自由VS了
自由には不自由がつきもので、不自由には自由がつきものだと――そんな言葉でわかったような気になる人がいる。ぼくだ。
自由になりたい人は、自由になったら、もっと自由にならないと、自由になれないものだ。不自由な人は、自由になり過ぎた人かもしれない。それぞれの人が、それぞれの環境に適応して、その中で自由になろうとしている。
しかし、自由になったあとに待ち受けるのは、不自由な未来だ。思い通りになる世界なんて、ないに等しいだろう。むしろ、思い通りにならないから、思い通りになったときにやり甲斐を感じるのであって、思い通りになり過ぎると、自由ではないだろう。
なるほど。この世は、なにもかもが表裏一体なのかもしれない。自由と――不自由が表裏一体であるように、お互いが関係し合っている。正反対のようで、全く同じなのかもしれない。
好きは、嫌いってことでもあるのだろう。弱さは強さになるし、優しさは厳しさにもなる。
なにもかもが表裏一体。なにもわかることなどなく、なにもかも考えるより前に終結している。答えは、いつもだれかの中にある。
そんな巫山戯た世界で、なんとなく、ぼくはここにいた。なんとなくいただけなのに、自由は、そんなぼくに話かけてきた。
自由は、なんにも言わなかった。いや、少しは言った。自由もなにかを言って自由になりたかったのだろう。少しはなにかを言ったあと、どこかに行って自由になった。
ぼくは自由になりたかった。でも、自由になるには、いまある予定を犠牲にしなければならない。しなくてはならないことはないはずだ。
自由があるから不自由があって、不自由があるから自由がある。なら、なにをしても無駄だ。もしくは、なにをしても無駄じゃない。
そんな戯言を思いつく。巫山戯ている。なにを言っても無駄で、なにを言わなくても無駄で、なにを言わなくても無駄じゃなくて、なにをいわなくても無駄だ。
結局は、思い通りにしかならなくて、思い通りにならない。そんな世界を今日も、ぼくはなんとなく生きていこう。今日も、やつはぼくの前に現れた。
自由は――現れた。
何度も戦った。何度も勝った。何度も負けた。シンドイ思いを何度もした。楽な思いを何度もした。何度も怒りの涙を流したし、何度も怒りの涙を流さなかった。死にたいと思ったこともあったし、生きたいと思ったこともあった。なにをしても無駄で、ぼくは不要は存在なのだと思ったし、なにをしても無駄じゃないとも思った。だって、いずれ、みんな死ぬのだ。無駄とか、無駄じゃないとか、そういう次元を超えている。
何度も、ぼくは自由になった。自由に勝ったし、自由になれなかった。そして、自由に負けた。そんな毎日を過ごした。




