襲撃
シスターの朝は早い。
世界最後の日を迎えとしても、彼らの生活リズムと貴族の蕩尽癖が変わることはないだろう。
最後の朝をいつも通りに静かな祈りの時間に捧げる修道女たちと、やけっぱちで散財する貴族たち。
そんなイメージが交互にジハンの目の前をよぎる。
そして彼の目の前には、誰よりも敬虔な一人の修道士。
キーシャは夕焼けを全身いっぱいに浴びながら、眩しそうな様子ひとつ見せずに静かに聖典の一節を暗唱している。
ジハンには、それが第何節の第何章であるかが容易に思い出すことができた。
もう長い間、聖典に目を落としてはいないが、人の記憶は彼が思っていたよりたしかで信用できるものであるようだ。
微笑ましい光景はどこかの宗教画家が喜んで作品に切り取りそうな場面であった。
まもなくキーシャは祈りを終え、極大化された太陽を見ながら静かに佇んでいた。
ジハンは彼女に歩み寄り、彼女の肩に静かに右手を置きながら声をかけた。
その声音は、優しかった。
「不安なのか?」
「いえ、世界がどうなろうとも私は私のすべきことを――」
そこまで言ったあとなにかに気づいて言葉を切り、彼女は肩に触れるジハンの腕を取った。
そして「守ってくれる人がいるので平気です」といたずらっぽい笑みを浮かべた。
大きな真ん丸な瞳が細くなる。
しかし、それはキーシャの整った顔の魅力を少しも失わせはしなかった。
「責任重大だな」
ジハンは皮肉をもってして少女の茶目っ気に返した。
「食い扶持がなくなりますもんね」
好きに言ってくれる。
またもやなん周りも年下の少女にいいように丸め込まれるじぶんが、ほんの少しみじめでもあったが、不思議と心地よさのほうが大きかった。
可愛い妹を持つと、こんな感じになるのかもしれない。
ありし日の思い出の中にだけ生きる少女も、そういえば勝気な女の子だった。
ジハンはセンチメンタルな気持ちになり、それをごまかすために鼻を一度大きくすすった。
「風邪ですか? 昨夜は冷えましたからね」
「いや、花粉症だろう」
「今は秋口ですよ?」
冗談だと思ったのだろう。キーシャはおかしそうに笑う。
「今日はいよいよサタの山を越える。体調は?」
話題を転じて、ジハンは言う。その語調は打って変わって真剣だ。
「大丈夫です」
キーシャもそれに応えて、真面目な顔になって答える。
「よし、それじゃ行くか」
二人はたき火の始末をしたあとに、一夜を過ごした場所をあとにした。
多くの登山者が踏み越えていったために整備されているとはいえ、それでも山道は山道だ。距離を重ねれば、確実に足に負担をかける。
しかも、宗教者であるキーシャはどんなときでもその漆黒の衣装を着替えようとはしない。
足まで覆う修道着は、動きやすい格好とは到底言えず、山越えにはむかない。
「大丈夫か? ちょっと休憩するか?」
自然、ジハンも彼女を気遣う。
山越えの経験がないキーシャにとって、サタの山ですら穏当な道のりではない。
「いえ、行けます」
それでもキーシャは毅然としている。
その足をいっこうに休めようとしない。
さらに、ジハンの言葉を聞きその足を一段と歩めた。
彼はその気丈さに思わず舌を巻いた。
じぶんがキーシャほどの年齢だったころ、彼女ほどの精神のタフさを持ち合わせていたかと問われると、沈黙するしかないだろう。
それほどまでに、キーシャは強かった。
肉体的な意味ではない。その精神がか弱い彼女の身体を支えていたのだ。
そんな彼女を関心と尊敬のまなざしで背後から見つめていたときだった。
キーシャが突如、その足を止め周囲を見渡した。
「……誰」
キーシャが聞こえるか聞こえないかくらいの声でつぶやいたときに、ようやくジハンも彼らを襲う事態に気づいた。
狼か。熊か。それとも山にひそむならず者か。
獣たちであれば、まだ打つ手はある。
彼らは人に対して本質的に臆病だ。行動さえ間違わなければ、やりようがある。そしてジハンはそのやりようを経験から知っている。
しかし、問題はじぶんたちと同じ種であったときだ。
同じ知能を持つ生物であれば、マニュアル通りの対策は通用しない。
気配がする。聞き違いではないようだ。なにかがこちらを注視している。
はたして、それは鬼か悪魔か。はたまた畜生か。
それでも、ジハン一人ならなんの心配もなかった。
そんな奴らを打ち払うことなど造作もない。そんな自負が彼にはあった。
だが、ジハンのそばには守るべきか弱き存在。
元来の気の強さか、彼女の表情には不安そうな色はうかがえない。
しかし、視線を少し移すと震える弱々しい両手。
恐怖を閉じ込めるように力強く握りしめられた両のこぶし。
無理をしていることは明らかだった。
「大丈夫だ」
彼は静かに、しかしはっきりとした調子でキーシャを勇気づけた。
月並みな言葉に過ぎなかったが、それでも彼女の不安を少しは取り除くことができたのだろう。
彼女の震えが、ほんの少し和らいだ。
そして、キーシャは少しだけ顔をこちらにむけた。
ジハンはその横顔に目一杯気障な調子で、言葉をかけた。
「こんなときのために騎士がいる。お姫様」
キーシャが顔だけで笑ったのは、こんなときに格好つけるジハンにか、それとも彼のセリフの調子が妙に芝居がかっていたからか。
どちらでもいい。
ジハンは思った。キーシャが少しでも元気になるならそれで十分だ。
音が聞こえた。
今度ははっきりとわかる。人の足音だ。
それも一つではない。
三人か。
ジハンは目算をたてた。
さて、どうするか。
彼はない頭をひねり思いつく限り最善の策を考えた。
まともにやってこちらが勝てる保証はない。
キーシャがいかに成熟した精神を持ち合わせているといっても、その体は華奢でじぶんの身を守ることすらかなわないだろう。
無理もない。
神は、じぶんの身はじぶんで守るべきだ。そのために身体を鍛えよ、武器を取れとはお教えにならなかった。
高尚な理想を振りかざすには、相応の実力が必要なのだ。
しかし、そんな現実をキーシャに知らせたくなかった。だからこそ、じぶんが彼女を守らねばならない。
「とりあえず、気づいてない振りをしてそのまま歩き出してくれ。奴らが勢い込んで襲い掛かってきたら、ちとまずい」
キーシャが息をのむ音がはっきりと聞こえた。
それは、彼女の緊張をなによりも雄弁に物語っていた。
しかし、彼女はコクリとうなずくと止めた歩みを再開した。その歩調にはいささかの乱れもない。
二人に合わせて、繁みの奥の不可知な者たちも歩を進めるだろう。そして隙を見て……。
しかし、そんなジハンの思惑は無残にも外れた。
三つの気配のうちの一つが突然その存在感を大きくした。
草が大きく茂る音が聞こえ、一人の男が飛び出してきた。
やせがたで、どこかカメレオンをほうふつとさせる男の右手には鋭く光る刃物。夕焼けに照らされ、それは怪しく光り輝いていた。
不覚を取った。
ジハンは慌てて迎え撃つために態勢を整える。
しかし、ジハンが男を見たときに、襲撃者の瞳が激しくゆがんだ。
そしてジハンも気づいた。
男は弱々しい声で「あんたは……」とつぶやいていた。
ジハンはその男を知っていた。そして男も、ジハンのことを知っているようだった。その目は驚愕で大きく開かれている。
キーシャは状況が呑み込めず、唖然として二人を交互に見つめている。
いまだ姿を見せない残りの二人も、仲間の様子がおかしいことに気づいたのだろう。
ゆっくりと繁みの奥より姿を現した。そしてカメレオン男と同じく驚きの表情を浮かべた。
そこで、キーシャもだいたいの状況に気づいたのか。
おそるおそるといった調子で「……お知り合いですか?」と場違いに呑気な声を響かせた。
「お前ら、なんでこんなところに……」
驚きのあまり、ジハンの言葉は疑問形にすらならなかった。ただ小さなつぶやきとして漏れ出ただけだった。
「あんたのほうこそ……」
それは彼らも同じようだった。
カメレオン男に至っては、手にしたナイフを落としたことにも気づかない様子だった。
キーシャは黒光りするそれをじーっと見つめていた。
余りの状況に一瞬それがなにか理解できない様子であったが、まもなくその正体に気づくと恐ろしげな表情を浮かべてジハンの背中に身体をつけた。
「大丈夫だ。もう怖くない」
勇気づけるように、ジハンは言った。
「……その娘は?」
疑問がそのまま言葉として漏れ出たといった様子で、三人組の一人がつぶやいた。
男は、頭頂部が若干寂しくなりはじめていて、その苦労がうかがえた。そして、ジハンはカメレオン男と同じように、そのハゲ男のことを見知っていた。
「なりゆきでパスティンまでの道を共にすることになった修道女だ」
ジハンは一応の説明に留めておいた。
必要以上に事情を話すことは益にならないと直感していた。
その間に三人目の男もこちらに近づいてきて、尚も不可解な面持ちで質問を重ねた。
「なんで……。お前は町で物乞いをしていたはずだろ。そんなお前がいまごろ……」
「俺もわからねえよ。しかし、このまま世界が終わるんじゃあまりに虚しいだろ」
「世界が終わる」とジハンが口にした瞬間、三人の表情が曇った。不安気な表情を隠そうともしない。
思わずといった様子でハゲが進み出てきて声を張り上げた。
「人助けのつもりか? 今さら徳を積んだところでどうにもならんぞ!」
ハゲは言ったが、最後はもはや叫びに近かった。彼の声と、表情は悲壮感にまみれていた。
「そうだ! どうせ世界は終わっちまうんだ! 見ろよ! 太陽が今にも落ちてきそうだぜ!」
夕陽を指し示しながら、たまらずカメレオン男も叫ぶ。彼の目は血走り、興奮と不安でない交ぜになっていた。
「世界が終わるからといって、あなた方はじぶんの生活を捨てて畜生に堕ちたのですか?」
今まで黙って会話の先行きを見守っていたキーシャが厳しい声をあげた。
野党同然に堕ちた三人とは面識はないはずだが、今までの会話を聞きだいたいの事情を把握したのだろう。
その声は聖職者としての責務からか、毅然とした色に包まれていた。あえて、やっているという感じであった。
キーシャにも彼らの気持ちは痛いほどわかるのであろう。それでも、シスターとしてやけっぱちになることを認めるわけにはいかない。
「じゃあ、止めてくれよ! この夕焼けを消してくれよ! 毎日毎日、寝ても覚めてもこんな光景じゃな、頭がおかしくなっちまいそうだよ!」
「そうだ。なあシスター様! 偉大なる主とやらに頼んでみてくれよ!」
ハゲの言葉を受け継ぎ、三番目の男が言う。
もはや、彼らからは町にいたころの冷静さは失われていた。
「たとえ世界が終わるとしても、終わらないとしても私たちがやるべきことは変わりません」
そんな言葉では、彼らの心を救いはしないとキーシャ自身わかっていても、それ以上にかけるべき言葉は思いつかないようである。彼女も、今の黄昏の世界に内心では困惑し、混乱しているのだろう。
「それじゃ、なにか? お前ら敬虔なシスターさんは世界が終わるその日にも、呑気にお祈りしてるっていうのか? かっ、ふざけた野郎だぜ!」
「いけませんか?」
その言葉は強い。
ジハンと過ごしてきたなかで、最も確固たる意志が込められたものだった。
「……有事のときこそ、その人の本質が見える」
ジハンのつぶやきに、凄まじい形相を浮かべながら三人は彼をにらみつけた。
図星であった。
人は弱みを突かれたときに、その本性を露わにし、容易に激昂する。
彼らはじぶんの弱さを誰よりわかっているからこそ、そこを指摘されたときに冷静ではいられない。
「……なんだと?」
静かで、それでいて言下に怒りが漏れ出す声だった。
カメレオン男は不快感を隠そうともせずに、鋭い視線をジハンに送る。
「安心したぜ。町で一丁前にやってたお前たちより、俺はまだマシだったんだってな。じぶんがここまで真人間だとは思わなかったぜ」
挑発するような物言いに、キーシャは心配そうな目で見ながら「ジハンさん……」と意外そうにつぶやいた。
「乞食が……。えらそうに」
「お前等だろうが。今のあんたらは、それ以下だぜ」
ジハンは彼なりに悔しかったのだ。じぶんを見下していた人間たちが、こんなにも弱くちっぽけな存在だったということが。
「言わせておけば、なめたことを……」
口角をワナワナと震わせながらハゲは言う。
ほかの二人もハゲと同じく、今にも飛びかかりそうな雰囲気を漂わせていた。
キーシャは、一触即発の雰囲気を素早く感じ取りジハンの手のひらに軽く触れながら言った。不安そうな声色だった。
「ジハンさん。行きましょう……」
少女の恐れが、ジハンにまっすぐに伝達した。
震える手のひらと、彼女の声が不安に揺れる感情を彼に伝えた。
ジハンは自らの責務を思い出した。
「ああ、そうだな」
もとは町の商店主、食堂の主人、パン屋だった男たちに聞こえぬようキーシャの言葉に答えた。
大量の商品の出入りを管理し、たくみに利益をあげていたカメレオンに似た男は、横に引き伸ばした口の端から涎を浮かべながら眼光鋭く、ジハンを睨みつけていた。
あらくれたちに対して一歩も引かず、町の盛り場を守ってきた男は落ちくぼんだ目でどこを見るともなく視線をさまよわせていた。
禿げあがった頭頂部を冗談で笑い飛ばし、誰からも好かれる町のムード―メーカーだったパン屋の男は、今ではそこにいるだけで周りを不幸にしてしまうほどの負のオーラを漂わせていた。
三人が三人とも、ほんの数か月前までのじぶんを忘れ去ってしまったようだ。
ジハンも彼らが店をたたんでしまったことは知ってはいたが、まさかのこんな山奥で原人同然の生活を送っているとは思いもよらなかった。
家族はいったいどうしたのか。
想像するだけで、頭が痛くなる。
無言で足を踏み出したジハンとキーシャ。
カメレオンに似た男がなにかを言おうとしたが、ハゲがそれを制した。
カメレオンがハゲを見る。
三人目の食堂の主人だった男も「いいのか」という表情を浮かべながらハゲを見る。
カメレオンはいつの間にか拾い上げたナイフの柄を強く握りしめて、溢れる怒りを抑えこんでいるようだった。
ジハンは三人のそばを通り過ぎるとき、聞こえるか聞こえないかくらいの声で「ありがとう」とつぶやいた。
たむけだった。
それが、ジハンにできる精一杯だった。
キーシャは律儀にも三人に軽く会釈しながら、ぴったりとジハンに引っ付いてくる。
二人がそのまま彼らを残して歩み去ろうとしたときだった。
背後から声が飛んできた。
ジハンには、なぜかそれは切実な魂の叫びに聞こえた。
「お前ひとりだったら命はなかったからな!」
三人のうち、誰が発したのかはわからなかった。
しかし、ジハンは妙に納得し、「助けられたのはまたしても俺だったのかもな」と思い、苦笑気味に笑った。
キーシャはそんな彼を不思議そうな瞳で見つめていた。




