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SKY RUNNER -空の向こうへ続く風は-  作者: 平木明日香
第1章 空の旅路へ
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第七話 風の牙



空を裂く音とともに、空域走破試験が始まった。


開始の合図はただ耳へ届くだけの音ではなかった。高く鋭いその響きは試験空域に張り巡らされた風脈の層を一斉に震わせ、空の奥に眠っていた見えない流れを呼び起こす呪文のように参加者たちの胸の内側へまで突き抜けてきた。観測台から解き放たれた統一試験艇はそれぞれが一瞬だけ静止したかのように見えたあと、風を掴んだものから順に、弾かれるように前方へ飛び出していく。白銀の艇体が陽光を反射し、空の上に何本もの細い航跡が生まれる。祝祭の開幕を告げる華やかな音色はすでに遠く、ここから先の空には挑戦者の呼吸と機体の唸りと、生きた風の声だけが残されていた。


トレインは試験艇のハンドルを握り込み、風魔結晶の出力を一気に解放した。


途端に、機体が跳ねた。


正確には暴れるのではなく、抑え込まれていたものが本来の居場所を思い出したように、浮力と推力が一息に解き放たれたのだ。風を捕まえたその瞬間、重力という感覚が身体の中から薄れていく。腹の底がわずかに浮き、血が一度だけ上へ引かれ、それからすぐ前へ、さらに前へと引き寄せられる強い感覚が全身を貫いた。視界の奥行きが変わる。立って見ていたはずの空間が、いまは自分を呑み込みながら流れていく立体へ変わっていた。


目の前には、開けた空が広がっていた。


左右には漂流島の群れが不規則な間隔で浮かび、下には濃い雲海が重たくうねっている。上空には逆巻く風脈の筋が薄く見え、そのさらに向こうでは巨大な浮遊岩の影が陽を遮るように流れていた。どこを見ても平面ではない。島の位置ひとつ、風の色ひとつ、高度の違いひとつが、すべて三次元の圧を伴って押し寄せてくる。視界の中に収まっているものの量が、アストリアの断崖から眺めていたころとは比べものにならないほど多い。そのすべてを一瞬で選り分け、読むべきものと無視すべきものを決めなければならなかった。


トレインは、考えるより先に判断した。


(右――)


右側に見えたのは、わずかに傾いた小さな島だった。岩肌の張り出し方と周囲の草の揺れ方から、島の右脇には斜めに切り込む風が走っている。真正面から突っ切るよりも、そこへ身体ごと預けたほうが加速できる。理屈で組み立てたというより、訓練で積み重ねてきた感覚がその場所を一つの“通るべき道”として先に掴んでいた。


機体をわずかに傾け、身体を低く伏せる。


艇体の片側が風を噛み、斜めから吹き込んでくる流れが、押し返すのではなく前方への力へ変わる。試験艇はトレインの意図に応えるように、島の脇を滑るように駆け抜けた。操縦桿に伝わる手応えは《スウィフトウィング》より硬質で、少しだけ融通が利かない。けれど癖が少ないぶん、風へ乗れたときの伸びは素直だった。機体の重さもいまは利点になる。細い気流へ弾かれすぎず、一定の軌道を保ったまま加速できるからだ。


周囲では、他の挑戦者たちもすでに空を翔けていた。


左手にはミリアの姿が見える。彼女は軽やかという言葉がそのまま形になったような操縦で、トレインのすぐ横を並走していた。無駄な動きがない。艇の姿勢を大きく変えることなく、体重移動だけで流れの癖を読み、滑り込むべき場所へ自然に入り込んでいく。ただ勢いで飛んでいるのではなく、その視線の鋭さから細かな風脈の変化をきちんと拾っていることが分かった。


少し前方では、耳にイヤホンのような音受け具を垂らした少年が島と島のあいだに生まれる細い気流を器用に利用し、風のトンネルとでも呼ぶべき狭い空間を突き抜けていく。あれほどの細道は普通なら避けたくなる。けれど彼は、空間そのものを楽器の共鳴箱のように捉えているのかもしれない。耳で風を読み、最も響きのよい道筋を見つけているように見えた。


空は、生きている。


その実感が、試験開始からわずかな時間で何度も身体を貫いた。流れは固定されていない。島の位置も雲の厚みも、風脈の太さも、刻一刻と変わり続けている。一瞬前に安全だった場所が、次の瞬間にも同じ顔をしている保証はどこにもない。空域走破試験が単なる速さの競争で終わらない理由は、まさにそこにあった。速いだけの者は空に置いていかれる。慎重すぎる者は流れに追い越される。生きた空を相手にするとは、自分もまたその生きた変化の中で選び続けることなのだ。


一瞬でも判断を誤れば、風の牙に囚われてコースアウトする。


(集中しろ)


トレインは心の中でそう叫んだ。声に出していないはずなのに、その言葉は不思議と胸骨の内側へはっきり響いていた。呼吸を整える。吸う息と吐く息のあいだで、風の強さを測る。視界の情報を拾うだけでは足りない。耳で、肌で、膝で、背中で、機体の微かな振動からも流れを読む。島影をかすめながら浮遊岩のあいだを抜けると、跳ね返った気流が艇を左右へ揺さぶった。トレインは咄嗟にハンドルを微調整し、揺れを正面から止めようとせずわずかに逃がすようにいなす。強引に抑え込めば機体は反発する。流れの癖へ沿わせながら自分の意図した軌道へ戻していくほうが、結果的に早くて安定する。


遠くに、次のチェックポイントが見えた。


光る輪郭を持つ浮遊標識が、淡い青白さで空に浮かんでいる。そこを通過すれば第一セクションはクリアになるはずだ。距離感だけ見れば、十分に届く。いまの勢いを保てば、決して遅い位置でもない。トレインは一度だけ深く息を吸い、進路の先を改めて見定めた。


そのとき、視界の端で何かが狂った。


空気が、ねじれている。


漂流島の一つが、微かに軋むような音を立てながら揺れていた。大きさは中規模、上面に草と低木があり、側面の岩肌が複雑にえぐれている島だ。最初はただ風に煽られただけかと思った。けれどその島の下側に溜まっていたはずの気流が急に崩れ、輪郭のまわりへ妙な波が立ち始めている。浮遊礎が不安定になったとき特有の、不自然な沈み込み方だった。


(あれは……!)


トレインは即座に悟った。


落ちフォールアイランド


空に浮かぶ島の一つが、風脈の変化に耐えきれず、ゆっくり高度を落とし始めているのだ。訓練や教本で何度も名前だけは聞いてきた現象であり、ダリオンも「見かけたら絶対に甘く見るな」と繰り返していた。浮遊島は永遠に一定の高さを保っているわけではない。地脈と風脈の均衡が崩れれば、一時的に沈降し、周囲の空域を一気に巻き込んで流れを乱すことがある。


島が落ちれば、風の流れも一気に荒れる。


突風。渦。乱流。島の質量が動くことで生まれる下降流。岩の剥離。視界の悪化。ひとつの異変が周囲の空間へ連鎖し、もともと繊細な均衡で保たれていたコース全体が、わずかな時間だけ凶暴な顔へ変わる。直進すれば最短だ。現在の位置と角度を維持すれば、もっとも速くチェックポイントへ届く。けれどそのままでは島崩れと乱流に確実に巻き込まれる。大きく迂回すれば安全圏へ逃げられるだろう。その代わり、タイムは大きく失う。最初のセクションから後れを取れば後続の混雑に飲まれ、先の高空乱流帯でさらに不利になる。


(どうする……?)


迷いは一瞬だった。


ほんの刹那、心の中で二つの道がぶつかる。安全を取るか、風を信じて抜けるか。そのとき、頬を風が強く叩いた。偶然の突風だったのかもしれない。流れの変化がたまたま顔へ触れただけかもしれない。それでもトレインには、その風が確かに一つの方向を指し示したように感じられた。


行け。


誰の声でもない。けれど、そう言われた気がした。


トレインはハンドルを強く握り締めた。


迷わない。


空を信じる。


風を、信じる。


目指すのは真正面。崩れかけた島の影を突き抜ける、ただ一筋の細い風の道だ。まだ完全には見えていない。けれど、落ち島の周囲すべてが死地になるわけではない。沈む島が空間を歪めるなら、その歪みのどこかに、流れが噛み合う裂け目が必ず生まれる。そこを掴めるかどうか。問われているのは、まさにそれだった。


トレインは試験艇を駆った。


突き出した島影が、視界を塞ぐ。重たい岩の塊が空中で軋み、ゆっくり沈みはじめていた。島の下面へ流れ込む空気は濁り、周囲の雲片が吸い寄せられるように回り込んでいる。見ているだけで普通の空ではないことが分かった。風が筋を失い、ぶつかり、裂け、またぶつかる。空そのものが歯を剥き出しているようだった。


(行ける……!)


自分に言い聞かせるように息を吐く。視線は島の中心ではなく、その縁とその影が作る空隙へ向ける。岩の張り出しの内側、沈降する重さに押されて風が逃げる場所。そこにほんのわずか、細く走る道が見えた気がした。


現実は甘くなかった。


島がさらに傾いた瞬間、空気の流れが大きくねじれ、突風が横殴りに試験艇を叩いた。


「っ、ぐ……!」


艇が大きく横滑りする。身体が遠心力で外へ引っ張られ、腰が浮きかける。操縦桿を握る手が一瞬だけぶれ、機体の鼻先がわずかに沈んだ。高度が落ちる。重力が急に思い出したように身体へ戻り、腹の底が冷たくなった。


(まずい!)


焦りが胸を満たしかける。


そのときだった。


耳の奥で、かすかな声がした。


――風は、声を持つ。

  だが、聞こうとしなければ語らない。


ダリオンの声だった。何度も聞いた教え。工房で、断崖で、風見塔の下で、耳にたこができるほど聞かされた言葉。それがいま過去の記憶としてではなく、この乱れた空の中で“いま必要な答え”として胸の中へ響いた。


トレインは、ぐっと目を閉じた。


焦るな。空を、感じろ。


視界を閉ざすのは危険だと頭のどこかで理解していた。それでも目から入る情報が多すぎるいまは、一瞬だけ他の感覚へ意識を預ける必要があった。深く息を吸う。冷たい空気が肺の奥まで刺さる。風の流れを耳で聴く。皮膚で感じる。背中と膝へ伝わる機体の揺れを拾う。落ちていく島が引き込む下降流、その縁で跳ね返る横風、岩肌に当たって砕ける細かな乱れ。そのすべてが無秩序な騒音ではなく、よく耳を澄ませば意味を持った声として、トレインの周囲でうねっていた。


滑る風。跳ねる気流。沈む空間。


そのすべてが、彼へ語りかけてくる。


(……今だ)


風の道は、ひとつだけだった。


島影の陰に生まれた小さな裂け目。正面からではなく、ほんのわずか下へ潜り、沈み込んだ直後に左上へ跳ねる流れ。その狭い一瞬へ機体の角度を合わせれば、渦の中心へ呑まれずに島の縁をかすめて抜けられる。見つけたというより、空のほうから「ここだ」と示されたような感覚に近い。


トレインは目を開き、ハンドルを切った。


艇がぎりぎりの角度で島影をかすめる。岩の断面が手を伸ばせば触れそうなほど近い。真横から唸るような風が襲い、上では剥がれた岩片がいくつか弾かれるように飛んだ。けれど、さきほどまでの混乱はなかった。自分の行く道が見えている。そこへ身体を通すだけだと、芯の部分で理解していた。


突風が頭上を走り抜け、岩が真横で軋む。


それでもトレインはぶれなかった。


(風を、信じろ)


身体を艇へ預け、重心を低く落とし、腕ではなく背骨から機体を操るように意識を変える。統一艇は《スウィフトウィング》より重い。ふだんなら扱いづらさと感じる差が、いまはむしろ荒れた空間へ楔を打つような安定感になっていた。空気を切り裂く音が耳を突き抜ける。ひとつ、ふたつと飛び散る岩片を避けるたび、感覚がさらに研ぎ澄まされていく。目の前に広がるのは、ただの空ではなかった。渦巻く乱流、引き寄せる下降気流、予測不能な突風、生き物のようにうねる空そのものが、彼の行く手を試すように牙を剥いていた。


その最中、悲鳴が上がった。


視界の左端で、緑色のマントを翻していた参加者の一人が、乱流に巻き込まれたのが見えた。機体が一度大きく傾き、そのままぐるりと回転する。立て直そうとしたのか操縦桿が乱れ、さらに逆方向の風を噛んでしまった。高度が落ちる。落ちていく彼の叫びが風に千切れながら遠ざかる。


「しまった!」


叫びの主はすぐに緊急用の浮遊バリアへ捕らえられた。試験空域の各所へ配置された安全機構が、脱落者の生命だけは確保するために働いたのだろう。彼の身体は薄い光の膜へ包まれ、機体と切り離された状態で後方の回収路へ流されていく。命は助かる。それでも、もう試験を続けることはできない。ここで終わりだ。


(気を抜けば、すぐにこうなる……!)


トレインはぐっとハンドルを握り直した。落ち島を抜けつつあるいまも、気を緩める余地はない。自分が突破できたからといって、それで第一関門が易しいわけでは決してないのだ。むしろ空は、ほんの少しの油断を待ち構えている。


それでも彼は、落ち島の影を抜けた。


島の縁を掠め、最後の乱れを背後へ置き去りにしたとき、急に視界が開けた。空気の重さが変わる。さっきまでの濁った流れが嘘のように剥がれ、前方へ細く通る追い風が生まれている。トレインはその風を見逃さず、すかさず機体を伸ばした。チェックポイントの標識が目前へ迫り、青白い輪郭を正面から通過する。標識の表面を流れていた光が一瞬だけ明るくなり、通過認証を示す短い音が鳴った。


第一セクション、通過。


ほんの一瞬だけ、胸の奥で熱が弾ける。けれど喜ぶにはまだ早い。前方にはすでに、次なる景色が立ち上がってきていた。


――高空乱流帯。


いくつもの小島が垂直に重なるように浮かび、その間を太い風脈がうねりながら通り抜けている。まるで巨大な風の迷宮だった。上下へずれた島影のせいで見通しは悪く、流れは一本ではなく、何層にも分かれて互いに干渉している。安全そうに見える中段は実際には風の衝突が激しく、上層へ上がりすぎれば風紋雷に触れる危険がある。下へ潜りすぎれば島の下部に溜まった淀みへ捕まり、速度を失うだろう。


その上空では、雷光に似た閃きが散っていた。


風魔結晶の過剰な共鳴が大気中で炸裂し、強制的に風向きを変えてしまう現象――風紋雷 《ウィンドクラッシュ》。自然現象でありながら人工的な魔力のような鋭さを持ち、触れれば機体制御を一瞬で狂わせる。教本の挿絵で見たときはどこか非現実の危険に思えたものが、いまは本当に目の前で青白く脈打っている。


(ここを、抜ける……!)


トレインは呼吸を整えた。


落ち島は突破した。けれど試練はむしろ、ここからさらに本性を見せてくるのだと空全体が告げている気がした。艇の魔力出力を微調整する。過剰に飛ばせば制御を失う。抑えすぎれば後続と風の圧に飲み込まれる。全身の神経を研ぎ澄ませながら、トレインは次なる空域へ機体を向けた。


空は、まだ試している。


どこまで自分が空を信じられるかを。


そして、どこまで自分が“風と共に在る者”になれるかを。


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