表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
学校一の陽キャ美少女が、俺の匿名アカウントの熱狂的なフォロワーらしい  作者: 虎山雲龍


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/17

第10話 「誰にも知られなくていい」の終わり方

廊下の真ん中で、白いレースのハンカチを女子の手に渡した。

それだけのことが、自分の人生の何かの終わりだった、というのは、たぶん明日の朝になっても、まだ信じられないんじゃないかと思う。


——廊下の真ん中で、白いレースのハンカチを女子の手に渡した。


書き起こしてみると、ただのそれだけだ。

ハンカチを拾ったのは、俺じゃなくても誰でもよかった。タイミングが、たまたま俺だった。


ただ、そのタイミングが、たまたま俺だったことは、たぶんたまたまではなかった。


そして、それを俺は自覚していた。

廊下のいちばん端で、ハンカチが落ちているのを見つけた瞬間に自覚していた。


「あ、これ、落とすために、わざわざ忍ばせてきたやつだ」と。


そして、自覚した上でしゃがんで拾った。それは、たぶん自分のいちばん大事な前提に対する、本日付の署名捺印だった。


「別に、誰にも知られなくていい」

——上記、本日をもって、解除いたします。


そういう書類にサインをした。

そのサインを、たぶん廊下の少し離れた場所から、黒澤凛がずっと見ていた。



放課後、俺と凛はいつもの屋上手前の踊り場にいた。

午後の光は、もうだいぶ傾いていた。

踊り場の窓のガラスに、廊下のいちばん端の自販機の明かりが、ぼんやりと映り込んでいた。凛は、自販機で買ったコーヒー牛乳のパックを両手で軽く潰しながら、こう切り出した。


「藤宮」

「……ん」

「自覚、ある?」

「……どれの、自覚」

「全部」


凛は、自分の短い髪を軽く、耳の後ろにかけた。

かけた拍子に、彼女の目が、ほんの少しだけ、こちらを覗き込むように傾いた。


「『どれの自覚』って言葉が、もう、自覚あるやつの、言い方」

「……」

「自覚なかったら、『なんの話?』だよ、藤宮」

「……黒澤、論理的だな」

「観察員は論理的じゃないと、務まらない」


凛は、コーヒー牛乳の最後の一口を、ずず、と行儀悪く飲み干した。そして、潰したパックを、近くのゴミ箱に、軽く、放り投げた。パックは、きれいにゴミ箱の口の中に入った。


「で?」

「で、ってのは?」

「『誰にも知られなくていい』の前提、お前、今どこに、置いてんの?」


——その質問が、来ることは、わかっていた。

朝、通学路で、凛が言った、あの一文。


————

「『誰にも知られなくていい』の前提、まだ、生きてんのか、死んでんのか、今日ハッキリさせとけよ」

————


俺は、そのうえでハンカチを拾った。

拾ったうえで「貸しに、しといて、ください」と言われて、「じゃあ、貸しで」と答えた。答えたうえで、彼女に対して「たぶん、忘れない、と思う」と、口の端で笑った。


その三回の動作で、たぶん、もう答えは決まっていた。


ただ、決まっている答えを、ちゃんと言葉にするのは、別の難しさがあった。


俺は、自販機の前に軽く、もたれて、しばらく踊り場の窓の外を見ていた。

そして、ようやく、口を開いた。


「……たぶん、ちょっとずつ、置き場所を、変えてる」

「変えてる?」

「『誰にも、知られなくていい』、から」

「うん」

「『誰にも、知られなくていい、けど』」

「……『けど』?」

「『けど、もし、あの子なら、知ってても、いい』」


凛は、ほんの一瞬、黙った。

黙った後彼女は、ふっ、と自分の口元のほうに、軽く左手を添えた。

笑いを、こらえているのか、呆れているのか、どちらとも、つかない表情だった。


「藤宮」

「……ん」

「お前、それ、ロックの解除コードを相手に教えてるのと同じやつだぞ」

「……」

「『誰にも知られなくていい』の前提に『あの子だけは、別』って、例外条項を足しはじめた瞬間、その前提はもう前提として、機能してないから」

「……黒澤、容赦ないな」

「観察員は、容赦も、ない」


凛は、自販機の隣の低いコンクリートの段差に軽く腰を下ろした。俺もその隣に、二人分くらい間を空けて座った。


夕方の踊り場は、誰も来なかった。

ときどき廊下の一番遠くで、運動部の掛け声が、薄くこもった音で響いていた。


「藤宮」

「……ん」

「私、別に、お前のこと、説教したいわけじゃ、ない」

「わかってる」

「私が説教したいのは、お前の『匿名でいたい』っていう全部の前提を、急に自分の意思とは関係ないところで、揺さぶってくる向こうのほうじゃない」

「……」

「説教は、たぶん向こうにこそ、必要なんだけど、こっちが説教したら、それは、ただの嫌な幼馴染だから、しない」

「……黒澤」

「ん?」

「お前、けっこう、優しいな」

「いまさら、気づくな」


凛は、ほんの少しだけ笑った。

笑いながら、自分の膝の上に両手を重ねた。


「で?」

「で、ってのは?」

「お前、『誰にも知られなくていい、けど、あの子なら、知っててもいい』を、これからどうするわけ?」

「……どうする?」

「向こうに、わからせるの?」

「……」

「それとも、わからせないまま、ズルズル行くの?」


俺は、その質問には、すぐに答えられなかった。

答えられないまま、踊り場のコンクリートの少しざらついた感触を、手のひらで軽く撫でていた。


——どうするのか。


土日の間、ずっと考えていたのは、たぶんその一行だった。

考えていた、というよりも、考えるのを避けていた、のかもしれない。


「わからせる」というのは、自分の口で「実は、俺がヨルです」と彼女に、言うということだ。

言ってしまったら、もう戻れない。


「わからせないまま、ズルズル」というのは、彼女の鍵アカが、毎日こっそり、ヨルのプロフィールを覗きにきているのを知っているのに、知らないふりをして、こちらも教室で知らないふりをし続ける、ということだ。

これも、たぶんいつかは、もたない。


「……黒澤」

「ん?」

「『わからせる』と『ズルズル』の間に、もう一個、あったりしないか」

「あるよ、たぶん」

「……あるのか」

「ある」


凛は、即答した。

それから彼女は、自分の膝の上で、軽く人差し指を立てた。


「『わからせる』でも、『ズルズル』でも、ない。第三の道」

「……それ、なに」

「『近づく』」

「……」

「お前は、ヨルだとも、ヨルじゃないとも、言わない」

「……うん」

「向こうも、たぶん一番の正解は聞かない」

「……うん」

「ただ、二人とも『その正解の話に、一番近いところまでは、近づいてもいい』ことにする」

「……」

「『正解』には、絶対に触れない。触れたらたぶん、何かが壊れる」

「……」

「だから、ギリギリその手前まで一緒に歩く」


凛のその言葉は、放課後の踊り場の傾いた光の中で、思っていたよりも、ずっとまっすぐに、俺の耳に届いた。


「……それ、しんどくないか」

「しんどい」

「……即答だな」

「だって、それ。両思いだとわかってるのに、ずっとギリギリ告白しない、みたいな状態だよ」

「……えっ」

「あれ、なに、いま、それわかってない感じだったの?」

「……」

「……藤宮」

「……」

「藤宮陽人くん」

「……黒澤」

「うん」

「『両思い』っていう単語。その文脈で出すの、たぶん早いと思う」

「私のところで、たまたま口から滑っただけだから、忘れて」

「……忘れない」

「忘れろ」


凛は、ほんの一瞬だけ、自分の短い髪の毛先を片手でぎゅっと握った。珍しく、ちょっとだけ、後悔しているような顔だった。


——その瞬間、俺は何故か、こう思った。


たぶん、黒澤凛という女の子が、今、自分の隣で、何か一つ、本気の覚悟を決めかけている。覚悟を決めかけているのに、それを本人より先に、周りに悟られたくないと思っている。


それが、何故なのかは、まだわからなかった。わからなかったけれど、わからないことを、わからないままにしておくのが、たぶん今の俺にできる、一番誠実なことだった。


俺は、それ以上その単語をつつかなかった。

代わりに、こう聞いた。


「凛」

「……ひさしぶりに、下の名前で呼んだね」

「……たまには」

「ん」

「『近づく』、選ぶとしたら」

「うん」

「次、何すりゃいい」


凛は、ほんの少しだけ目を細めた。そして、自分の通学カバンの中から、一冊の薄い文庫本を取り出した。


それはたぶん、ひかりが先週、図書委員のカウンターに返却したあの本だった。

凛は、いつのまにか、それを自分で借りていたらしかった。


「これ、お前が貸し出し処理したやつ」

「……ああ」

「七瀬さんが、先週借りて、ちゃんと返した本」

「……うん」

「読んでみ?」

「……なんで」

「七瀬さんが、付箋、四つ貼ったまま返してた」

「……四つ?」

「うん。たぶん、返却するときに剥がし忘れたんだと、思う」


凛は、その文庫本を、ぱらり、と軽く開いた。ページの間から、半透明の薄い水色の付箋が四枚見えた。


「で、その四つの付箋のページに」

「……」

「全部、ヨルの曲の歌詞の一節と関連してる文章が書いてあった」

「……は?」

「これ、私の妄想じゃ、ないからね」

「……」

「私、ヨルの曲、全部は知らないけど、お前の一番古い曲——『君の夜を、ちゃんと、終わらせる』の最後のサビの一行は知ってる」

「……うん」

「四つ目の付箋のページの一番下のほうに、その一行と、ほぼ同じ意味のことを書いた文章がある」


俺は、文庫本を凛の手から受け取った。

受け取って、ページをめくった。


四つ目の付箋のページ。

その一番下のほうに、確かに一文があった。

作者の、たぶん一番静かな、ひと文だった。


————

「誰かの夜を、ちゃんと、終わらせてあげられる人間に、わたしは、いつかなりたい」

————


そのページの余白のところに、ごく小さなシャープペンの書き込みがあった。書き込みは、本人が剥がし忘れた付箋のちょうど裏側に、隠れてあった。


————

「ヨルさん、ありがとう。これ、わたしの一番好きな人の言葉と同じです。」

————


字は、教室で、ひかりがノートに書く字とまったく同じ字だった。


俺は、しばらく、その書き込みを見つめていた。


凛は、何も言わなかった。

言わずに、隣で傾いた光の中に、自分の短い髪の毛先を軽く揺らしていた。


「……凛」

「ん」

「これ、わざと見つけたのか」

「ううん。ほんとに、たまたま」

「……たまたま?」

「私が、その本に、興味を持って借りた」

「……どうして」

「七瀬さんが、藤宮の処理した本を選んだ理由が知りたかった、から」


凛のその言葉は、たぶん、彼女自身が今一番、認めたくない白状だった。

それを、彼女は、ちゃんと白状した。


俺は、文庫本のページをそっと閉じた。

閉じる前に、四つ目の付箋を慎重に剥がさずに、ページを元に戻した。


——剥がしたら、たぶん、これは、ひかりが、もう一度、本を借りたときに見つける、彼女の過去の自分への手紙でもなくなる。


「凛」

「ん」

「答え、決まった気がする」

「どっちに」

「『近づく』」

「……うん」

「ただ、『正解』には、絶対触れない」

「うん」

「触れないけど、その手前のところで、向こうがこっちに踏み込んでもいいよ、っていう入り口だけは開けておく」

「……入り口?」

「うん」

「……それ、具体的には、なに」

「……たぶん明日、教室で、もう一回、彼女に話しかける」

「普通に?」

「うん。普通に」

「……『誰にも知られなくていい』、終わるよ?」

「……うん」

「終わって、いいの?」

「……いい、にする」


凛は、しばらく、何も言わなかった。

言わなかったあと、彼女は、ふと、自分の通学カバンの一番奥のほうに、左手を突っ込んだ。そして、ゴソゴソと何か、小さな四角いものを取り出した。


それは、淡い水色の無地のハンカチだった。


「これ」

「……?」

「貸す」

「……いや、ハンカチ持ってる」

「持ってないハンカチ、私からもらったってことにしといて」

「……は?」

「お前、明日、廊下でもう一回、『落としそうな女子』を見かけたら、たぶん自分のハンカチ貸せないでしょ」

「……」

「自分のハンカチを貸すってのは、なんか、いろいろ重い」

「……」

「だから、ニュートラルなハンカチ、一枚持っとけ」

「……黒澤凛、優しすぎないか」

「優しくない。これは観察員の業務支給品」

「……」

「業務支給品、明日以降、無くしたら減給」

「……黒澤」

「ん」

「お前、たぶん今日、お前の中で、なんか本気の一つ決めたな」

「……」


凛は、その質問には答えなかった。

答えない代わりに、彼女は自分のコーヒー牛乳のパックを投げ入れた、ゴミ箱のほうを軽く見ていた。


「……答えたら、たぶん今、私のほうの一番大事な前提、ぶっ壊れるから」

「……」

「藤宮の前提と、おそろいで壊れるの、なんか悔しいから、今日は答えない」


そう言って凛は、自分の短いボーイッシュな黒髪を、もう一度軽く耳の後ろにかけた。


夕方の光の中で、彼女の横顔は、いつもの不愛想な凛と、ほとんど同じ角度だった。

ほとんど、同じ角度だったけれど、その「ほとんど」の一番端のところに、たぶん、生まれて初めての、彼女の別の表情が、ほんの少しだけ滲んでいた。


俺は、それに気づきながら、気づかないふりをして、彼女の差し出した、淡い水色のハンカチをゆっくり受け取った。


受け取りながら、心の中でこう思った。


——「誰にも、知られなくていい」が終わる、ということは。

たぶん「ひとりにだけ、知られてもいい」が始まるということでは、なかった。

本当は、「気づかないうちに、自分のことを、ずっと見ていてくれた、もうひとりの人」のことも、ちゃんと見るようになるということ、なのかもしれなかった。


凛のハンカチは、ほんの少しだけコーヒー牛乳の甘い匂いがした。


俺は、それを自分の通学カバンの一番取り出しやすい、外ポケットにしまった。

しまいながら、ポケットの上からもう一度、手のひらで軽く押さえた。


「……明日、たぶん、廊下通る」

「うん」

「廊下通って、たぶん、もう一回、何か教室で彼女と話す」

「うん」

「話して、たぶん『正解』には、触れない」

「うん」

「ただ、入り口だけは開ける」

「……うん」

「凛、ありがとう」

「うん」


凛は、それ以上、何も言わなかった。


夕方の踊り場の、ゆっくり傾いていく光のなかで、俺たちは、しばらく、何も言わずに同じ景色を見ていた。


その景色の中には、たぶん、もう「誰にも知られなくていい」と言っていたころの、藤宮陽人はいなかった。


代わりに、まだ名前のついていない、別の自分が、ひとり踊り場の段差に座っていた。


そして、その自分の隣の段差に。

たぶん、もうひとり——黒澤凛、という女の子の、まだちゃんと向き合えていない、新しい横顔がいた。


俺は、それに気づきながら、まだ気づかないふりをもうしばらくだけ、続けることにした。


——「誰にも知られなくていい」の終わり方は。


たぶん、ひとりの女の子に、自分の正体を白状するよりも、ずっと静かで、もっと複雑な形をしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ