰かが手をかけた。
それがトレインだったのか、ミリアだったのか、あるいはジークだったのか――あとから振り返っても、誰ひとりはっきりと思い出すことができなかった。記憶というものは、あまりに異様な光景を前にすると、最初の一歩を誰が刻んだのかさえ曖昧にしてしまうのかもしれない。ただ確かなのは、その扉が人の手によって押し開かれたというより、長い、長い眠りからみずから目覚めるように、ゆっくりと左右へ開いていったということだけだった。
鉄とも石ともつかぬ重厚な扉は、軋みを上げながらも乱暴な音は立てなかった。むしろ、その唸りは低く喉を震わせる獣の吐息に似ていて、閉ざされていた時間そのものがわずかに身じろぎしたように聞こえた。扉の隙間から漏れてきた光は、塔の外で見ていた夕暮れの翳りとも、都市を満たしていた止まった黄昏ともまるで質が違う。もっと深く、もっと柔らかく、それでいて現実の光よりも鮮やかに、五人の瞳へ流れ込んでくる。
そして、扉が完全に開かれた。
その瞬間、彼らの目の前へ広がったのは――塔の内部とは到底思えぬ、青と緑の永遠だった。
果てしない草原が、視界の端から端まで、何ひとつ遮るものなく広がっている。風に揺れる銀青の穂が波のように大地を撫で、陽に照らされた草先の一本一本が、光の針になって揺れていた。空は限りなく澄んでいて、手を伸ばせば届くのではないかと思うほど近い。雲ひとつない蒼天の下、遥か遠くには小さな丘が浮かび、その稜線の向こうから流れてくる風は、どこか懐かしい匂いを帯びている。土の匂いでも花の匂いでもなく、もっと曖昧で、それでいて心の奥に直接触れてくるような匂いだった。
音もなく吹き抜けてきた風が、五人の頬をかすめ、胸元の衣を揺らした。
冷たさと温もり、乾きと湿り気、朝の気配と夕暮れの余韻――本来なら同時に存在しえないはずの感触が、いくつもの層になって流れていく。それはたしかに風だった。けれど、トレインにはそれがただの気流とは思えなかった。幾千もの季節を一度に孕んだ、“時の風”とでも呼ぶほうが近い。春の芽吹き、夏の熱、秋の枯れ、冬の沈黙、そのどれもが薄く折り重なって、ひとつの流れになっている。
五人のうち、最初に一歩を踏み出したのが誰だったのかも、やはり定かではない。
気づけば、全員が門の敷居を越えていた。
踏みしめた地は、たしかに地だった。足裏へ返ってくる感触は柔らかすぎず、硬すぎず、長く風に撫でられた草地らしいしなやかさを持っている。にもかかわらず、その確かさは現実の重力から来ているものではなかった。地面は存在している。けれど、それは土と石と根によって支えられた大地というより、“記録された世界”という名の忘却の残滓が、今だけ足場の形を取っているような、不思議な確かさだった。草は確かに大地へ根を張っているのに、その根元は土を吸っているのではなく、淡い光の層を吸い上げているように見える。よく見れば、草の影さえも少しだけ青く発光していた。
眼前には、果ての見えぬ草原が広がっていた。
ただ広いのではない。そこには、時間という名の深淵が横たわっている。
空は高く、どこまでも澄み切っていた。ところが、その空に浮かぶ雲だけは、ふつうの空のように気まぐれに流れてはいなかった。白い雲塊は、まるで何か古い意志に従うように、ゆっくりと軌道を描きながら天頂を巡っている。円を描き、交差し、離れ、また別の円を作り、再び寄り添う。その動きには偶然の揺れがなく、どこかで見た古い星図や神話の黄道図に似た整然さがあった。天球へ刻まれた神々の運行が、今もこの空に残響として現れているようだった。
そしてなによりも息を呑ませたのは、その沈黙だった。
鳥は鳴かない。虫の羽音もない。遠くで川が流れる音も、草を裂く獣の気配もない。けれど、完全な無音ではない。耳を澄ませば、足元の草が語り合うような、風が旋律を織るような、ごく微かな“記憶の囁き”が聞こえてくる。誰かがかつてこの場所で笑い、祈り、失い、そして二度と戻らなかった、その時間の断片が、風景のすべてへ織り込まれているようだった。
「……世界が、違う……」
ミリアが震える声で呟いた。
その一言が、この場所の本質をほとんど言い当てていた。ここはただの異世界ではない。“時の外”へ浮かぶ断層――世界と世界の狭間に漂う、“記録”と“忘却”の境界だった。
そしてその中心に、“ある影”があった。
遠く、草原の丘陵の先に、うずくまるように身を横たえる巨影。
最初、トレインにはそれが丘そのものに見えた。草の海の中で、不自然に盛り上がった稜線のように見えたのだ。けれど視線を凝らし、その輪郭が大地ではなく“ひとつの存在”の輪郭として理解された瞬間、背筋を冷たいものが走った。
それは龍だった。
巨大な翼を閉じ、瞳を閉ざし、眠るように静止している。首は長く、身体は大地へ半ば沈み込んだように伏せ、その鱗は光の加減で銀にも灰にも見える。死んでいるのか、生きているのか、遠目には判然としない。けれど、その姿にはどこか異質な、空気そのものを穿つような特異な気配が漂っていた。単なる巨大生物ではない。世界の構造へ一部噛み込んでいるような存在感だった。
トレインの足が、無意識に止まる。
その瞬間、まるで時間そのものがその龍を中心にきしみ始めたかのように、世界がほんのわずか傾いた。めまいとも違う。地平線が動いたわけでもない。感覚だけが、ほんの少し違う角度へずれた。
――何かが、蠢く。
それは龍の身体が動いたという意味ではない。むしろ、この草原世界そのもののどこか深い場所で、眠っていた概念がゆっくり身じろぎしたような感覚だった。
五人は、歩き始めた。
音もなく開かれた塔の扉の向こうに広がっていたのは、予想を裏切るほど穏やかで、同時に息を呑むほど異様な光景だった。蒼穹にたゆたう雲は、永劫の彼方から続いてきた物語の断章のように、一定の速度で、一定の弧を描きながら流れている。地平へ続く草原は黄金にも似た緑の海で、風が吹くたびにそのすべてが一斉に身を倒し、五人の足元から遠く遠く、地の果てまでさざ波を走らせた。
一歩ごとに、空気が変わっていく。
現実から少しずつ乖離していくような感覚がある。あるいは、過去と未来が混ざり合う狭間へ、足首から順に沈んでいくようでもあった。時間の輪郭が曖昧になり、耳へ届く音すらどこか遠い。すぐ隣を歩く仲間の足音でさえ、薄い靄を隔てた向こうで鳴っているように聞こえる。
「……まるで夢の中みたい」
セラがそう呟いた。
その声音には、怖れと驚嘆が半分ずつ混じっている。けれど誰もそれに言葉を返さなかった。皆、同じ感覚の中へ足を踏み入れていたからだ。ここを夢と呼べるならどれほど楽だろう、とトレインは思う。夢なら、目覚めれば終わる。ここは目覚めても終わらない種類の異常だった。
風が、再び微かに鳴いた。
その音に導かれるように、五人は草原の起伏を越えていく。進むほど、風景は緩やかに変化していった。地表へ刻まれた幾重もの輪のような痕跡――まるで巨大な時計の歯車が大地へ押しつけられ、その跡だけを残して消えたような模様が遠くまで連なっている。円環が幾層にも重なり、ところどころで欠け、また別の円と噛み合っている。その構造は自然地形ではありえない。かつてここで“何か”が繰り返され、その繰り返しの痕が地へ刻みつけられたのだろうとしか思えなかった。
丘が見えていた。
緩やかに隆起した草原の端。その向こうに何があるのかはまだ見えない。けれどそこへ向かって風が流れている。風そのものが、五人を呼んでいるようだった。
歩を進めるたび、重力が少しずつ変わっていくような奇妙な感覚が身体を満たしていく。肌に触れる風の温度も、足元の感触も、ほんのわずかな差異を孕んでいる。さっきまで軽く感じていた身体が、数歩先では急に重くなり、その次の瞬間には逆に地面へ押し返される力が弱まる。セラが右手で軽く空を払うと、指先の周囲に生まれた微細な魔素の光が、一定の高さまで上がったところで不自然にほどけて散った。
「ここ、空間ごと“呼吸”してるみたいね……」
彼女が小さく言うと、カイが足元へ視線を落としたまま答える。
「呼吸、っていうより、誰かの記憶に合わせて揺れてる。たぶん俺たちの歩き方にすら反応してる」
そのときだった。
ふいに、ミリアの足が止まった。
他の四人が振り返るより先に、彼女は微かに震えた声で呟く。
「……あれ……は……」
その視線の先、丘の手前の浅い窪地に、それはあった。
黒。血のような深紅。金属の鈍い煌めき。
異形の甲冑を纏い、折れた槍を握ったまま、ひとつの骸が草原に沈んでいた。
そして、その周囲に――いくつも。
死んでいた。
いや、死んでいるとすら言い切れない。
普通の屍なら、肉が朽ち、骨が露出し、やがて風化して土へ戻る。そこに横たわっていたものは違った。身体の一部が光の粒子となって崩れ始め、存在の輪郭そのものが空気へ溶けかけている。まるで“死んだ”のではなく、“記録から剥がれ落ちている”ような崩れ方だった。胸甲はまだ形を保っているのに、その下にあるはずの身体はところどころ透けて見え、手甲の先からは淡い灰の光が砂のように零れている。
「“空骸”……!?」
ミリアの声が、かすかに震えた。
その反応は明らかに、見慣れぬものへ驚いたという以上のものだった。知っている者だけが持つ、もっと根の深い恐れの響きだった。
「知ってるのか?」
トレインが問いかける。
ミリアは頷いた。だがその顔には、いままで見せたことのない種類の緊張が刻まれている。単純な敵意や警戒ではない。過去に聞かされた噂や記録だけでなく、もっと現実に近いところでこの名へ触れた者の顔だった。
「帝国ヨルムンガンドの……秘密部隊」
彼女は、言葉を選ぶようにゆっくり続ける。
「生者でも、死者でもない。時間の彼岸を越えて造られた兵器。……記録の残骸を纏った、兵たち」
その説明を聞いた瞬間、草原の静けさが別の意味を持ちはじめる。ヨルムンガンド。シヴァ大陸を本土とする軍事帝国。いまヴェントゥスの空へも影を落としつつある支配者。その秘密部隊が、なぜこの“時の外”にいるのか。なぜ、ここで空気へ溶けかけた骸になっているのか。
風が、ミリアの言葉をさらった。
その風は、今度はやけに冷たく感じられた。草原の穏やかさの中に最初から潜んでいた異物が、ようやく正体の端を見せたようだった。
トレインは窪地へ近づき、屈み込む。折れた槍の柄には、見覚えのない合金が使われていた。ヴェントゥスの浮遊艇や試験装備に使われる風晶合金とは違い、もっと暗く、冷たい質感を持っている。槍頭の根元には、細い導線のようなものが複数絡み、武器というより装置の一部のようにも見えた。甲冑の肩当てには、凍った蛇の頭にも似た紋が刻まれている。ヨルムンガンドの紋章だと、トレインにもすぐ分かった。
「空骸って……兵士、なのか?」
彼の問いに、ミリアは短く息を吐く。
「兵士、って呼び方で済ませていいかはわからない。帝国の内部でも、ごく限られた連中しか存在を知らないって話だった。死体を使うとか、時間を削るとか、記録から人格を引き剥がすとか……噂はいろいろあった。私は、ただの脅し話だと思ってた」
最後の言葉だけ、少し掠れていた。
セラが慎重に近づき、崩れかけた甲冑の縁へ魔導端末を向ける。光の線が輪郭をなぞるものの、計測結果は安定しない。存在の一部がすでにこの空間へ溶け始めているせいで、質量も熱も、まともに読めないのだろう。
「生体反応はない。魔素の流れも……普通の残留じゃない」
彼女は眉を寄せた。
「何かの“個体”が死んだ痕跡というより、“記録されていたものが解体されている途中”みたい」
「つまり……ここに長くいられないってことか」
カイが低く言う。
「俺たちも、この空間と噛み合わなければ、似たような崩れ方をする可能性がある」
その指摘に、五人のあいだへ短い沈黙が落ちた。
草原は相変わらず美しい。空はどこまでも青く、風は穏やかに揺れ続けている。なのに、その美しさのただ中に、こうして帝国の秘密部隊と呼ばれるものの残骸が転がっている。それだけで、この場所がどれほど危うい均衡の上に成り立っているのかが分かる。
トレインはもうひとつの骸へ目を向けた。そちらは半ば仰向けに倒れ、胸部の装甲が開いている。中にあるべき肉や骨は見えず、代わりに細い針の束みたいな機構と、時計の歯車にも似た複雑な金属部品が覗いていた。人間の内部を模して作られた道具のようで、逆にぞっとする。
「……ここへ、帝国が来てたってことか」
ジークが周囲を睨みながら呟く。
「それとも、こいつらも俺たちみたいに流れ着いたのか」
「どっちにしても、偶然じゃ済まない」
ミリアの声が硬くなる。
「空骸が動く場所に、ただの探索はない。帝国がここを知ってた可能性もある」
トレインは丘の先に見えている龍の影を思い出した。まだ遠く、はっきりした輪郭は掴めない。けれどこの草原の中心にある何かへ、帝国もまた手を伸ばしていたのだとしたら、自分たちは想像以上に危険な場所へ踏み込んでいることになる。
風がもう一度、丘のほうから吹いた。
その流れは先ほどまでよりもはっきりしていて、ただ彼らを撫でるのではなく、進む方向を示すような強さを持っていた。冷たいのに、拒絶の風ではない。むしろ“まだ間に合う”と告げるような、不思議な急かし方だった。
「……行くしかないな」
トレインが小さく言う。
誰も反対しなかった。
足元の空骸は、ここが安全圏ではないことを何より明確に示している。ここに留まって調べ続けるより、丘の向こうにある“この場所の核”へ急いだほうが、生きて戻るための可能性は高い。そう判断するしかなかった。
ミリアは最後にもう一度、崩れかけた骸を見下ろした。その眼差しには恐れもあったが、それ以上に怒りにも似たものが宿っていた。父の故郷を離れ、帝国の影から逃れ、ようやく辿り着いた“時の外”の場所にまで、ヨルムンガンドの秘密が食い込んでいる。その事実が、彼女の中の何かを静かに燃やしているのかもしれない。
「生きてる空骸が近くにいる可能性もある」
彼女は視線を上げる。
「全員、警戒を切るな。風の変化、足場、影の揺れ、全部報告。ここから先は探索じゃない。接触前提で動く」
「了解」
セラが短く応じ、端末を握り直す。
カイは弦装置の張りを確かめ、ジークは剣の柄へ手を添えた。トレインもまた、胸の奥に押し寄せるざわめきを呼吸の中へ押し込みながら、丘の先を見据える。
風が、ふたたび彼らを導いていく。
草原は相変わらず美しかった。どこまでも柔らかく広がる銀青の穂。高く澄んだ空。神話の残響を描く雲。けれど今、その美しさの中には確実に“死”の匂いが混じっている。記録の断絶による死。時間から切り離された死。人が人でなくなるかたちの死。
五人は、丘へ向かって再び歩き出した。
その一歩ごとに世界は静かに軋み、龍の眠る影はわずかずつ大きくなっていく。草の波間に残された空骸たちの沈黙が、背後から長く彼らを見送っていた。




