episode61 燃える氷と退かない剣
エリオスが死の淵から這い上がろうとしていた頃。
魔剣学院の特別訓練場では、二人の少女が圧倒的な「絶望」の前に立たされていた。
「はぁっ、はぁっ……!」
「くっ……なんて、重圧……」
肩で息をするキアラルと、額から冷や汗を流すエレナ。
二人の視線の先には、木刀を片手に悠然と佇む教官、ブラッドの姿があった。
「どうした。もう終わりか?」
幾多の死線を潜り抜けてきた歴戦の戦士。その実力は、類稀なる才能を持つ彼女たちであっても、やすやすと届くものではなかった。
エレナは魔術と剣術を高いレベルで両立させているが、逆に言えば「すべてが優等生」であり、理不尽な強者に対して決定打となる突出した武器がない。
一方のキアラルは、純粋な剣術において既に達人の域に達しているが、魔力をほとんど持たないという明確な弱点があった。
そして何より、今の二人を最も苦しめているのは、ブラッドの放つ「魔術」だった。
「……炎、なのに……熱くない……?」
キアラルが呻くようにこぼす。
ブラッドの周囲を渦巻いているのは、彼の属性である『炎』。しかし、それは赤や青ではなく、底なしの泥のような『漆黒』だった。
黒い炎。
それは爆発的な破壊力を持たない代わりに、触れた者の体力と魔力をじわじわと、確実に蝕んでいく。少しでも間合いに入れば、見えない呪いのように身体にまとわりつき、地道にダメージを蓄積させる最悪の炎だった。
「来ないなら、こちらから行くぞ」
ブラッドが一歩踏み出す。それだけで黒い炎がうねり、訓練場の空気がドロリと重くなった。
迂闊に斬りかかれば、あの炎に焼き尽くされる。本能的な恐怖が二人の足を縫い止めていた。
「……っ、ここで立ち止まってたら、やられる!」
静寂を破ったのは、キアラルだった。
彼女は鋭い踏み込みで黒い炎の隙間を掻き潜り、ブラッドの懐へと飛び込む。
神速の刺突。しかし——。
「甘い」
「きゃあっ!?」
ガァンッ!!という重い衝突音と共に、キアラルの体が弾き飛ばされる。
前にキアラルがブラッドと戦った時とは違う。ブラッドは本気だ。
炎を抜け切ったとしても、純粋な剣の打ち合いでブラッドに勝てるわけではない。力と経験の差が、彼女を容赦なく叩き伏せる。
「キアラルさん! ……【氷魔術・絶対零度】ッ!!」
エレナがすかさずカバーに入り、自身の最大魔術を放った。
すべてを凍てつかせる極低温の吹雪が、ブラッドと黒い炎を包み込む。
——だが。
「な……っ!?」
ジュゥゥゥゥゥ……ッ!!
エレナの絶対零度が、黒い炎に触れた端から無惨に溶かされていく。
「属性相性が悪い相手には、そこで諦めるのか?」
「っ……」
「お前の優等生な技術は、想定外の事態の前ではひび割れるガラス城にすぎん」
ブラッドの冷酷な声が訓練場に響く。
さらに彼は、体勢を崩したキアラルを一瞥して言い放った。
「貴様もだ。剣術以外に取り柄がない奴が、その剣術で力負けしたら後には何が残る? ……ただの死体だ」
その言葉は、二人の心を正確に抉った。
エレナの瞳に絶望の色が浮かぶ。私の氷は通用しない。エリオス君に並び立ちたいと願ったのに、これでは足手まといになるだけだ。
もう、無理なのか。そう思いかけたエレナの耳に、凛とした声が届いた。
「……分からない」
キアラルだった。
彼女は黒い炎の熱気に肌を焦がされながらも、ふらつく足で立ち上がり、再び剣を正眼に構えた。
「難しいことは分からない……けど! 何もしないで死ぬより、本気で斬りかかって死んだ方がマシよ!!」
痛みを気合いでねじ伏せ、キアラルは再び突進した。
黒い炎が彼女の腕や脚を蝕むが、キアラルの瞳から戦意は消えない。その無謀とも言える剣士の心構えに、ブラッドは僅かに口角を上げた。
「……いいだろう。なら、まずは貴様から潰してやる」
ブラッドの猛攻がキアラルに集中する。炎を浴びながらも、必死に剣を振るうキアラル。
その背中を見つめながら、エレナは自問自答していた。
(私に不利な炎に勝つ方法は、何……?)
氷は炎に溶かされる。それが世界の理。
なら、溶かされない氷を作ればいい。でも、どうやって? 魔力だけじゃ足りない。私の中に、あの炎を上回るだけの『熱』なんて——。
——いや、一つあるじゃない。
エレナの脳裏に、不器用に笑う少年の顔が浮かんだ。
彼が死にかけた時の恐怖。彼が戻ってきてくれた時の歓喜。そして、彼を誰にも渡したくないという、心の奥底で燃えたぎる、狂おしいほどの熱情。
(エリオス君への想いは……こんな黒い炎なんかよりも、ずっと、ずっと熱いわ……ッ!)
エレナの胸の奥で、カチリと何かが噛み合った。
彼女は自身の内に渦巻く「熱い想い」を、そのまま極限まで圧縮し、魔力濃度へと変換していく。
「……え?」
ブラッドが異変に気づき、視線を向けた。
エレナの周囲の空気が、異常な密度で凍りついていく。ただの冷気ではない。魔力の濃度が高まりすぎた結果、概念すらも凍てつかせる『解けない氷』が顕現していた。
「ブラッド先生。私の氷は、もう二度と……誰にも溶かさせません!」
エレナの足元から放たれた高密度の氷塊が、ブラッドの黒い炎と激突する。
ギギギギギッ!!という耳障りな音を立て、今度は氷が炎を強引に押し返し、相殺し始めたのだ。
「……ほう」
ブラッドの目が、微かに見開かれる。
理論を超えた力で炎を打ち破り始めたエレナ。
満身創痍でありながら、その隙を突いて死角から刃を振るうキアラル。
「……ハッ。剣術バカと、執念深い氷女か。どいつもこいつも、あいつの周りには規格外しか集まらんらしい」
ブラッドは獰猛な笑みを浮かべ、木刀を両手で構え直した。
「来い、ヒヨッコども。貴様らの本気、俺が削り出してやる」
落ちこぼれだった少年が深淵で覚醒したその日。
彼を愛する二人の少女もまた、確かな「強者」への階段を駆け上がり始めていた。




