感動VS了
感動は与えられるものだろうか。別に、そんなことどうでもいいのかもしれない。でも、ぼくにとっては、どうでもよくないのだ。ぼくは考える。
感動は自分でするものだろう。誰かに与えられている時点で、それは自分のものにはならない。自ら、感動は吸収していったほうがいいと思う。与えられた感動は、最近は特に、涙の映像が多い。
宣伝効果があるのだろう。だから、感動で人の心を惹きつける。そんな大衆から、お金を取ろういう魂胆なのだろう。商売とは、総じて卑しいことなのかもしれない。誰かから、お金を貰うには多少、詐欺の一歩手前くらいのことは平気でやっておかないと商売として成り立たないのだろう。そんな鈍感な人がお金を稼いでいるのだ。
そして、鈍感であれば、なにかに敏感であるということだ――これも表裏一体。鈍感であるということは、敏感であるということで、敏感であるということは鈍感であるということ。
誰でも、鈍感なところがあれば、敏感なところはあるだろう。ある感動に敏感な人が、他の感動に鈍感なように――きちんと、プラスマイナスはゼロになるようにできている。もしかすると、その認識は、ぼくの早とちりかもしれないが。
ぼくは、わからない。わからないということを、わかるということぐらいだけわかる。そういうことだ。
誰かにとっての感動は、誰かにとっての迷惑だったりするわけで、そんな気持ちに左右される人間にはなりたいはない。ぼくは、そんな与えられた感動より、するべきことはあるはずだと信じている。
それは自分で見つける他ないのだけれど。でも――一度見つければ、一生の財産になるかもしれない。財産以上の財産になるかもしれない。絶対的なものになるかもしれない。
きっと、ここまで読んできて、しょうもないと感じている人はいるだろう。その通り。文章を読むことはしょうもないことだらけだ。その中で、価値ある文章を拾っていくのが、あなただろう。
いつもそうやって、過ごしてきたはずだ。誰かが言ったからではなく――自分自身の評価眼で、色々なものを見てもらえたら、よろしいと思う。それができるようになれば、きっと、あなたは、寂しくない。ひとりでも、大丈夫だ。
誰かの評価を気にしたり、みんなに受けの良い感動で、涙を流したりはしなくなるはずだ。自分自身が感じたことを、率直に、言葉にすればいい。そんな人間が増えれば、もっと、世界が平和になることは間違いない。
嘘で成り立った世界で、今日もぼくはやつと戦っていた。




