表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
SKY RUNNER -空の向こうへ続く風は-  作者: 平木明日香
第1章 空の旅路へ
PR
11/39

第八話 空を聴く者



高空乱流帯に突入した瞬間、空はそれまで見せていた表情を一変させた。


そこに広がっていたのは、単に風が強いという程度の領域ではない。島々のあいだを縫う風脈は何層にも折り重なり、ある流れが上昇しているすぐ隣で別の流れは鋭く沈み込み、その境目ではさらに横殴りの気流が鞭のようにしなっている。地上から想像する風というものは、せいぜい向きと強さが変わる程度の存在でしかない。高空乱流帯の風は、方向も密度も温度も一瞬ごとに姿を変え、しかもそれぞれが別個の意志を持つ獣のように空間のあちこちで牙を剥いていた。


潮流のように押し寄せる突風が、島影を削るように走る。


逆巻く下降気流が、見えない深みを開いて待ち構えている。


突如として生まれる真空の渦が艇の側面から空気を奪い、浮力と安定の感覚をまとめてさらっていこうとする。


それらはただ危険であるというだけではなかった。試験のために人工的に用意された罠ではなく、この空域が本来抱えている荒々しさそのものとして挑戦者たちを選別している。つまりここで問われているのは、用意された課題を解く能力ではない。空がその気まぐれと暴力性を隠さず見せたとき、なおそこへ身を置き、読み、選び、進み続けられるかどうかだった。


トレインは試験艇を大きく跳ねさせた。


真正面から押しつけてくる横風に対して、普通なら操縦者は反射的に機体を逆へ切り返してしまう。力を打ち消そうとする、その本能的な動きこそが乱流帯では命取りになる。風を敵として押し返そうとした瞬間、別の流れが背中から噛みついてきて、機体の軸をまとめて攫っていくからだ。トレインは操縦桿へ込める力をぎりぎりまで抑え、横から吹きつける風をあえて艇へ受けさせた。受け止めるのではない。潰すのでもない。流れの輪郭を壊さないまま艇の角度をほんのわずかにずらし、力をそのまま前へ逃がす。風を殺さず、抱き込み、自分の進む力へ組み替える。


「――ッ!」


喉の奥で息が詰まる。頬を打つ風の冷たさはすでに痛みの領域へ踏み込んでいた。目を開いているだけでも乾いた刃で瞼を削られるような感覚がある。それでも視線を逸らせない。風の筋がどこで折れ、どこで膨らみ、どこへ抜けようとしているのか、その一瞬の兆しを見落とせば、試験艇はすぐさま乱流の餌になる。


前方で、一人の参加者が風紋雷の炸裂に巻き込まれた。


青白い閃光が島影の上で弾けたかと思うと、そのすぐ下を通過しようとしていた機体が、見えない拳で殴りつけられたように横へ吹き飛ぶ。風紋雷は雷という名を持ちながら、火や熱で焼くものではない。過剰な魔力が大気の流れそのものを一瞬でねじ曲げ、そこへ触れたものから姿勢制御を奪ってしまう現象だ。巻き込まれた参加者の機体は尾を振るように大きく回転し、そのままコースの外へ弾き出されて視界から消えた。後方では安全回収用の結界が光ったらしく、薄い膜のようなものがちらりと見えたものの、そこへ意識を取られている暇はない。


すれ違う者たちも、みな限界ぎりぎりの操縦を強いられていた。


斜め下方をミリアの赤い髪が掠めていく。彼女は島影の最も暗い部分へ、まるで最初からそこに道が見えていたかのような迷いのなさで潜り込み、逆巻く風脈の裂け目へ姿を消した。直前まで人が通れるようには見えなかった場所が、彼女の機体が抜けたあとには確かに一本の航跡として空へ残っている。その鮮やかさに一瞬だけ目を奪われかけ、トレインはすぐに意識を自分の正面へ戻した。他人の技量へ感嘆している場合ではない。いまこの空域で生き残るには、自分の風を読むしかない。


彼は息を吸った。


肺へ入り込む空気は冷たく、薄く、刃物めいている。その冷たさがかえって頭を冴えさせた。乱流帯へ入ってからずっと、視界も、耳も、肌も、情報で埋め尽くされている。どれも重要で、どれも見逃せない。そう思うほど感覚は散りやすくなる。そんなとき、ダリオンの声がまた胸の奥で静かに響いた。


――風は、言葉を持つ。

  耳を澄ませ。

  空を聴け。


何度も聞いた教えだった。幼いころは綺麗な言い回しにしか思えなかった。風に言葉があるはずがない、と心のどこかで決めつけてもいた。いまこの瞬間、その意味は理屈より先に身体へ染み込んでくる。空は本当に語っている。問題は、こちらが混乱と恐怖に押されて、その声を雑音と取り違えてしまうことだけだ。


トレインは、ハンドルを握る力を少しだけ抜いた。


ほんのわずかな変化だった。強く握っていれば安心できる気がする。機体を自分で支配している気になれる。けれどそれは錯覚だ。握りしめすぎた手は細かな振動を拾えない。自分の意志ばかりを押しつける腕では、空の変化へ応える余地がない。艇と自分の体と、空気の震えとを、一つの輪へ溶かすように意識する。操縦するというより、機体を通して風へ触れつづける感覚だった。


呼吸を、風に合わせる。


心臓の鼓動を、空のリズムへ重ねる。


その瞬間から、乱流帯の見え方が少し変わった。


先ほどまでは敵意ある罠の集合にしか見えなかった風の層が、それぞれ異なる響きを持つ音の束に思えてくる。右からくる横風は低く唸り、上層から落ちてくる下降気流は細く切れるような高音を持ち、島の陰で生まれる渦は喉の奥で転がるような鈍い響きを帯びていた。実際に音として聞こえているわけではない。感覚の全てが、風の癖を一つの“聴こえ”として再構築し始めたのだ。


島影が近づく。渦が目の前で生まれる。


それでも、もう怖くはなかった。


危険がなくなったわけではない。牙は依然として剥き出しで、わずかでも選択を誤れば簡単に喰われる。それなのに恐怖が形を変えた。さきほどまでは、空のあまりの複雑さに飲み込まれる側の怖さだった。いまは違う。空が示してくる無数の道の中から、正しい一本を見つけ出せるかどうか、その集中の深さだけが全身を満たしていた。


空が、教えてくれている。


ここを通れ、と。


今だ、と。


トレインは操縦桿をわずかに傾けた。


試験艇が、まるで生き物のように応えた。


島と島のあいだの、ごくわずかな隙間へ滑り込む。左側の岩壁が視界を圧迫し、右手では風紋雷の閃光が炸裂した。青白い光が背後で弾け、爆ぜた風圧が艇を軽く持ち上げる。普通ならそこで軌道は乱れる。トレインは浮いたぶんだけ重心を落とし、反射で戻ろうとする機体を“落ち着かせる”ように撫でる。かすりもしない。ほんの紙一重で、けれど怖ろしく自然に、その危険の横を抜けていた。


すれ違う挑戦者たちの叫び声が風に千切れて飛ぶ。


魔力の炸裂音が島影で反響する。


風の轟きが、絶え間なく頭上と足元を行き来する。


そのすべてが音楽のようだった。


混沌が秩序へ見えたわけではない。乱れたままのものを、そのまま一つの大きな律動として受け取れるようになったのだ。ごう、ごう、ごう、と風がうねる。それは怒号ではなく、呼び声に近い。どこへ身を預ければよいのか、どこへ逆らってはいけないのか、無数の流れがそれぞれの音色で示している。


空が、生きている。


風が、すべてを導いてくれる。


その感覚に触れた瞬間、トレインは思わず笑っていた。


こんなに、心が澄んだことはなかった。


速く飛ぶことだけが楽しいのではない。勝ちたいという気持ちだけでもない。空そのものと自分の身体が初めて本当の意味で噛み合ったような手応えが、笑わずにいられないほど嬉しかったのだ。高空の迷宮、そのただなかを彼は駆けた。迷路の外側から道を探すのではなく、迷宮の心臓の鼓動へ自分の鼓動を合わせるようにして。


風が牙を剥き続ける中、試験艇は意志を持った獣のように空を裂いていた。


右手には崩れかけた小島の影が迫り、左手では風の渦が気圧のうねりを巻き上げている。一瞬の判断を誤れば機体は岩へ叩きつけられるか、渦へ巻き込まれて姿勢を失う。そんな危うさの連続であるはずなのに、トレインの意識はいま奇妙なほど静かだった。危険を見て、恐れて、身を縮めるのではない。危険の輪郭が見えるからこそ、その縁へそって最も鋭く通り抜ける道が見える。


気流が交錯する高空層――風の十字路を抜けたとき、試験艇が大きく跳ねた。


上下左右の感覚が、ほんの一瞬だけ曖昧になる。空間が歪んだような、重力そのものが横へずれたような、不快で、それでいて高空ならではの興奮を伴う感覚だった。


「……くッ!」


トレインは歯を食いしばり、機体を斜めに倒しながらその歪みへまともに抗わず、風へ身を預ける。突風を背中へ乗せ、下降気流の腹を掠め、その反動を使って島の裂け目へ滑り込む。風圧は骨の奥まで響くほど強い。肩と腰が軋み、息を吸うたび胸が薄く痛む。それでもその痛みすら喜びに近かった。いま自分は空の“真ん中”に触れている。試され、押し返され、なお進めている。その事実が全身を熱くした。


前方では三機の試験艇が接近していた。


そこは「スパイラル・シアター」と呼ばれる領域だった。魔力風と自然風がせめぎ合い、渦を巻き、気流そのものが巨大な舞台の幕のように乱舞する場所。教本では危険区域として簡潔に載っていたものが実際に目の前へ現れると、もっと禍々しく、もっと美しい。風は旋回しながら何層もの輪を描き、その間へ触れるたび空気の色がわずかに変わる。まるで空そのものが踊っているようだった。


参加者たちはそれぞれの技術と直感で、その舞台の上を舞っていた。


一機は反転した風へ飲まれ、回転しながら後方へ押し戻される。どうにか立て直そうと機首を上げたものの、そこへ別の横風が噛みつき、機体は大きく外れていった。もう一機はその隙を見逃さず、急旋回で上昇気流へ乗り、一気に前方へ抜ける。無理をすれば危険、躊躇しても置いていかれる、そのわずかな境界線の上で、誰もが空と駆け引きを続けていた。


トレインは、風の音に耳を澄ませた。


ごう、ごう、ごう――。


それは怒号ではない。呼び声だ。


この風に、乗れ。


声にならない声が、はっきりそう告げていた。視線の先で、渦の外縁が一瞬だけ緩む。強い流れ同士が衝突したあとに生まれる、ほんの短い“間”だ。その隙を逃せば、また渦は閉じる。トレインはためらわず、艇の向きをわずかに修正した。


それでも地を這うような風が背後から喰らいついてくる。


ハンドルを握り、全身へ力を通す。腕だけでは足りない。肩、背中、腰、膝、足裏、全てを一つの軸へまとめ、上半身全体で操縦桿を倒した瞬間、試験艇は矢のように加速した。風が後ろから押したのではない。前方へ抜けるべき流れへ、機体がようやく正しく噛み合ったのだ。


視界が、一気に広がる。


旋回中の浮遊島の背を掠め、風魔晶の粒子が光の尾を引く。乱流帯の最深部、その奥にぽっかりと空の開口が見えた。風の圧がそこでわずかに抜け、淡い青と金色の境界が静かに広がっている。遥か向こうでは、天穹の曲線がゆっくりと整いはじめていた。あそこが乱流帯の出口だ。まだ遠い。それでも、確かに在る。


トレインは胸の奥がざわつくのを感じた。


出口が見えるということは、そこへ向かって風の流れも収束していくということだ。出口があるなら、その手前には必ず最後の噛み合わせが生まれる。空は簡単には通してくれない。むしろ終わりが見えたところで、最も深い牙を隠してくるはずだ。そんな予感が、経験ではなく風の手触りから伝わってきた。


そして、その予感は正しかった。


出口の手前、空間の中央を横切るように、巨大なうねりが現れた。


最初は雲の影かと思った。けれど違う。それはもっと明確な形を持っている。長大な気流が一つの生き物の胴体のように捻れ、先端では牙のように尖った風圧の束が幾本も立ち上がっている。風が流れているのではない。風そのものが竜の姿を借りて、空間を横断しているようだった。


“空の牙”――スカイファング。


超大規模気流のうねり。高空乱流帯の終端付近に、ごく短いあいだだけ形成されることがあると聞いた現象であり、多くの挑戦者を最後にふるい落とす本当の牙。単なる突風の束ではない。複数の風脈がねじれ合い、巨大な一本の圧として動き続けるため、正面から触れれば艇ごと薙ぎ払われる。迂回できるほど小さくもない。見つけた時点で、乗り手は必ず選択を迫られる。


トレインは目を細めた。


まだ終わりじゃない。


ここまで抜けてきた高空乱流帯そのものが前座だったのではないかと思えるほど、その風の竜は圧倒的だった。出口は向こう側にある。けれどそのあいだへこの巨大な気流が横たわっている。速さだけでは突破できない。度胸だけでも足りない。風の声を、ここでもなお聞き取れるかどうかが問われる。


これが、空域走破試験――本当の最後の牙だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ