最期の日常
風の声が聞こえて目を開ける。
隙間なくカーテンを閉め切っている部屋は暗く、あたかもまだ真夜中だという錯覚に囚われそうになる。
けれど、たぶんもう朝だ。
さっき『起きろ』と言われた気がしたから。
枕元で充電していたスマホをつけて確認すると、いつも起きている時刻が表示されていて、やっぱり朝だと確信する。
寝起きで鈍い私を急かすように、また風の声が聞こえた。
誰かが思い切り揺らしているような音ををたてて、ベッドの横にある窓を盛大に風が叩く、『早く起きて』と言われているような気分だ。
それなりに大きな音だけど、どうしてか不快には感じない。
毎日のことで慣れたのだと思うと、自分のことながら少しだけ感心する。
こうして風に起こされるのは、なにも今日が特別に風が強いからじゃない。
割といつもこうだ。
たぶん、位置的にこの部屋の風当たりが良すぎるんだと思う。
ぼーっとした頭でそんなことを考えている間にも風は窓を揺らし続ける。
「はいはい、起きましたから」
誰に聞かせるでもなく独り言をつぶやいて、閉め切っていたカーテンを開ける。
日差しが差し込んできて、部屋の中に色がついた。
外は快晴。
これでもかというくらい、いい天気だった。
朝日が優しく降り注ぐ中、小鳥たちがさえずりながら飛んでいる。
見えている景色は、窓を叩いていた強風が嘘みたいに穏やかで、やっぱりこの部屋だけが風当たりが良すぎるのだと再認識する。
そのままベッドでぼーっとしていると、また風に窓を叩かれて、私はしぶしぶとベッドから起き上がることにした。
足の裏に感じるひんやりとした床の感触が気持ちいい。
立ったまま身体をグッとそらして伸びをする。
身体の真ん中に溜まったままだった血液が、駆け足で腕や足の方に流れていくような感覚が気持ちいい。
そのまま伸びをしていると、血が振り上げた腕を通って上へ上へと流れていく。
上に、もっと上に、限界なんてないかのごとく血が流れる。
感覚的にはとっくに腕の長さより遠くまで血が流れている。
いや、感覚はあるのだから私の腕がどこまでも伸びているというのが的確な表現なのかもしれない。
奇妙な感覚。
けれど希少ではない。
あぁ、またかと軽く流せるくらいだ。
私にとってこの奇妙な感覚を感じることは、特に珍しいことではなかった。
朝は弱い自覚があるから、この奇妙な感覚は、寝ぼけてまだ意識がはっきりしていないだけなのだと、自分の中で結論をだす。
伸ばしていた手を下ろしてみると、普段となんら変わりない自分の腕が視界に入ってきた。
ほら、やっぱりまだ寝ぼけてただけ、腕が伸びるなんてありえない。
自分自身の感覚を自嘲して一蹴し、テーブルの上に置いてある写真立てを手に取って、写真の中にいる女の子を見つめる。
すらっとした長身のモデル体型。
腰まで伸びた栗色の髪は太陽の光を浴びて輝いている。
相澤スミレ。
私の大切なたった一人の親友。
私が見ていることに気が付いたのか、写真の中のスミレちゃんも笑顔になったような気がした。
実はこの写真、いつも吊り目でキツい表情のスミレちゃんが笑ってくれた貴重な一枚だったりする。
太陽のような明るい笑顔。見ているだけで幸福感が溢れてくる。
「おはようスミレちゃん。今日もいい天気だよ」
『おはようアヤノ』
風がまた窓を叩いた。
時計に目を向けると、学校に行く時間が近い。
このまま幸せに浸っていたら間違いなく学校に遅刻してしまっていた。
私は写真立てを丁寧にテーブルに置き、急いで身支度を始めることにした。
まずキッチンへ行き、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出す。
コップに注いだ麦茶を飲んでいると、冷蔵庫に貼ってある写真の中からスミレちゃんが呆れたように声をかけてくる。
『アヤノ、あんたまた朝ご飯食べないつもり?』
「うっ、だって朝は食欲がでないから」
『そんなだからガリガリなのよアンタ。倒れたらどうすんの⁉』
「大丈夫、大丈夫だから、ね!」
きつくなったスミレちゃんの視線から逃げるように、残りの麦茶を飲み干して洗面所に向かう。
心配してくれるのは嬉しいけど、いくらスミレちゃんの言うことでもこればかりは仕方ない。
もともと食にはあまり興味がないし、普段からあまり食べる方じゃないことに加えて、朝は特に食欲がわかない。
無理に食べようとすると吐き気すらするくらいだし――
逃げた私を洗面所でもスミレちゃんが待ち構えている。
なるべく気にしないように鏡の前に立つ。
鏡には黒髪で細身の女が映し出される。
映し出された女の姿を見ながら洗顔、歯磨きをして身だしなみを整えていく。
眉のあたりで切り揃えられた前髪を整え、髪に櫛を通していると、鏡の横に貼ってある写真からスミレちゃんがまた声をかけてきた。
『髪留めここだから、忘れないでよ』
そう言われて、写真のすぐ下の棚にある黄色のヘアピンを手に取る。
これを忘れたりなんて絶対にしない。
私の宝物。
左側、サイドの髪をねじり、地肌側の毛をすくいながら、手に取ったヘアピンを差し込む。
うん、うまくできた。
綺麗にまとまった髪に満足して鏡の横にいるスミレちゃんにキメ顔をする。
「スミレちゃんにもらったヘアピンを忘れるわけないよ」
『あっそ』
そっぽを向かれてしまった。
鬱陶しがられたけど、スミレちゃんの横顔は満更でもなさそうだったからよしとして部屋に戻る。
途中で廊下に貼ってあるスミレちゃんに、ヘアピンが似合ってるか聞いてみた。
『毎日付けてて、今更聞かれてもね』
呆れながらはぐらかされてしまった。
それでもテレを隠しきれていないスミレちゃんは可愛かったので満足だ。
部屋に戻ったら制服に着替える。もちろんスミレちゃんには背中を向けてもらった。流石に見られながら着替える度胸はない。
『別に好き好んでアヤノの着替えなんて見ないわよ』
「まぁ私なんてガリガリで胸もないお子様体型だもんね。魅力ないよね……」
『ちょ、ちょっと何へこんでんのよ!』
「どうせ私はスミレちゃんにとって何の魅力もないんだぁ」
『げ、元気だしなさいよ! その、肌とか白くて凄い綺麗だし、顔も可愛いし、あとは……』
「いいの、無理しないで、スミレちゃんなんて胸もお尻も大きくて大人の女性だもんね。羨ましいなぁ」
『あんたそれはセクハラよ』
着替えが終わって時計を見れば、そろそろ出発する時間だった。
スミレちゃんと話しをしていると、ついつい時間を忘れてしまう。
鞄の中をチェックして忘れ物がないことを確認する。
それから部屋にいるスミレちゃん全員に、行ってきますの挨拶をして、お気に入りの黄色いパーカーを手に取って玄関に向かった。
『怪我しないように気をつけて行ってきなさいよ。アヤノは鈍臭いんだから』
靴ひもを結んでいると、玄関にいたスミレちゃんがつんつんしながらも心配して声をかけてくれた。
そんな素直になり切れないところも含めてスミレちゃんの全てが愛おしい。
「ありがとうスミレちゃん。でもスミレちゃんがいてくれるから、私は大丈夫だよ!」
スミレちゃんに、安心してもらうため、とびきりの笑顔を向ける。
困ったように笑うスミレちゃんを見て、私は家を出た。




