序論
歴史は夜作られるわけじゃない。
昼夜を問わず、同時多発的に生産されていくのだ。
第二次世界大戦の拡大を例に引くまでもなく、それは大小様々な歴史的事件が証明している。
これは江戸幕府も末期の状況にあった元治二年初春の、ある一日にフォーカスして、歴史の一ページを切り取った記録である。
本稿では新たな試みとして時々刻々と移ろう政局を時間軸に沿って視点を切り替えながら追っていきたい。
さて。
欧米列強からの外圧にジリジリと譲歩を続ける時の幕府に対して、世間の風当たりはますます冷たい。
前年に長州藩が「禁門の変」というクーデター未遂を起こしたこの年、天皇のおわす都では、「国の行く末を、なぜ江戸だけで決めるのか」という不満が高まる今日この頃。
ならば、将軍自ら京都へ上り、天皇のもとで政務を行ってはどうかという議題が持ち上がった。
しかしである。
将軍が京からの呼び出しに応じるということは、すなわち、幕府が朝廷の前に「政治の責任」を差し出すことを意味している。
尾張や越前など有力な諸藩は、
「後々禍根を残さぬためにも、そんな重要事は、諸侯を京都に集めて皆で話し合うべきではないか」
と主張し、
その京の治安を任されていた会津藩は、
「そんなことをすれば議論は紛糾し、かえって混乱を招く。ならば、会津藩主が江戸へ赴き、将軍を説得する」
とやり返して、意見は二つに割れた。
で、この対立の中心にいたのが、のちの将軍一橋慶喜である。
将軍に最も近い立場にありながら、彼自身はこの問題について、未だ口を開こうとしない。




