十一 ミナキの夢
「それじゃ、すっかりよくなったのね。時々、声が出なくなることもない?」
シーリャの質問に、ミナキはほほえんだ。
「はい。特にそういう不調もないので、もうすっかりよくなったみたいです」
そういえば、シーリャの前で声を出して話すのは初めてのことだ。何だか誇らしくて、ミナキはにこにこしてしまう。
「よかったわね。わたしがしてあげられたことは、ほんの少しだったけれど、医者をやっていてこんなに嬉しいと思ったのは、久し振りよ」
シーリャはあまり見せることのない、美しい微笑を浮かべると、ミナキの隣に座るカヌトに目を向ける。
「カヌト、あなたもよく今まで、ミナキさんを支えたわね」
「ありがとう、シーリャ。実はね、もうひとつ報告があるんだ」
カヌトは首元を指差して見せた。
「金鎖の呪いが解けたんだ」
シーリャが目をみはる。ミナキがしゃべり始めた時といい、今日のシーリャは驚いてばかりだ。
「え? いつ解けたのよ?」
「一月前に。正確には、自分で解いたんだけどね。もちろん、師匠も知っていることだし、これで晴れて自由の身というわけさ。面倒なことが色々あって、報告にくるのが遅くなってしまったけどね」
この一か月間、本当に色々なことがあった。
ミナキたちはほとんどの時間をニギ支部で過ごし、聴取を受けたり、ニギとヒョウ、二国間の交渉の経過を聴いたりしていた。
中でもミナキを歓喜させたのは、ヒョウとニギの間で捕虜を交換する条約が結ばれたことだ。これで、連れ去られた村の人たちも、故郷に戻り、村を再建することもできるだろう。カヌトの故郷であるアワントに関しても、協会の仲立ちにより、返還の交渉が進められていると耳にした。
それにもうひとつ。カヌトの情報を漏らした協会内の者は、アイジェスによって精査され、処罰された。その中には、ロウと喧嘩騒ぎを起こした少年の父親も含まれていたらしい。その話を聞かされて、ロウは深く頷きながらも、神妙な顔をしていた。
シーリャが表情を綻ばせる。
「よかったじゃない。これで心配の種がひとつ減るわ。ところで、これからどうするつもり?」
「禁法具専門の解師にならないかって話がきてるよ。わたしは職人のほうが、性に合っているんだがね。まあ、師匠をやりながら、ゆっくり考えていくさ。……あ、それともうひとつ。シーリャ、君に会いたいって人がもう一人きているよ」
シーリャが問いかける前に、カヌトは座敷に戻り、カゥを連れてきた。意外だったらしく、シーリャはまた目を丸くした。
「どうしたのよ、カゥ。珍しいじゃない」
カゥは頭を掻きながら、ぼそりと言った。
「……実は、またニギ支部で働くことになってさ。一応、報告にきた」
二人の様子を見守っていたカヌトが、ミナキに目配せすると立ち上がる。
「じゃあ、わたしたちはこの辺で失礼させてもらうよ。またお世話になることもあるかもしれないから、よろしく」
ミナキも慌てて身を起こす。
「シーリャ先生、ありがとうございました」
カゥとシーリャが何か言う前に、カヌトは足早に診療所の外に出た。急いでカヌトのあとを追ってきたミナキを振り返り、カヌトは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「実はね、子どもの頃から、カゥはシーリャのことが好きなんだよ。なのに、全然進展しない。たまには、二人っきりにしてあげないとね」
「そうだったんですか。全然気づきませんでした」
答えながらも、カヌトの口から、好き、という言葉を聞いて、ミナキはどぎまぎしてしまった。そのあとで、あることに気づく。
(ということは、先生はシーリャ先生のことを好きなわけじゃないんだ)
かねてから抱いていた疑問が解けて、ミナキは安堵した。カヌトが診療所の前を見回す。
「ロウはまだ戻ってきていないようだね。少しその辺をうろうろするか」
ミナキとカヌトがシーリャに挨拶にいく前に、ロウとは診療所の前を待ち合わせ場所にして別行動をとったのだ。二人きりで街を歩けることが嬉しくて、ミナキの足取りは弾む。カヌトは屋台の立ち並ぶ通りまで歩いていき、ミナキに声をかけた。
「ミナキ、何が食べたい?」
屋台を見比べたあとで、ミナキは好物の名を口にした。
「サーニンナ・ニムナがいいです!」
サーニンナ・ニムナはニギの甘味で、クーティ(ココナッツミルク)や砂糖、塩で炊いたもち米にクーティをかけ、蕩けるように甘い果物のニムナを添えたものだ。注文したサーニンナ・ニムナを受け取ると、屋台に並んだ椅子に腰かけ、ミナキたちは匙を動かし始めた。
カヌトがひとつ頷いた。
「おいしいね」
「はい、おいしいです」
多分、今、サーニンナ・ニムナが何よりもおいしく感じるのは、カヌトが隣にいるからだ。ミナキはおずおずとカヌトに話しかける。
「……あの、先生」
「何だい?」
「わたし、将来、先生と同じように解師になろうと思うんです。目指すものがロウと同じなのはちょっとおもしろくないけど、自分に向いてるみたいだし」
「うん、いいと思うよ。君ならきっといい解師になれる」
「それと、もうひとつなりたいものがあって……」
「うん」
「えーと、今はいいです。食べ終わってから言います」
ミナキは半ば赤面して、食べることに集中した。
お腹が膨れたあと、ミナキたちは近場にある公園に向かった。まだ話さねばならないこともあるので、市場やお店を回るのは後回しにして、ミナキが場所を提案したのだ。
公園に着くと、雑踏を離れた人々が休んだり話したりしていて、静かな雰囲気だった。遊んでいる子どもたちのはしゃぎ声が、たまに響くくらいだ。花壇には色とりどりの花が咲き乱れ、目を楽しませてくれる。雑談をしながら、空いていた椅子に二人並んで座ると、カヌトが水を向けてきた。
「それで、もうひとつのなりたいものって?」
「は、はい。あの……」
頬が熱くなり、心臓が早鐘をついている。ミナキは口ごもったあとで、意を決して切り出した。
「わたし、先生のお嫁さんになりたいんです」
間を置いて、カヌトがぽかんと口を開ける。
「――は?」
「わたし、先生のことが好きなんです。……ダメですか?」
「いやいや、ちょっと待ちなさい。――ミナキ、君は今、幾つだっけ?」
「今月で十五になりました」
「十五……」
額を人差し指で押さえ、カヌトはうんうんとうなっている。ミナキは横からそっと言い添えた。
「わたしの村では、娘は十五くらいから結婚していましたけど……おかしいですか?」
「いや、おかしいとか、そういう問題じゃなくてだね……ほら、わたしたちは師弟だし、今はまずいよ。それに、九つも歳が違うし――そうだ!」
ものすごく困った顔をしていたカヌトの目が、ぱっと輝いた。
「君の修行が終わる三年後に、気が変わっていなかったら、もう一度告白してくれ。うん、それがいい」
「そうだそうだ」と何度も頷くカヌトを前に、ミナキは絶望的な気持ちになった。三年も待つなんて、あまりにも長すぎる。何も言えないまま、ミナキはただ恨めしい気持ちでカヌトを見つめていた。
今にも泣き出しそうな顔でこちらを見上げてくるミナキを、カヌトは狼狽しながら見つめ返していた。よりにもよって、シーリャのもとにカゥを送り込んだその直後に、こんなことになるとは、思ってもみなかった。一体何なのだろう、この巡り合わせは。
そういえば、ミナキとの間に何かあったら責任を取れるのか、と、以前シーリャに、詰め寄られたことがある。何もしていないのに、何故、責任を取らなければならないのだ。
とはいえ、ミナキを泣かせないために、カヌトは頭を最大限に回転させて、言葉を選んだ。
「ほら、三年なんてすぐだよ。君にとっては長いかもしれないけど、わたしにとってはすぐだ」
「……でも、三年待ったら待ったで、断られるかもしれないでしょう? そんなの嫌です。断りたいなら、今、断ってください」
痛いところを突かれ、カヌトは目を泳がせた。ミナキはそんなカヌトを許さぬように、真剣な眼差しを送ってくる。本当に、この娘は何に対しても、一生懸命だ。一年以上、一緒に生活してきたが、どんなに辛い目に遭っても、彼女の美点は少しも損なわれることはなかった。
(他の男に盗られたら、癪だろうなあ)
そう思ってしまった自分に、カヌトは心底びっくりした。だが、しばしの放心のあと、人の本音とは案外そういうものなのかもしれない、と思い直す。
世界は広い。いつかミナキも、自分以外の男に、よさを見出すかもしれないし、自分のことをずっと好きでいてくれるのかもしれない。ミナキが他の男のもとにいきそうになったら、全力で止めにかかるかもしれないが、それはまだ先の話だ。もちろん、彼女に嫌われないように振る舞う必要はあるが。
そう考えると、不思議と落ち着いてきて、カヌトはまっすぐにミナキの瞳を見つめた。
「断らないよ。だから、三年待ちなさい。それまでは、時々、こうしておいしいものを食べにこよう。いいね?」
「……あの、それって、わたしとおつきあいしてくださる……ってことですか?」
「……そういうことに、なるのかなあ」
曖昧な返答をしてしまったあとで、こちらを上目遣いに睨むミナキが目に入り、慌てて首を縦に振る。
「つきあうよ! つきあう! だから、そんな目で見ないでくれ!」
カヌトから言質を取ったミナキは、花が開いたような笑顔になった。カヌトは今まで、異性としてミナキの容姿を観察したことはない。当たり前だ。しかし、この娘はこんなに綺麗で可愛かったのかと、目の覚めるような思いで、彼女に瞳を据える。
それにしても、ニギの女人はたくましい。カヌトは将来に一抹の不安を覚えながらも、両親も異国人同士だったことを思い出す。すると、思わず笑みがこぼれた。
ミナキの片手に、カヌトは自分の手を重ねる。ミナキは頬を染め、耳まで真っ赤になった。まだ手を繋ぐのは早いかと思い、カヌトは手を放す。
「さあ、そろそろいこうか。ロウが待っているかもしれない」
カヌトが声をかけると、放心したような表情をしていたミナキが、こくこくと頷く。そんなミナキが可愛らしくて、カヌトはくすりと笑った。
二人は立ち上がり、待ち合わせ場所である診療所までの道のりを、並んで歩き始めた。診療所の近くまでくると、先に着いていたロウが、こちらを見て大きく手を振っている。
「師匠ー!」
ミナキがいて、ロウがいる。そのことに、カヌトは幸せを感じた。
「とりあえず、ロウには気づかれないようにしないとね。からかわれるから」
小さく手を振り返しながらカヌトが囁くと、ミナキは明るい声で「はい!」と答えた。
完
二人を無理やりくっつけた感がありますが、このお話はこれでおしまいです。
カヌトは冒頭が百だとすると、一気にゼロにまで下がってしまったような……。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。




