山越え
サタの山は、夕日に照らされて不気味の影をたたえていた。
元来、山越えには危険が伴う。
変わりやすい天候。不慣れな山道。人びとをうかがう獣たち。そのすべてが混然一体となって登山者を襲う。
世界が夕闇に沈んでからも、雨は変わらず地面を叩く。道は険しい。過ごしやすい気候で畜生は活発に行動する。
山はさらに危険な場所になった。
「でも、ジハンさん。サタの山はそこまで険しい山ではなさそうですし、道もほかの山々と比べると整備されているほうです。なにがそんなに危険なのですか?」
サタの山のふもとでたき火をしながら、キーシャは尋ねた。
たき火をしなくとも、十分に視界は確保できるが、なぜか世界は夜になると以前と変わらずに厳しい寒さが襲う。暖を取る必要があった。
「山自体はそこまで厳しいものではない。余程のトラブルがなければ、簡単に超えることができるだろう」
たき火に小枝をくべながらジハンはキーシャの疑問に答え、「しかし……」と言葉を継いだ。
「山には多くのならず者たちがいる」
「……山賊ですか?」
「さらにたちの悪い連中だ。多くは世界が黄昏に堕ちたあとに、自暴自棄になりもとの生活を捨てた奴らだ」
「そんな人たちが山に?」
キーシャは尚も不思議そうにつぶやく。
彼女の村では混乱こそあれ、今の生活を捨てアウトローの道に行く者はほとんどいなかった。
だから話に聞いても、いまいち理解できないのであろう。
「もし、完全に世界が終わると確定してしまえば、人間は案外落ち着いているものだと思う。敬虔な宗教者は、聖典の教えを信じているからこそ世界の終わりを確信している。だから今を懸命に生きて天国行きの切符を確実に手にしようとする。しかし、そう簡単に割り切れない人間はどうだ? 多くの大衆は五里霧中で、不安におののいている。不安こそが人を最も毒す」
「なるほど。だから、宗教的な権威の影響下にない都市住民ほど混乱するのですね」
「君の村で、大きな混乱が起きなかったのはそういうことだろう」
そして彼らの天国行きのために捧げられた生贄が、今ジハンの前で納得顔でしきりにうなずいている少女だ。
やり切れない感情がジハンを襲う。
パスティンまでキーシャを送り届けてそれでどうなる? 誰がそんなことを望んでいる? 虚しさが彼の心をかすめたが、ジハンは首を左右に振ってそれを払いのけた。
キーシャがそれを望むならば。
それだけでジハンには十分だった。彼は決意を新たにする。
「山にいるものは不安でじぶんすら見えなくなっている連中だ。まともな話が通じる奴らではない」
ジハンは、じぶんがそんなならず者たちと大して違わないことに目をそらしながら言った。
だが、キーシャはジハンの葛藤に気づいてしまったようだ。気遣わしげに
「ジハンさんは自暴自棄になどなっていません」
と控えめに励ました。
「ありがとう。君のような子どもに元気づけられることになるとはな」
ジハンは苦笑する。
しかし、キーシャは彼の言葉を聞くと、勢い込んで反論する。
「私はたしかに子どもかもしれません。しかし、同時に聖職者でもあります。人びとの悩みを聞いてきました」
彼女の矜持を毀損してしまったことに気づき、ジハンはうろたえながら「すまん」と謝した。
「いえ。それはそうと、山を越えるとすぐにパスティンですか?」
「ああ。サタの山を越え三里もあるけばすぐに教会都市・パスティンだ」
「楽しみです」
聖職者にとっての聖地・パスティン。
聖典に描かれた始祖の伝道書の大部分は、彼の地を舞台にしている。キーシャが憧れるのも当然のことだろう。
神の子たちは奇跡を起こし、主の預言を伝えながらも、不遇な最後を遂げた。
迫害にさらされ人知れず命を落とし、大勢の蒙昧な大衆たちの手によって十字架にかけられた。
聖典は、そんな大罪と人びとが蓄積し続けた莫大な罪をすべてまとめて精算するために『審判のとき』を設けたと伝えた。
罰当たりな連中は鼻で笑ったけども、今、神によってもたらされた伝説は現実として人びとの前に迫っている。
それもあまりに劇的な夕焼けを伴って。
目の前で揺れるたき火が地獄を象徴する紅蓮の業火に変化し、人びとを焼き尽くす。
そんなイメージが浮かんだ。
しかし、ジハンは人びとが恐慌に陥るのも、あまり責めることができたものではない。
彼自身、十年前の一件により宗教を捨てた身だ。不信仰を謗ることなどできない。
信じる者は救われる。
それが実際を伴って近づいてきたのだ。
「……パスティンには?」
渋面で思考にふけるジハンを気遣うようにキーシャは尋ねた。
その声にジハンは我に返った。
ジハンの前で燃える焔は、再び穏やかなたき火に戻った。
「昔、一度行ったことがある。そのときにはすでに信仰は捨てていたが、それでも胸に迫るものはあった」
巨大な城塞都市。
八方を城塞に囲まれ、幾度の異教徒の進攻にも耐えてきたパスティンは、宗教の権威というより巨大な帝国の首都といったほうが正しい気さえした。
「もちろん当時は世界が終わるなんてのは、一部のオカルト好きの妄言に過ぎない時代だった。だが、それでも自身の信仰を確かめるため、世界の安寧を願うため、パスティエへの巡礼者はあとを絶たなかった」
「聖典は、この世に生を受けている間に一度はパスティンに祈りの旅を行うことを勧めています」
「世界の崩壊を止めることも巡礼者の目的だが、それよりも生あるうちに巡礼をしておきたい。本音は後者だろうな」
「ええ。私にもそういう気持ちはあります」
キーシャがくすぐたっそうに笑う。それは、イタズラが見つかったときの子どものように無邪気だった。
「無理もないよ」
二人の夜はこうしてふけていった。
サタの山は相変わらず、二人の背後で夕焼けを背負い不気味に輝いていた。




